第一次世界大戦とは? わかりやすく解説

【第一次世界大戦】(だいいちじせかいたいせん)

World War 1.
三国同盟(独・墺・伊)と三国協商(英・仏・露)を背景起こった人類史最初の世界規模大戦争

ビスマルク外交と世界政策

1870年代ヨーロッパ列強資本の安全や市場資源確保のために帝国主義のもと、獲得した植民地政治的軍事的に支配するようになった

そして1880年代普仏戦争後にドイツ統一果たした宰相ビスマルクは、屈辱的敗北喫したフランスからの復讐恐れていた。
そこでフランス孤立させ、ロシア接近し友好を結ぶことを外交としていた。
しかし、ロシア小麦国内に入ることに反対する地主層軍部からの不満が高まった
またビスマルクは、社会政策皇帝ヴィルヘルム2世対立深め1890年総選挙敗北し辞職した
こうしてドイツ皇帝の下、資本主義急速な発展背景に、「世界政策」の名の下に積極的な植民地市場の拡大進め世界植民地支配広げていたイギリス対抗し海軍の増強はかられ建艦競争)、ナショナリズム運動強まった
しかし、当時イギリス海軍世界最強で、ドイツイギリス対抗し得る海軍力備えられるまでの道のりあまりにも遠く、この建艦競争泥沼化することとなった

「同盟」対「協商」

1882年ビスマルク外交の下、フランス孤立目的ヨーロッパ各国との同盟外交一環としてオーストリア・イタリアと「三国同盟」を締結した
そして1900年以降の「世界政策」はアフリカ大植民地を得ること、バルカン半島中近東など南東ドイツ勢力拡大するという2つ方向性行われた
後者はドイツ・オーストリア・バルカン半島同盟結んで経済的統一体を作ることを目指していた。
その象徴となったのがバグダード鉄道とそれによる「3B政策(3B=ベルリン(Berlin)・ビザンティウム(Byzantium)、現:イスタンブール・バグダード(Baghdad)。)」であった
同時に3C政策(3C=カイロ(Cairo)・ケープタウン(Capetown)・カルカッタ(Calcutta)現:コルカタ)。」を展開していたイギリスドイツ対抗して1904年フランスと「英仏協商」を結び、日露戦争後変化したアジア情勢対応し1907年に「露仏協商」を結んだ
そして1891年の「露仏同盟」と合わせてドイツ包囲する三国協商」が成立した
こうして起きた協商同盟との対立は、国際的な緊張高めていった。

バルカン半島

オスマン帝国中東からアジアヨーロッパにまたがる巨大国家だった。
しかし度重なるロシアとの戦争衰退し1878年79年の「露土戦争」ではヨーロッパにおける領土半分以上を失うという大敗喫した

1908年オスマン立憲政治などの近代化目指す青年トルコ人革命」が起こると、革命直後混乱乗じオーストリア=ハンガリー帝国皇帝直轄二重帝国共通大蔵省通じ施政権にあったボスニアヘルツェゴビナ2州併合
これにセルビアならびにモンテネグロ猛反発し、英露協商締結後バルカン半島に再び目を転じたロシアオーストリアとの対立激化させた。
ロシアセルビア人などバルカンスラヴ系民族影響力拡大しようとする「パン・スラヴ主義」を展開する一方オーストリア背後にあったドイツゲルマン民族影響力拡大しようと「パン・ゲルマン主義」を展開し、その動き強めた

こうして1912年、ギリシャ・ブルガリア・モンテネグロ・セルビアのバルカン諸国オスマンとの間で「第1次バルカン戦争」が勃発
オスマン帝国敗北し領土を失う一方勝利したバルカン諸国獲得した領土配分をめぐり分裂
ブルガリアは他のバルカン諸国との対立深め1913年に「第2次バルカン戦争」を引き起こした
この戦争で、バルカン諸国全てを敵にまわしたブルガリア孤立無援になり、敗北
領土縮小されブルガリアオスマンとともにドイツ・オーストリア接近した

こうして列強対立バルカン諸民族対立絡み合いバルカン半島緊張一気高まった

戦争勃発

このバルカン半島緊張状態のなか、大事件発生した
1914年6月オーストリア皇太子フェルディナンド皇太子夫妻南スラヴ統一目指すセルビア人青年によってサラエボ暗殺された。(サラエボ事件

1ヵ月後、皇太子暗殺されオーストリアセルビア対し宣戦布告、さらに同盟結んでいたドイツ参戦、さらにセルビア助けてロシア・イギリス・フランスが連合してドイツ対し宣戦布告
そして日英同盟により、日本ドイツ宣戦布告した

こうしてバルカン半島での紛争1914年11月、「第一次世界大戦」という世界規模大戦争へと発展した

戦争緒戦

ドイツでは19世紀後期時点で、対ロシア・フランス侵攻作戦シュリー・フェン・プラン」が立案され、緒戦はその戦争計画踏襲して戦闘が行われた。

また戦争が始まると、参戦国国内国家総動員令を発した
徴兵制を採っていたドイツ成年男子ほぼ全員兵士として組織し志願制とっていイギリスでも、さかんに国民に対して軍隊参加呼びかけが行われた。

当時ヨーロッパは、40年以上も戦争から遠ざかっており、当時若者には戦争記憶はもはやなかった。
戦争続いて半年クリスマスまでには終わる」という見通し兵士から指導者にいたるまで共有されていた。
また当時ナポレオン戦争以来大砲による砲撃の下、騎兵歩兵突撃して即座に決着をつけるという戦法定着しており、騎兵による突撃伝統的かつ栄誉ある戦法として最も大切にされていた。

しかし戦場登場したのは機関銃という意外な武器であった
西部戦線ではイギリスビッカース社、フランスホッチキス社が作り上げた機関銃ドイツ騎兵苦しめた

そして「マルヌ会戦」でドイツ英仏連合軍前進阻まれ、「シュリー・フェン・プラン」で計画していた対フランス戦早期終結望めなくなり長期化向かった

一方ロシア対峙する東部戦線ではドイツポーランド併合し必死巻き返しを図るロシア対し機関銃のため前進することができず、戦場こう着状態が続いていた。

植民地の動員と社会の変化

戦争が長引くにつれ、さらに多く物資人員必要になった。
イギリスなど植民地帝国植民地からヨーロッパ動員開始した
また、兵士効率よく戦場に送るため、イギリスフランスから二階建てバスタクシー動員されフランス陸軍至ってルノー社製のタクシー600台を動員した

戦場消耗する多く軍需物資生産するため、各国軍需工場フル稼働し、労働時間長くするため夏時間制度作られたのもこのときである。
また、運転士土木作業など、これまで男性仕事であった分野にも女性進出するようになり、さらに軍隊において女性兵士登場するなど、女性の社会進出促された。

日本の参戦

ヨーロッパからはるか東方日本も、イギリス結んでいた「日英同盟」により連合国側として参戦した

1914年9月2日日本陸軍イギリス軍連合してドイツ権益地の山東省青島(チンタオ)に上陸
一方10月日本海軍南洋諸島ドイツ要塞次々攻略していった

また、地中海におけるドイツ海軍通商破壊戦対応するため「第二特務艦隊」が編成され送り込まれた。

塹壕戦

開戦からわずか1ヶ月戦場では戦法大きく変わった
西部戦線ではマルヌ会戦のあと、独仏両軍機関銃から砲弾から身を守って敵に近づくため、フランス北東部塹壕構築し突撃戦から持久戦移行した
両軍は敵の塹壕の裏回ろうとして新たな塹壕掘り、その塹壕の裏をかくためにまた新たな塹壕掘り…、という事繰り返した挙句、2ヵ月後にはフランス・スイス国境から北海にまで達す長大塹壕線ができることになった

また雨が降ると、塹壕泥まみれになり、長期戦でその冷たい泥水浸かっていた足が一種凍傷水虫になる「塹壕足」という新たな症状兵士の間で蔓延した

1915年

当初クリスマスまでには終わる」と思われていた戦争は、解決糸口見出せないまま2年目迎えた
そんな最中西部戦線では4月22日毒ガスドイツ軍によって初め実戦使用された。
この時、ドイツ軍120tの塩素ガス使用し5000人の死傷者出した
この毒ガス兵器開発・運用携わった科学者中には、後に原子爆弾の開発携わることになった者もいた。

また、ドイツ軍毒ガス兵器使用前2月イギリス向け商船に対してUボートによる「無制限潜水艦作戦」を開始した
この作戦途上5月7日イギリス豪華客船ルシタニア」がUボートによって撃沈された。
これにより乗客・乗員1,198名が死亡したが、この中128名ものアメリカ人観光客含まれていたことで、当時孤立主義」で中立立場とっていアメリカ世論は反ドイツ傾き1917年アメリカ参戦のひとつの伏線となった
この事件第一次潜水艦作戦はわずか半年中止された。

5月23日イタリアオーストリア宣戦布告した
当時イタリア三国同盟によって名目上ドイツ・オーストリア同盟結んでいたが、いわゆる「未回収のイタリア」オーストリア領土問題抱え、仏伊通条約局外中立宣言していた。
しかしイギリス・フランス働きかけ大戦終結後「未回収のイタリア」返還約束したロンドン密約」に調印し三国同盟離脱
連合国としてオーストリア宣戦布告した

5月31日ドイツ飛行船ツェッペリン」がロンドン戦略爆撃行った

1916年

2月21日ドイツ軍戦況打開のために目標首都パリに続く街道にあるヴェルダン定めた。(ヴェルダンの戦い
ドイツ軍ヴェルダンフランス軍大量損害与えてフランス戦争継続できなくなるよう企図した。
ここには環状分派という形式要塞があり、その要塞中核となる都市や町の周囲多数堡塁めぐらせていた。

ドイツ軍火炎放射器やジホスゲンガスを用いて順調に作戦進めたが、次第消耗戦転じ両軍ともに師団クラス大部隊を泥沼式に投入したため多大な損害出した
また、ブルシーロフソンムでの攻勢が始まると、ドイツ軍はそちらに戦力を回さなければならなくなったため、7月16日ドイツ軍攻撃中止しフィリップ・ペタン率いフランス軍ヴェルダン死守成功した

ヴェルダン要塞攻防のさなかの7月1日、フランス・ソンム河畔戦線会戦展開された。(ソンムの戦い
かつての攻勢計画フランス軍主体だったが、ヴェルダン要塞攻防莫大な人的損失出したため、イギリス軍主導権を握る形で戦闘開始された。
結果、イギリス・フランス・ドイツ各軍合せて100万人以上の多大な損失出し膠着状態になったが、ドイツ軍ヴェルダン攻略頓挫させることに成功しイギリス軍はこの戦闘において初め戦車マークⅠ)を投入した


海でも主力艦同士決戦がおきた。
1916年5月デンマークユトランド沖でイギリス本国艦隊ドイツ大洋艦隊交戦。(ユトランド沖海戦
結果ドイツ戦術的勝利イギリスの戦略勝利終わったが、イギリス制海権揺るがず、ドイツ巻き返しを図るべく無差別潜水艦戦を再び決意
1917年2月ドイツ英仏周辺および地中海全域対象に全船舶標的・無警告攻撃無制限潜水艦作戦実施を宣言した。

ロシア革命

東部戦線では、3年もの間一進一退続いていたが、ロシア異変起きる。

ロシア当時工業生産力が低く開戦後わずかな期間で武器弾薬備蓄が底をつきはじめたが、3年目になると兵士戦線放棄するほど事態深刻化
国家経済破綻し国民の間で不満が高まった
またドイツウラジーミル・レーニンなどの革命家帰国手伝ったために、ロシア革命起きた
1917年2月23日ペトログラード(現:サンクトペテルブルク)で労働者暴動起き、この暴動兵士合流
各地評議会ソビエト)が作られ全国波及
結果皇帝ニコライ2世退位しロマノフ王朝滅亡
帝政崩壊後自由主義者ブルジョワ)とメンシェヴィキ社会革命党中心の「ソビエト」によって構成された「ロシア臨時政府」がつくられた。(ロシア二月革命

やがて社会革命党アレクサンドル・ケレンスキー臨時政府首相就任し立憲政治戦争継続主張
しかし労働者農民の不満は強く次第ボリシェヴィキ勢力増大する
ボリシェヴィキ指導者レーニンロシア帰国し、「すべての権力ソビエトへ」と主張したいわゆる「四月テーゼ」を発表した

ボリシェヴィキかねがね暴力革命唱えており、10月24日影響にあったペトログラードソビエト軍事革命委員会を作らせ、その下にボリシェヴィキ軍隊赤衛隊を作った
そしてペトログラード臨時政府施設占拠開始し25日臨時政府打倒宣言発表
26日には政府中枢の冬宮制圧され臨時政府メンバー逮捕された。(ロシア十月革命
結果国権はすべてボリシェヴィキ集中し1918年1月世界史上初の社会主義国家であるプロレタリア独裁ソビエト政府成立させた。
革命波及恐れたアメリカ日本イギリスフランス革命干渉しシベリア出兵
一方でソビエトは赤衛隊を基に労農赤軍設立し、これに対抗した

このような反革命包囲網の中、ソビエトレフ・トロツキー中心にドイツ和平交渉入り1918年3月に「ブレスト=リトフスク条約」を締結
ドイツ単独講和したロシア・ソビエト政府は、早々に戦争から離脱した

最後の戦い

ロシア革命東部戦線自然に消滅し負担軽くなったドイツ軍勢力一気西部戦線へ注ぐ。
しかし、ユトランド沖海戦後の「無制限潜水艦作戦」によって、1917年4月アメリカ参戦招いた
1918年3月ドイツ軍ソンム大攻勢をかけ、一時パリに迫る勢いだったが、7月指揮系統再編した英仏連合軍と総兵力210アメリカ軍登場で、ドイツ軍西部戦線において一気劣勢になった。

戦争終結

1918年11月ドイツではキール軍港水兵反乱端を発し革命運動広がった
いわゆるドイツ革命である。
これによって皇帝ウィルヘルム2世退位しドイツ帝国消滅
11月9日新たにヴァイマル共和国」が成立した

また、同盟国先にブルガリア1918年9月29日連合国との休戦協定署名しトルコ10月30日降伏
オーストリアハンガリーは秋の帝国崩壊時点ですでに別々の休戦協定署名した
そして11月11日パリ郊外コンピエーニュの森置かれた「2419D食堂車車内で、ドイツ連合国との休戦協定署名し同日中に軍事行動停止された。

講和

1919年1月18日パリ講和会議開かれアメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソン提案したいわゆる「十四か条の平和原則」が講和原則とされたが、結局英仏などの戦勝国利害優先された。

ドイツではウィルヘルム2世オランダに亡命し皇帝一家はじめとする王侯貴族追放された。

そして、パリ・ヴェルサイユ宮殿においてヴェルサイユ条約調印された。
この講和条約ドイツ軍備制限された上にドイツ歳入25倍にあたる多額賠償金要求された。
また海外植民地のほか、アルザスロレーヌなどの多く領土失った

こうしてつくられ戦後国際秩序を「ヴェルサイユ体制」とよぶ。

戦争がもたらしたもの

この戦争ヨーロッパにおける君主制消滅もたらし、かつての世界秩序破壊された。
またロシア革命きっかけとなり、20世紀社会主義世界を座巻する契機となった
また兵器として戦車飛行機機関銃そして毒ガスなどが使われ20世紀戦争システム作られた。

一方で、これらによって引き起こされ凄惨な人的物的被害から、「戦争そのものを『非合法化』することで抑止しよう」という思想芽生え、「国際連盟」や「不戦条約」といった、国際協調によって戦争抑止する活動戦後に起こることになった

しかしこの国際平和への努力むなしく大戦原因と結果をめぐる多く戦後処理の失敗世界恐慌による経済危機で、共産主義勢力を得、これに対抗しナチズム・ファシズムが台頭することになり、第二次世界大戦つながっていく。





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