【第一次世界大戦】(だいいちじせかいたいせん)
戦争概要 | ||
年月日 | 1914年7月28日~1918年11月11日 | |
場所 | ヨーロッパ、中東、アフリカ、中国、太平洋 | |
結果 | 連合国(協商国)の勝利 | |
交戦勢力 | 連合国 | イギリス、フランス、ロシア帝国、イタリア王国、アメリカ合衆国、セルビア、大日本帝国など |
同盟国 | ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、ブルガリア王国 |
World War 1.
三国同盟(独・墺・伊)と三国協商(英・仏・露)を背景に起こった、人類史上最初の世界規模の大戦争。
ビスマルク外交と世界政策
1870年代、ヨーロッパ列強は資本の安全や市場・資源の確保のために帝国主義のもと、獲得した植民地を政治的・軍事的に支配するようになった。
そして1880年代、普仏戦争後にドイツ統一を果たした宰相ビスマルクは、屈辱的敗北を喫したフランスからの復讐に恐れていた。
そこでフランスを孤立させ、ロシアに接近し友好を結ぶことを外交の柱としていた。
しかし、ロシアの小麦が国内に入ることに反対する地主層や軍部からの不満が高まった。
またビスマルクは、社会政策で皇帝ヴィルヘルム2世と対立を深め、1890年の総選挙で敗北し、辞職した。
こうしてドイツは皇帝の下、資本主義の急速な発展を背景に、「世界政策」の名の下に積極的な植民地と市場の拡大を進め、世界に植民地支配を広げていたイギリスに対抗し、海軍の増強がはかられ(建艦競争)、ナショナリズム運動も強まった。
しかし、当時のイギリス海軍は世界最強で、ドイツがイギリスに対抗し得る海軍力を備えられるまでの道のりはあまりにも遠く、この建艦競争は泥沼化することとなった。
「同盟」対「協商」
1882年、ビスマルク外交の下、フランス孤立を目的にヨーロッパ各国との同盟外交の一環としてオーストリア・イタリアと「三国同盟」を締結した。
そして1900年以降の「世界政策」はアフリカに大植民地を得ること、バルカン半島や中近東など南東にドイツの勢力を拡大するという2つの方向性で行われた。
後者はドイツ・オーストリア・バルカン半島で同盟を結んで、経済的統一体を作ることを目指していた。
その象徴となったのがバグダード鉄道とそれによる「3B政策(3B=ベルリン(Berlin)・ビザンティウム(Byzantium)、現:イスタンブール・バグダード(Baghdad)。)」であった。
同時に「3C政策(3C=カイロ(Cairo)・ケープタウン(Capetown)・カルカッタ(Calcutta)現:コルカタ)。」を展開していたイギリスはドイツに対抗して、1904年にフランスと「英仏協商」を結び、日露戦争後に変化したアジア情勢に対応し、1907年に「露仏協商」を結んだ。
そして1891年の「露仏同盟」と合わせて、ドイツを包囲する「三国協商」が成立した。
こうして起きた協商と同盟との対立は、国際的な緊張を高めていった。
バルカン半島
オスマン帝国は中東からアジア、ヨーロッパにまたがる巨大国家だった。
しかし度重なるロシアとの戦争で衰退し、1878年~79年の「露土戦争」ではヨーロッパにおける領土の半分以上を失うという大敗を喫した。
1908年にオスマンで立憲政治などの近代化を目指す「青年トルコ人革命」が起こると、革命直後の混乱に乗じ、オーストリア=ハンガリー帝国は皇帝直轄の二重帝国共通大蔵省を通じ、施政権下にあったボスニアとヘルツェゴビナの2州を併合。
これにセルビアならびにモンテネグロは猛反発し、英露協商締結後にバルカン半島に再び目を転じたロシアもオーストリアとの対立を激化させた。
ロシアはセルビア人などバルカンのスラヴ系民族へ影響力を拡大しようとする「パン・スラヴ主義」を展開する一方、オーストリアの背後にあったドイツもゲルマン民族へ影響力を拡大しようと「パン・ゲルマン主義」を展開し、その動きを強めた。
こうして1912年、ギリシャ・ブルガリア・モンテネグロ・セルビアのバルカン諸国とオスマンとの間で「第1次バルカン戦争」が勃発。
オスマン帝国は敗北し領土を失う一方、勝利したバルカン諸国は獲得した領土の配分をめぐり分裂。
ブルガリアは他のバルカン諸国との対立を深め、1913年に「第2次バルカン戦争」を引き起こした。
この戦争で、バルカン諸国全てを敵にまわしたブルガリアは孤立無援になり、敗北。
領土が縮小されたブルガリアはオスマンとともにドイツ・オーストリアに接近した。
こうして列強の対立とバルカンの諸民族の対立が絡み合い、バルカン半島の緊張は一気に高まった。
戦争勃発
このバルカン半島の緊張状態のなか、大事件が発生した。
1914年6月、オーストリア皇太子・フェルディナンド皇太子夫妻が南スラヴの統一を目指すセルビア人の青年によってサラエボで暗殺された。(サラエボ事件)
1ヵ月後、皇太子を暗殺されたオーストリアはセルビアに対し宣戦布告、さらに同盟を結んでいたドイツが参戦、さらにセルビアを助けてロシア・イギリス・フランスが連合してドイツに対し宣戦布告。
そして日英同盟により、日本がドイツに宣戦布告した。
こうしてバルカン半島での紛争は1914年11月、「第一次世界大戦」という世界規模の大戦争へと発展した。
戦争緒戦
ドイツでは19世紀後期の時点で、対ロシア・フランス侵攻作戦「シュリー・フェン・プラン」が立案され、緒戦はその戦争計画を踏襲して戦闘が行われた。
また戦争が始まると、参戦国は国内に国家総動員令を発した。
徴兵制を採っていたドイツは成年男子ほぼ全員を兵士として組織し、志願制をとっていたイギリスでも、さかんに国民に対して軍隊参加の呼びかけが行われた。
当時のヨーロッパは、40年以上も戦争から遠ざかっており、当時の若者には戦争の記憶はもはやなかった。
「戦争は続いても半年、クリスマスまでには終わる」という見通しが兵士から指導者にいたるまで共有されていた。
また当時はナポレオン戦争以来、大砲による砲撃の下、騎兵や歩兵が突撃して即座に決着をつけるという戦法が定着しており、騎兵による突撃が伝統的かつ栄誉ある戦法として最も大切にされていた。
しかし戦場に登場したのは機関銃という意外な武器であった。
西部戦線ではイギリスのビッカース社、フランスのホッチキス社が作り上げた機関銃がドイツ騎兵を苦しめた。
そして「マルヌ会戦」でドイツは英仏連合軍に前進を阻まれ、「シュリー・フェン・プラン」で計画していた対フランス戦の早期終結は望めなくなり、長期化へ向かった。
一方、ロシアと対峙する東部戦線ではドイツがポーランドを併合し、必死の巻き返しを図るロシアに対し、機関銃のため前進することができず、戦場はこう着状態が続いていた。
植民地の動員と社会の変化
戦争が長引くにつれ、さらに多くの物資と人員が必要になった。
イギリスなどの植民地帝国は植民地からヨーロッパに動員を開始した。
また、兵士を効率よく戦場に送るため、イギリスやフランスから二階建てバスやタクシーが動員され、フランス陸軍に至ってはルノー社製のタクシー600台を動員した。
戦場で消耗する多くの軍需物資を生産するため、各国の軍需工場はフル稼働し、労働時間を長くするため夏時間の制度が作られたのもこのときである。
また、運転士や土木作業など、これまで男性の仕事であった分野にも女性が進出するようになり、さらに軍隊においても女性兵士が登場するなど、女性の社会進出が促された。
日本の参戦
ヨーロッパからはるか東方の日本も、イギリスと結んでいた「日英同盟」により連合国側として参戦した。
1914年9月2日、日本陸軍はイギリス軍と連合してドイツの権益地の山東省・青島(チンタオ)に上陸。
一方、10月に日本海軍は南洋諸島のドイツ要塞を次々に攻略していった。
また、地中海におけるドイツ海軍の通商破壊戦に対応するため「第二特務艦隊」が編成されて送り込まれた。
塹壕戦
開戦からわずか1ヶ月、戦場では戦法が大きく変わった。
西部戦線ではマルヌ会戦のあと、独仏両軍が機関銃から砲弾から身を守って敵に近づくため、フランス北東部に塹壕を構築し、突撃戦から持久戦へ移行した。
両軍は敵の塹壕の裏に回ろうとして新たな塹壕を掘り、その塹壕の裏をかくためにまた新たな塹壕を掘り…、という事を繰り返した挙句、2ヵ月後にはフランス・スイス国境から北海にまで達する長大な塹壕線ができることになった。
また雨が降ると、塹壕は泥まみれになり、長期戦でその冷たい泥水に浸かっていた足が一種の凍傷や水虫になる「塹壕足」という新たな症状が兵士の間で蔓延した。
1915年
当初「クリスマスまでには終わる」と思われていた戦争は、解決の糸口を見出せないまま2年目を迎えた。
そんな最中、西部戦線では4月22日、毒ガスがドイツ軍によって初めて実戦で使用された。
この時、ドイツ軍は120tの塩素ガスを使用し、5000人の死傷者を出した。
この毒ガス兵器の開発・運用に携わった科学者の中には、後に原子爆弾の開発に携わることになった者もいた。
また、ドイツ軍は毒ガス兵器使用前の2月、イギリス向け商船に対してUボートによる「無制限潜水艦作戦」を開始した。
この作戦の途上、5月7日にイギリスの豪華客船「ルシタニア」がUボートによって撃沈された。
これにより乗客・乗員1,198名が死亡したが、この中に128名ものアメリカ人観光客が含まれていたことで、当時「孤立主義」で中立の立場をとっていたアメリカの世論は反ドイツに傾き、1917年のアメリカ参戦のひとつの伏線となった。
この事件で第一次の潜水艦作戦はわずか半年で中止された。
5月23日、イタリアがオーストリアに宣戦布告した。
当時のイタリアは三国同盟によって名目上はドイツ・オーストリアと同盟を結んでいたが、いわゆる「未回収のイタリア」でオーストリアと領土問題を抱え、仏伊通商条約で局外中立を宣言していた。
しかしイギリス・フランスの働きかけで大戦終結後の「未回収のイタリア」返還を約束した「ロンドン密約」に調印し、三国同盟を離脱。
連合国としてオーストリアに宣戦布告した。
5月31日、ドイツの飛行船「ツェッペリン」がロンドンに戦略爆撃を行った。
1916年
2月21日、ドイツ軍は戦況打開のために目標を首都パリに続く街道にあるヴェルダンに定めた。(ヴェルダンの戦い)
ドイツ軍はヴェルダンでフランス軍に大量の損害を与えて、フランスが戦争を継続できなくなるよう企図した。
ここには環状分派堡という形式の要塞があり、その要塞の中核となる都市や町の周囲に多数の堡塁をめぐらせていた。
ドイツ軍は火炎放射器やジホスゲンガスを用いて順調に作戦を進めたが、次第に消耗戦に転じ、両軍ともに師団クラスの大部隊を泥沼式に投入したため多大な損害を出した。
また、ブルシーロフやソンムでの攻勢が始まると、ドイツ軍はそちらに戦力を回さなければならなくなったため、7月16日にドイツ軍は攻撃を中止し、フィリップ・ペタン率いるフランス軍はヴェルダンの死守に成功した。
ヴェルダン要塞攻防のさなかの7月1日、フランス・ソンム河畔の戦線で会戦が展開された。(ソンムの戦い)
かつての攻勢計画はフランス軍主体だったが、ヴェルダン要塞攻防で莫大な人的損失を出したため、イギリス軍が主導権を握る形で戦闘が開始された。
結果、イギリス・フランス・ドイツ各軍合せて100万人以上の多大な損失を出し、膠着状態になったが、ドイツ軍のヴェルダン攻略を頓挫させることに成功し、イギリス軍はこの戦闘において初めて戦車(マークⅠ)を投入した。
海でも主力艦隊同士の決戦がおきた。
1916年5月、デンマークのユトランド沖でイギリス本国艦隊とドイツ大洋艦隊が交戦。(ユトランド沖海戦)
結果、ドイツの戦術的勝利・イギリスの戦略的勝利に終わったが、イギリスの制海権は揺るがず、ドイツは巻き返しを図るべく無差別潜水艦戦を再び決意。
1917年2月、ドイツは英仏周辺および地中海全域を対象に全船舶標的・無警告攻撃の無制限潜水艦作戦の実施を宣言した。
ロシア革命
東部戦線では、3年もの間一進一退が続いていたが、ロシアで異変が起きる。
ロシアは当時、工業生産力が低く、開戦後わずかな期間で武器弾薬の備蓄が底をつきはじめたが、3年目になると兵士が戦線を放棄するほど事態は深刻化。
国家経済も破綻し、国民の間で不満が高まった。
またドイツがウラジーミル・レーニンなどの革命家の帰国を手伝ったために、ロシア革命が起きた。
1917年2月23日、ペトログラード(現:サンクトペテルブルク)で労働者の暴動が起き、この暴動に兵士も合流。
各地に評議会(ソビエト)が作られ、全国に波及。
結果、皇帝ニコライ2世は退位し、ロマノフ王朝は滅亡。
帝政崩壊後は自由主義者(ブルジョワ)とメンシェヴィキと社会革命党中心の「ソビエト」によって構成された「ロシア臨時政府」がつくられた。(ロシア二月革命)
やがて社会革命党のアレクサンドル・ケレンスキーが臨時政府首相に就任し、立憲政治と戦争継続を主張。
しかし労働者や農民の不満は強く、次第にボリシェヴィキの勢力が増大する。
ボリシェヴィキの指導者レーニンはロシアに帰国し、「すべての権力はソビエトへ」と主張したいわゆる「四月テーゼ」を発表した。
ボリシェヴィキはかねがね暴力革命を唱えており、10月24日に影響下にあったペトログラードのソビエトに軍事革命委員会を作らせ、その下にボリシェヴィキの軍隊赤衛隊を作った。
そしてペトログラードの臨時政府の施設の占拠を開始し、25日に臨時政府打倒の宣言を発表。
26日には政府中枢の冬宮が制圧され、臨時政府メンバーは逮捕された。(ロシア十月革命)
結果、国権はすべてボリシェヴィキに集中し、1918年1月、世界史上初の社会主義国家であるプロレタリア独裁のソビエト政府を成立させた。
革命波及を恐れたアメリカ、日本、イギリス、フランスは革命に干渉し、シベリアに出兵。
一方でソビエトは赤衛隊を基に労農赤軍を設立し、これに対抗した。
このような反革命の包囲網の中、ソビエトはレフ・トロツキーを中心にドイツと和平交渉に入り、1918年3月に「ブレスト=リトフスク条約」を締結。
ドイツと単独講和したロシア・ソビエト政府は、早々に戦争から離脱した。
最後の戦い
ロシア革命で東部戦線が自然に消滅し、負担の軽くなったドイツ軍は勢力を一気に西部戦線へ注ぐ。
しかし、ユトランド沖海戦後の「無制限潜水艦作戦」によって、1917年4月にアメリカの参戦を招いた。
1918年3月、ドイツ軍はソンムで大攻勢をかけ、一時はパリに迫る勢いだったが、7月に指揮系統を再編した英仏連合軍と総兵力210万のアメリカ軍の登場で、ドイツ軍は西部戦線において一気に劣勢になった。
戦争終結
1918年11月、ドイツではキール軍港の水兵反乱に端を発し、革命運動が広がった。
いわゆるドイツ革命である。
これによって皇帝ウィルヘルム2世が退位し、ドイツ帝国は消滅。
11月9日に新たに「ヴァイマル共和国」が成立した。
また、同盟国で先にブルガリアが1918年9月29日に連合国との休戦協定に署名し、トルコは10月30日に降伏。
オーストリアとハンガリーは秋の帝国崩壊の時点ですでに別々の休戦協定に署名した。
そして11月11日、パリ郊外・コンピエーニュの森に置かれた「2419D」食堂車の車内で、ドイツは連合国との休戦協定に署名し、同日中に軍事行動は停止された。
講和
1919年1月18日、パリ講和会議が開かれ、アメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンが提案したいわゆる「十四か条の平和原則」が講和原則とされたが、結局、英仏などの戦勝国の利害が優先された。
ドイツではウィルヘルム2世はオランダに亡命し、皇帝一家をはじめとする王侯貴族は追放された。
そして、パリ・ヴェルサイユ宮殿においてヴェルサイユ条約が調印された。
この講和条約でドイツは軍備を制限された上にドイツ歳入の25倍にあたる多額の賠償金を要求された。
また海外植民地のほか、アルザス、ロレーヌなどの多くの領土を失った。
こうしてつくられた戦後の国際秩序を「ヴェルサイユ体制」とよぶ。
戦争がもたらしたもの
この戦争はヨーロッパにおける君主制の消滅をもたらし、かつての世界秩序が破壊された。
またロシア革命のきっかけとなり、20世紀に社会主義が世界を座巻する契機となった。
また兵器として戦車、飛行機、機関銃そして毒ガスなどが使われ、20世紀の戦争システムが作られた。
一方で、これらによって引き起こされた凄惨な人的・物的被害から、「戦争そのものを『非合法化』することで抑止しよう」という思想も芽生え、「国際連盟」や「不戦条約」といった、国際協調によって戦争を抑止する活動も戦後に起こることになった。
しかしこの国際平和への努力もむなしく、大戦の原因と結果をめぐる多くの戦後処理の失敗と世界恐慌による経済危機で、共産主義が勢力を得、これに対抗しナチズム・ファシズムが台頭することになり、第二次世界大戦につながっていく。
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