太政大臣 明治時代の太政官制における太政大臣

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太政大臣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/30 05:25 UTC 版)

明治時代の太政官制における太政大臣

明治政府
太政大臣
だじょうだいじん
Prime Minister of Japan
菊紋章
担当機関太政官
任命天皇
明治天皇
創設1871年9月13日
初代三条実美
廃止1885年12月22日
俸給月額 800[3]

この「太政大臣」は、つねに「だじょうだいじん」と読む。王政復古のあと、新政府は、数次の改組を経たのち、明治4年(1871年)7月、正院左院右院の3院と外務省以下8省からなる太政官が設置されて一応の制度的確立をみた。

正院は、天皇の親臨を前提に、天皇を直接補佐する政府の最高機関であったが、その長官として太政大臣が設置された。任命されたのは、維新の元勲のひとりとして重んじられ、一貫して政府高官の地位を維持していた三条実美であった。この太政大臣は律令下のものと異なり天皇の代行者としての役職であり、「万機条公に決」される体制を目指したものであった(「条公」とは三条実美を指す)[4]。正院はこの太政大臣と、太政大臣を補佐する左大臣・右大臣・大納言、そして木戸孝允薩長土肥出身の実力者である参議によって構成された。左右大臣は当初設置されず、大納言として岩倉具視がその任にあたった(10月8日に右大臣に昇格)。ただし太政大臣としての三条の役割は自ら政策を主導したわけではなく、調整役やバランサーとしての活動が主であった[5]明治六年政変では三条は西郷隆盛ら征韓派と反対する木戸・岩倉の調整に苦慮するあまり発病して人事不省に陥り、一時的に岩倉が太政大臣摂行(代理)に任じられた。政変の後、大久保利通が政府の実権を握ると、三条はほとんど大久保の意見に従っていた[6]。大久保の暗殺以降は伊藤博文の独壇場となり、三条も概ね伊藤を支持していた。

1885年明治18年)12月、太政官制が廃止されて内閣制度が発足すると、太政大臣の官職も消滅し、1,200年以上にわたったその歴史を終えた。三条も14年にわたったその任を離れ内大臣に転じた。


注釈

  1. ^ 一代要記』は同年4月6日(1302年5月4日)とする。
  2. ^ これは宣旨に記載された日付で、実際は同年3月21日1616年5月6日)に任大臣宣下の陣儀が行われた。
  3. ^ これは宣旨に記載された日付で、実際は同年9月12日1626年10月31日)に任大臣宣下の陣儀が行われた。

出典

  1. ^ 早川庄八「律令制の形成」、『岩波講座日本歴史』第2巻(古代2)、216頁。
  2. ^ a b 長坂良宏「近世朝廷における太政大臣補任の契機とその意義」『近世の摂家と朝幕関係』吉川弘文館、2018年。
  3. ^ 「官員録」西村隼太郎、西村組出版局、1875年
  4. ^ 内藤一成 2019, p. 145-146.
  5. ^ 内藤一成 2019, p. 147.
  6. ^ 内藤一成 2019, p. 178-198.
  7. ^ 園太暦
  8. ^ a b 年月日は『花山院家譜』による。


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