日本の宇宙開発 日本の宇宙開発の概要

日本の宇宙開発

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/05 06:44 UTC 版)

Jump to navigation Jump to search
日本を代表するロケットH-IIA

日本の宇宙開発は1950年代の半ばに糸川英夫が大学の研究班で始めた。30cmほどの小型ロケットから始まった研究であったが徐々に大型化し、人工衛星を打ち上げる研究を行うようになった。衛星を打ち上げるようなレベルに到達した頃、国も宇宙開発専門の機関を設置した。以来研究室から始まった宇宙科学研究所(ISAS)と国の機関である宇宙開発事業団(NASDA)の二つの宇宙開発機関が独自にロケットの開発を行ってきた。1990年にスーパー301条で商用衛星が競争入札になり、1990年代末から2000年代の初めに幾つかの失敗を経験した後、初めて統一された宇宙機関である宇宙航空研究開発機構(JAXA)が設置された。

他国の発展方法と違い、小型のロケットが徐々に拡大した点や、大学が国より早く開発を始めた点など開発の経緯が特徴的である。現在は、機関の統一による予算削減など厳しい財務状況の中で開発を行っている。

歴史

黎明期

糸川英夫(1961年撮影)、後方に電離層測定器の模型が見える

日本ではかねてより、元寇の時に伝来した黒色火薬を使用するロケットが龍勢として各地に伝えられていた。

近代的な日本のロケット開発は戦前の1931年にさかのぼることができ、兵器開発の一環として外国からの十分ではない資料を元に、陸海軍の噴進砲や桜花などの固体燃料ロケットや、イ号ミサイル秋水などの液体燃料ロケットの開発などが行われた。戦後ロケット開発に協力することになる村田勉などもこれらの研究に携わっていたが、これらは終戦後に一度断絶する[1]

宇宙開発としての黎明は東京大学教授であった糸川英夫によるものであった。第二次世界大戦後、日本は航空機の技術開発を禁じられ、第二次大戦中の航空技術者たちは多くが職を失っていたが、サンフランシスコ平和条約締結後、再度航空技術の開発が出来るようになった。7年間の断絶の間に日本の航空宇宙技術は大きく損なわれていた[2]。糸川は東京大学生産技術研究所に航空技術の研究班を設置し、1955年4月には国分寺市で長さ23cm、直径1.8cmのペンシルロケットの水平発射実験をおこなった[3]。これが戦後日本の最初のロケット実験とされている。このロケットは当初はロケット航空機の開発と関連したものであり、国際地球観測年の会議をきっかけに地球観測のためにロケットを打ち上げることになる[4]。1953年に糸川が予定を切り上げ米国から帰国する時から有人宇宙開発は念頭にあった。

初期

糸川はロケット開発において大きなものを小さくして実用化した米ソとは対照的に小さなロケットを大きくする計画と立てた。ペンシルロケットは当初水平発射を行っていたが、徐々に大型化すると、都市近郊での実験は危険になったため、秋田県の道川海岸へ移動し、打ち上げ実験をすることになった[5]。ペンシルロケットの後、一回り大きいベビーロケットを開発し、最終的に高度6kmまでとどくようになった。ベビーロケットのあとは、気球からの発射を行うロックーンの計画と地上から打ち上げる計画が同時に行われたが、ロックーンは開発に難航し廃れていった[2][6]。地上発射型のロケットではカッパロケットが徐々に到達高度を伸ばし、このロケットは気象観測などにも使われ、1958年には国際地球観測年に情報を提供した。この時代のロケットは開発資金がなかったため、手作りであり、追尾レーダーも手動であった。いずれも失敗を繰り返しながら試行錯誤で生産され、多くのタイプを生み出した。

1958年、カッパロケットの6型は高度40kmに到達し、これによって日本は自力での観測データを持ってIGYに参加することができた。1960年、カッパロケット8型は高度200kmを超えた。当初秋田で行われていたが、飛距離の問題などからロケットの打ち上げ場所を太平洋に開いた内之浦に移動し、以前より大型のロケットの実験を行うようになった。

おおすみの打上げ

日本初の衛星、おおすみ

1960年代にはこれまでに採取されていた情報から『人工衛星計画試案』が立てられた。これに伴ってカッパロケットの後継となったラムダロケットの開発が始まり、打ち上げに関する技術情報は小型のカッパロケットから取りつつ、より高高度への打ち上げを行うためにロケットの研究が行われた。

1963年に科学技術庁は航空宇宙技術研究所を設置した。航空宇宙技術研究所では宇宙技術の基礎的研究を行っており、このころから国も宇宙開発に徐々に力を入れ始めている。航空宇宙技術研究所は設備の不十分から宇宙技術の開発は行わなかったため、航空技術のみが航空宇宙技術研究所に切り離され、1964年科学技術庁は別の機関として「宇宙開発推進本部」を設置している[2]

東京大学では宇宙航空研究所が設立された。ラムダロケットの開発は徐々に改良を加えながら進み、高度2000kmに達するまでになり、衛星の打ち上げが現実に近づいていた。当時、ロケット開発において誘導制御が軍事技術になると日本社会党に指摘されたため(実際に日本の宇宙開発は、カッパロケット由来の技術が海外で軍事転用されるという、甚大な国際トラブルの火種になりうる危険が十分にあった事件を起こしている)日本最初の人工衛星は無誘導での軌道投入を目指した。ロケットが遠くに飛ぶようになると近海で漁を行っていた漁業関係者との間で論争が起こり、一時停滞した。また、ラムダロケットによる軌道投入も4回も続けて失敗した[2]。これはロケットを分離する際に、燃料の少量の残りが燃料となって下の段が上の段に追突し、揺さぶることが原因だった。これらによって得られた情報でさらにロケットを改良した。

1970年2月11日、全段無誘導のL-4Sロケット5号機によって日本初の人工衛星おおすみの打ち上げに成功した。ここまで国内技術だけで、ロケットと人工衛星の打ち上げに成功した。日の丸の小旗をもって待機していた町の人々は打ち上げ成功の喜びに沸いた[7]。おおすみの信号は追跡に協力したアメリカによっても捕らえられたが、電池が高温で電力を失い、翌日までにはおおすみからの信号を捕らえられなくなった[8]。おおすみ自身は宇宙航空研究開発機構が設立される直前まで軌道上に存在した。

成功と発展

衛星の打ち上げ以前から存在していた宇宙開発推進本部は1969年10月1日に科学技術庁の特殊法人宇宙開発事業団として組織化された。前身の推進本部時代には当初防衛庁の施設があった新島で実験を行っており独自のロケット基地を持とうとしたが、おりしも安保闘争の時代であり、防衛庁のミサイル基地への反対運動が起こったため種子島をロケット発射基地として移転した[2]。宇宙開発事業団は商用ロケットの実用化のために、固体燃料よりも液体燃料のロケットを求め、技術習得を急ぐため米国からの技術供与を受け、N-Iロケットを打ち上げた。[9]このロケットはこれまで日本で独自に開発されてきた固体燃料ロケットとは違い、一部が液体燃料であり、これに連なるロケット群も液体燃料を利用することになった。宇宙航空研究所の宇宙開発は科学技術研究の要素が高く、宇宙開発事業団は商用ロケットや商用衛星の開発に力を入れた。

以来、文部省の所管であった東京大学宇宙航空研究所と科学技術庁の所管であった宇宙開発事業団はお互いに独自に開発を進めていくことになった。科学技術庁側の一元化の主張に、文部省は実績と大学自治で対抗した。この問題は科学衛星の打ち上げは宇宙航空研究所が行い、1.4mより大型のロケットは宇宙開発事業団が行うという線引きで決着した[10]。東大研究班は1981年に文部省の国立機関である宇宙科学研究所(ISAS)になる。しかし、以降も文部省と科学技術庁は綱引きを行いながら宇宙開発を進めていく。

ハレー艦隊に参加したさきがけ

1970年代に入るとより精度の高いロケットの開発が始められた。おおすみを打ち上げたL-4Sの技術を元にミューロケットの初期型であるM-4Sロケットが開発された。1号機は失敗したものの、その後は3機続けて人工衛星の軌道投入に成功し、ミューロケットの土台となった。この後、システムを簡易化するためにミューロケットは4段から3段へと変更を行い、誘導制御とロケットの強化を行ったM3-C型に改良した。M3-C型は4機打ち上げられ1機は失敗したものの3機の軌道投入に成功した。さらにM3-Cの1段目を長くして推力を挙げたM3-H型で3機、全段が誘導可能になったM3-S型で4機の衛星の打ち上げを連続して成功させた。徐々に軌道投入が正確になり、高いところへの投入が可能になって行った。

これらのロケットによって技術試験衛星たんせいなど多くの科学衛星が打ち上げられ、宇宙科学研究所は衛星に対する情報と技術を蓄えていった。また、きょっこうおおぞらのような大気観測衛星、はくちょうひのとりのようなX線天文衛星が活躍した。宇宙科学研究所のロケットの開発はM-3SIIロケットで一段落を終えた。このロケットは全段固体燃料のロケットとしては初めて、衛星を地球の重力圏から離れるまで持っていき、さきがけすいせいハレー艦隊に参加させた。M-3SIIロケットは確立した技術として続々と衛星を打ち上げていった。

更なる開発へ

より大型の固体ロケットの開発は一足飛びには進まなかった。宇宙科学研究所は政府に対して今後10年程度は技術的にロケットの直径を1.4m以上に大型化できないだろうと言う予測を報告し、宇宙開発事業団ともこの大きさで線引きをしており、さらに国会が制限をかけたため、大型化が困難になったためである[10]

宇宙開発事業団は初期には独自の液体ロケットの開発を行う予定であったが、差し迫った実用・商業的なロケットの必要性から、アメリカと日米宇宙協定を結び米国からの技術導入の運びとなった。アメリカのデルタロケットの1段目液体エンジンを利用し、国内で開発を行っていたLE-3を2段目に設置した液体ロケットの計画を始めた。こうしてN-1ロケットが開発された。しかし、最初の液体ロケットとなったN-Iロケットは軌道への投入能力が低く、衛星を製作する能力も米国に劣っていた。このため、1977年には米国からの技術移転で作られた静止気象衛星ひまわりをアメリカのロケットで打ち上げた[11]。また、さくらゆりなども米国のロケットで打ち上げてもらった。N-Iロケットは製造技術と管理手法のみの技術取得であったが、こまめに記録を取り、宇宙開発事業団は徐々に技術を身につけ、衛星でもひまわりの2号機以降は国産化率を高めていった。

これ以降、宇宙開発事業団は大型化する衛星の要求を満たすためにN-Iロケットの後継であるN-IIロケットの開発を始め、2段目はノックダウン生産に変え、300kg近いひまわり2号を静止軌道に投入することに成功した。これらのロケットはアメリカデルタロケットライセンス生産やアメリカ部品のノックダウン生産でありロケット自体は非常に質のよいものであったが、衛星のアポジモーターなどはブラックボックスになっており失敗したときに改善するにも情報がなかなか手に入らなかった。このため、ロケット全体を自主開発することが必要となり国産での開発を始めた[2]。新しく開発されたH-Iロケットは独自で研究開発を行った液体燃料ロケットLE-5エンジンを実用化し、2段目をこのロケットエンジンに変えた[11]。LE-5は再点火できることが特徴でこの特長によりN-IIより強力になり、H-Iロケットの静止軌道への投入能力は500kgを超えた。

宇宙開発事業団の生産したロケットは多くが商業衛星を打ち上げるために使われ、急速に増えた通信衛星や放送衛星、気象観測衛星などを打ち上げていった。H-Iロケットは9機生産され、そのすべての打ち上げに成功しており、日本で初めて複数の衛星の同時打ち上げに成功した[11]

日本は有人宇宙飛行のための開発を行っておらず、NASAの協力で毛利衛が日本人としてはじめて宇宙に行く予定であったが、シャトルの事故によって、1990年に民間人であった秋山豊寛が日本人として最初に宇宙に行くことになった。また、彼は民間人として初めて宇宙に行った人間にもなった。

大型ロケット開発成功と諸問題

M-Vロケットの打ち上げリハーサル

宇宙開発事業団はLE-5エンジンを成功させ、日本国内での技術が進捗したことも鑑み、国内技術をより高めるために純国産液体燃料ロケットを開発することを決めた。開発は1984年から始められた。H-IIロケットはすべてを一から再設計したものである。1段目のエンジンも完全国産を目指し、その開発は難航した。日本が新型の1段目として開発していたLE-7ロケットエンジンは、高圧の水素・酸素ガスの燃焼を利用するもので、振動による部品破損や、材料の耐久性などの問題を解決するのに時間がかかった。水素が漏れることによる爆発も起きた。固体ロケットブースターには宇宙科学研究所で研究が続けられてきた固体ロケットの技術を生かすことになった。開発には10年かかり、H-Iの最後の打ち上げから2年後の1994年に1号機を打ち上げることになった。2月3日に打ち上げる予定であったが、フェアリングの空調ダクトが発射台から落ちたために1日延期し、2月4日に液体ロケットとしては初めて完全国産となったH-IIロケットの1号機が打ち上げられた[2]

一方、宇宙科学研究所は1989年の宇宙開発政策大綱の変換でより大型のロケットの開発が可能になり、固体燃料ロケットで惑星探査が出来るロケットの開発を1990年から始めた。こちらもロケットモーターの開発で問題が発生した。開発が長引き、M-3SIIロケットの最終飛翔からやはり2年後の1997年にM-Vロケットが完成した。ロケットの空白期が生まれたために、火星探査機のぞみは打ち上げを2年延期することになった。

こうしてロケットの開発が進んだ日本であったが、1990年(平成2年)には米国貿易政策「スーパー301条」が適用され、日本が国内で使用する実用衛星も国際競争入札にしなければならなくなった。これによって実用衛星の打ち上げに関しては、より安価に打ち上げることの出来る米国製のロケットが多くを持っていき、また、少数生産で高コストの国産衛星は、大量生産で低価格の欧米の商用衛星に敵わず、ひまわり5号の後継機は米国製の完成品購入になった[2]みどりのような環境観測のための衛星や[12]はるかのような天文衛星など科学衛星や実験衛星は日本のロケットで打ち上げられることがほとんどであり、これらの衛星は大きな成果を上げた。しかし、商用衛星の打ち上げが海外に流れたことは現在に至るまでロケットの商用打ち上げの実績を積むことができない理由ともなった。

また、1990年代後半から2000年代初めにかけては新たに開発した大型ロケットで躓くことになった。H-IIロケットの5号機8号機が連続で打ち上げに失敗し、M-Vロケット4号機も打ち上げに失敗[11]。火星探査機のぞみは軌道投入に失敗した。これらの失敗と折からの行政改革の動きが重なり、宇宙機関の統合が政府で提案されるようになった。組織間の連携の強化、機能の重点化、組織体制の効率化などを行う計画が立てられ、宇宙開発事業団は、H-IIロケットの打ち上げ失敗を反省してロケットの再設計と簡素化を行い、2001年H-IIAロケットの初打ち上げを成功させたが、2003年10月1日に宇宙科学研究所(ISAS)、宇宙開発事業団(NASDA)、航空宇宙技術研究所(NAL)が統合され、文部科学省の下で宇宙航空研究開発機構(JAXA)が発足した[13]

機関統合後

はやぶさの帰還は大きな話題を呼んだ。

宇宙航空研究開発機構(JAXA)設立直後のH-IIAロケット6号機の打ち上げは失敗したものの、その後は成功を重ねた。さらに2009年には、より搭載能力の高いH-IIBロケットによる宇宙ステーション補給機(HTV)の打ち上げも成功させ、国際宇宙ステーション(ISS)への物資の補給を初めて成功させた。また同年にはISSで最大の実験棟となるきぼうの運用も開始された。2013年秋に、M-Vロケットの後継の固体燃料ロケットのイプシロンロケットの初号機が打ち上げられた。一方で、初の商業打ち上げとなった2012年のH-IIA21号機によるアリラン3号の打ち上げ以来商業受注を再び指向するようにもなっている。

衛星分野に関して言えば、1990年の日米衛星調達合意以降、国内で打ち上げる人工衛星の多くが官製の科学衛星や実験衛星になったため、この分野の技術力が強いものとなっていった。気象衛星のひまわり7号の標準衛星バスDS2000きく8号に使用された衛星バスを発展させることによって開発されたもので、これによりコストを下げることができ、再び国産で気象衛星を打ち上げることができるようになった。また標準衛星バスのNEXTARを開発したことで、基礎部分をある程度共有するセミオーダーメード型の衛星の実現が可能になり、安価で迅速な開発も可能となり、小型科学衛星(SPRINTシリーズ)や実用リモートセンシング衛星(ASNAROシリーズ)を多く打ち上げる計画も立ち上げられている[14]

近年で最大の成功ははやぶさの帰還と言える。工学実験を主目的に作られたはやぶさは、2003年内之浦宇宙空間観測所からM-Vロケットで打ち上げられ、2005年に小惑星イトカワを探査、打ち上げから60億kmの飛行を経て2010年に地球に帰還した[15]。イトカワへの 着陸時にトラブルがあったため、小惑星の試料を採取できていない可能性が高いとされていたが、帰還させたカプセルの中に小惑星の試料が入っており、これによってはやぶさは世界で初めて小惑星から試料を持ち帰った探査機になった[16]

現在

1998年の北朝鮮のミサイル実験以降、過去には行われてこなかった情報収集衛星[注釈 1]の打ち上げやミサイル防衛など防衛目的での宇宙利用が行われるようになった。また、冷戦終結後は欧州や中国、インドなど各国の宇宙開発の進展によって国際環境が変化したことで日本独自の宇宙開発の意義も変化。さらに、研究開発や科学だけでなく商用や産業の発展などの実用への活用の要求や、宇宙開発に協力する国内民間企業への恩恵の少なさなどが日本の宇宙開発の課題となっていた。

このような問題に対応するため、宇宙開発の中心を文部科学省から関連省庁の垣根を越えた内閣総理大臣の責任の下に移すことが考えられるようになり、2008年宇宙基本法が制定された。これによって法的に内閣の下での宇宙開発の計画管理の一元化の道筋が立ち、防衛利用の法的根拠等も整備された[17]。制定後、内閣宇宙開発戦略本部内閣府宇宙政策委員会宇宙開発推進戦略事務局が相次いで設置された。従来、文部科学省の宇宙開発委員会が行っていた計画管理も内閣府の宇宙政策委員会に移り、新しい宇宙開発計画体制が構築された。従来の日本の宇宙開発体制では、JAXAを所管していた文部科学省が力を持っていたが、これらの組織の発足により経済産業省も力を持ち始めるのではないかと推測されている。

政策

目標

日本は「安全で豊かな社会」を実現するために積極的に宇宙航空技術を利用したいとしている。JAXAの長期ビジョンによると[18]

  • 自然災害、環境問題に役立つシステムの構築
  • 惑星、小惑星探査の高度化と月利用のための技術研究
  • 安定的輸送のための信頼性の向上、有人宇宙活動関連の研究
  • 宇宙産業の基幹産業化

などが盛り込まれている。

予算

2008年の宇宙基本法の施行以降は内閣を通して予算の分配を行っており、平成21年度(2009年度)以降は当初予算と補正予算の合計で3000億円程となっている[19][20]

科学目的が第一義だったことや、国内の人件費の高さなどから打ち上げのための費用は高いとされる[21]。これらの条件から商業打ち上げに関しては先進的とはいえない。H-IIAも増産に繋がるような大型衛星の打ち上げは受注が出来ていない。しかしながら、予算の効率的な利用などのため低コスト化は推進されており、H-IIAはH-IIに比べ打ち上げコストを下げる努力が行われた。打ち上げ費用はH-IIでは190億円程度だったものがH-IIAでは120億円〜80億円程度に低下している。現在、ペイロードでは劣るものの、より低価格で打ち上げが可能なイプシロンロケットが運用されており、同機は打ち上げに向けた機体の自己チェックなどの省力化が進められている。

JAXAの予算は三機関統合や宇宙開発の予算に情報収集衛星の予算も加えられたことなどから、減少傾向にある[22]。JAXAの年間予算は2010年に約1800億円、人員は約1600名であり、アメリカ航空宇宙局(NASA)の約10分の1、欧州宇宙機関(ESA)の2分の1以下である[23]。海外の軍用衛星の費用も含めた宇宙開発費全体と比べると、2005年の時点で米国の15分の1以下、欧州諸国の3分の1以下の規模に過ぎないとされる[24][注釈 2][注釈 3]

人的資源が高額であること、商業的に成功していないことなどを鑑みれば、海外に比べ資金繰りで不利といえる。このため、試験機を飛ばすことや失敗も難しい状況であり、節約のための設計が問題を招く例もある。たとえばSRB-Aは初期にはロケットノズルを安価に生産できる円錐型にしていたが、安全性のため現在では釣鐘型に変えられている。官需が少なく、民需も取り込めていない現状では、民間企業が宇宙産業から手を引き、将来的に部品の調達が難しくなる可能性があるとされる[25]

広報

現在のひまわり

JAXAは宇宙開発について理解を得るために国民や民間事業者にネットなどを通した情報開示を行っているほか、刊行・印刷物やネット通信、施設公開など多様な手段での広報、双方向的な交流の仕組み作りなど広報活動の拡大に取り組んでいる。メディアに取り上げられる回数も増え、結果として予算を大きく拡大せずに認知度の向上やマイナスイメージの減少につなげている[26]

JAXAの広報施設には宇宙科学技術館が存在する。東京ではJAXAiが存在したが、2010年に閉館されている[27]

ロケットの発射を見るため射場に訪れる人は多く発射時には町が活気付いている[28]。現在はインターネットによる打ち上げ中継なども利用されている。




注釈

  1. ^ 2003年から保有している事実上の偵察衛星
  2. ^ なお、宇宙開発事業団(NASDA)の時代から、NASAの10分の1、欧州の2分の1であった[2]
  3. ^ 欧州は各国独自の衛星開発なども行っている。
  4. ^ 実用衛星の国際競争入札化

参照

  1. ^ 的川泰宣 (2001年2月). “戦前の日本のロケット研究”. ISASニュース. 宇宙科学研究所. 2015年6月20日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j 五代富文 『国産ロケット「H-II」宇宙への挑戦』 徳間書店、1994年4月30日ISBN 4-19-860100-3
  3. ^ 国分寺市からロケット発射”. 国分寺市. 2011年1月20日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2011年1月17日閲覧。
  4. ^ ある新聞記事”. ISAS. 2011年1月30日閲覧。
  5. ^ 日本発のロケット発射実験”. 由利本荘市?. 2011年1月17日閲覧。
  6. ^ 六ヶ所村のミニ地球”. 宙の会. 2013年1月11日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2011年1月25日閲覧。
  7. ^ 栄光のラムダ”. ISAS. 2011年1月17日閲覧。
  8. ^ 2月7日に国立科学博物館で「おおすみ」40周年記念シンポジウム”. Astro Arts. 2011年1月17日閲覧。
  9. ^ N-Iロケット”. 宇宙航空研究開発機構. 2011年1月17日閲覧。
  10. ^ a b 第051回国会 科学技術振興対策特別委員会宇宙開発に関する小委員会 第2号”. 国会. 2011年1月25日閲覧。
  11. ^ a b c d e 野田昌宏 『ロケットの世紀』 NTT出版、2000年3月27日ISBN 4-7571-6004-6
  12. ^ 原島 省. “衛星「みどり」による海洋観測”. 国立環境研究所. 2011年1月25日閲覧。
  13. ^ a b 宇宙3機関の統合について”. 文部科学省研究開発局 (2003年6月14日). 2013年1月27日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2011年1月25日閲覧。
  14. ^ SPRINT(小型科学衛星)シリーズの計画概要”. 宇宙航空研究開発機構 (2010年7月21日). 2011年1月26日閲覧。
  15. ^ 「はやぶさ」帰還”. 日本経済新聞. 2011年1月17日閲覧。
  16. ^ Spacecraft Successfully Returns Asteroid Dust”. science. 2010年11月20日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2011年1月29日閲覧。
  17. ^ a b 宇宙基本法の成立で日本の宇宙利用はどう変わる?”. webR25 (2008年6月19日). 2011年1月25日閲覧。
  18. ^ JAXA2025/長期ビジョン”. 宇宙航空研究開発機構. 2011年1月17日閲覧。
  19. ^ 平成27年度概算要求における宇宙開発利用関係予算について(省庁別集計)”. 内閣府宇宙戦略室. 2016年3月5日閲覧。
  20. ^ 平成28年度概算要求における宇宙開発利用関係予算について(省庁別集計)”. 内閣府宇宙戦略室. 2016年3月5日閲覧。
  21. ^ 「こうのとり」宇宙へ H2B2号機の打ち上げ成功”. asahi.com (2011年1月22日). 2011年1月23日閲覧。
  22. ^ 職員数と予算の推移”. JAXA. 2016年3月5日閲覧。
  23. ^ 宇宙航空研究開発機構(JAXA)の事業と今後の課題について”. JAXA (2010年3月16日). 2011年1月29日閲覧。
  24. ^ 参考資料”. JAXA2025. JAXA (2005年3月31日). 2011年1月29日閲覧。
  25. ^ 松井孝典 (2010年4月20日). “今後の宇宙政策の在り方に関する 有識者会議 提言書”. 首相官邸. 2011年2月1日閲覧。
  26. ^ 国立研究開発法人 宇宙航空研究開発機構における平成26年度に係る業務の実績概要”. p. 20. 2011年1月29日閲覧。
  27. ^ JAXAi閉館 宇宙情報を発信したが仕分けで廃止”. asahi.com (2010年12月29日). 2011年1月29日閲覧。
  28. ^ ほっとするニュース:種子島 ロケット特需で「街に活気」来年度は4機打ち上げ”. 毎日jp (2011年1月22日). 2012年7月14日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2011年1月29日閲覧。
  29. ^ 宇宙開発3機関 統合へ 文部科学省15年度めど 効率重視,30年ぶり”. 奈良県高等学校理化学会物理部会. 産経新聞 (2003年6月14日). 2011年1月25日閲覧。
  30. ^ 宇宙開発に関するプロジェクトの評価指針 評価実施のための原則”. 文部科学省. 2011年1月31日閲覧。
  31. ^ 檜原弘樹 (2006年3月28日). “設計品質確保の思想 ――航空宇宙エレクトロニクスに学ぶ「信頼性設計」”. tech village. 2011年1月31日閲覧。
  32. ^ 世界におけるロケットの現状”. JAXA (2004年3月25日). 2011年1月31日閲覧。
  33. ^ 平成23年 世界の宇宙インフラデータブック ロケット編 社団法人 日本航空宇宙工業会 Archived 2014年8月14日, at the Wayback Machine.に更新分を換算した。
  34. ^ LNG推進系の研究開発について”. 宇宙航空研究開発機構 (2010年3月31日). 2011年1月31日閲覧。
  35. ^ a b 現在進行中のプロジェクト/プリ・プロジェクト”. 宇宙理学委員会. 2011年1月19日閲覧。
  36. ^ 気象庁から「静止地球環境観測衛星(ひまわり8号及び9号)」を落札”. 三菱電機. 2011年1月24日閲覧。
  37. ^ 日本のX線天文衛星の歴史”. JAXA. 2011年1月23日閲覧。
  38. ^ 温室効果ガス観測技術衛星「いぶき」(GOSAT)による観測データの解析結果(二酸化炭素・メタン濃度等)の一般提供開始について”. JAXA. 2010年2月16日閲覧。
  39. ^ JAXA、衛星「きずな」を利用した遠隔医療の実証実験”. TechTargetジャパン (2010年12月2日). 2011年1月25日閲覧。
  40. ^ 日本版GPS、衛星7機体制へ…精度10倍に”. 読売新聞 (2011年1月5日). 2011年1月7日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2011年1月17日閲覧。
  41. ^ 「はやぶさ」カプセル公開に1.3万人 最長3時間待ち”. asahi.com (2010年7月30日). 2010年8月3日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2011年1月23日閲覧。
  42. ^ 回収機能付加型宇宙ステーション補給機(HTV-R)検討状況”. 宇宙航空研究開発機構 (2010年8月11日). 2011年1月31日閲覧。
  43. ^ 水星探査計画「BepiColombo」”. JAXA. 2011年1月20日閲覧。
  44. ^ 日本初の月面着陸機、30年度に打ち上げへ”. 産経ニュース (2015年4月19日). 2015年4月19日閲覧。
  45. ^ 「H3」ロケット開発を正式決定、三菱重工中心に効率も追求 産経ニュース 2013年5月30日
  46. ^ 資料14 わが国における宇宙の開発及び利用の基本に関する決議、1969年(昭和44年)5月9日衆議院本会議、平成2年版防衛白書
  47. ^ 浜田防衛相、早期警戒衛星の保有を検討”. 日テレ24news (2003年4月9日). 2011年1月31日閲覧。
  48. ^ 松浦晋也 (2006年5月31日). “低コスト化で岐路に立つM-V”. nikkeiBPnet. 2011年1月26日閲覧。
  49. ^ 松浦晋也 (2003年3月14日). “解説:情報収集衛星、宇宙開発事業に甚大な悪影響”. ISASニュース. nikkeiBPnet. 2011年1月31日閲覧。
  50. ^ 前田憲一 (1983年6月). “IGYの頃”. ISASニュース. ISAS. 2011年1月25日閲覧。
  51. ^ 虎野吉彦. “宇宙ステーション補給機技術実証機(HTV1)プロジェクトに係る事後評価について”. JAXA. 2011年1月25日閲覧。
  52. ^ 輸送機「こうのとり」、宇宙基地にドッキング成功”. 日本経済新聞 (2011年1月28日). 2011年1月30日閲覧。
  53. ^ テレサット社(本社カナダ)の通信放送衛星打上げ輸送サービスを受注 商業衛星の打上げ受注は初めて 三菱重工プレスリリース 2013年9月26日
  54. ^ “日本の衛星、地デジ導入を=野田首相提案、タイも検討”. 時事通信. (2012年3月7日). http://www.jiji.com/jc/zc?k=201203/2012030701006 


「日本の宇宙開発」の続きの解説一覧


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「日本の宇宙開発」の関連用語

日本の宇宙開発のお隣キーワード

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   
検索ランキング



日本の宇宙開発のページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの日本の宇宙開発 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2019 Weblio RSS