ハンセン病患者救済に尽力した人物
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後藤昌文・後藤昌直父子 後藤昌文は明治時代のハンセン病治療医。文政8,9年頃出生。大風子油を主成分とする清血煉を開発、温熱療法も使った。1871年11月新宿に私立の療養所起廃院を開院。1871年東京府知事から治療研究を依頼され一時は公費で治療した。1881年ハワイ国王に父子で謁見した。 後藤昌直は明治時代のハンセン病治療医。初代後藤昌文の長男であり、二代目後藤昌文とも称される。父に師事しハンセン病患者の治療に一生を尽くした。 隔離政策が主であったハンセン病を、外来・通院治療で治癒に導いたこと、難病自療などの著作・講演でわかりやすく患者向けに啓発活動を行い治癒する病気であることを説いたこと、また明治時代にハワイ政府に招聘され、ダミアン神父を初めとする海外患者の治療を行い高い評価を得ていたこと、全国の門下生に指導を行い全国各地に治療院を開設したこと、貧しい患者に無料で治療を行っていたことなど、日本のハンセン病歴史上特筆すべき存在であった。 詳細は「後藤昌文」および「後藤昌直」を参照 テストウイード テストウイード(1849-1891) Germain Leger Testvuideフランスの神学校を終えパリの外国宣教会神学校に学んで明治6年に来日、明治20年静岡県御殿場地方を伝道中、ある水車小屋で30歳くらいの女性のらい患者を発見、同地方に一軒の家を買い最初は6名を収容、明治22年現在の神山に復生病院を創立、のち病をえて明治24年に死去。3代目院長ベルトランは復生病院の基礎を築いた。 ハンナ・リデル ハンナ・リデル(1855-1932) Hannah Riddellは、1855年、ロンドン郊外バーネットに生まれた。両親に連れ子がある複雑な家庭で、父親は以前外国にも出かけていた兵士である。経済的にも苦労し、母親とともに一般教養や色々の資格を与える各種学校を南ウエールズで経営したが、行き詰まり破産した。生活を立て直そうと教会(CMS)に入り、両親の死後、35歳時伝道のために日本を訪れる。1891年に本妙寺でハンセン病患者をみてショックを受ける。その年の12月教会本部に手紙を書いた。彼女は新しい組織をつくることに興味があり、権力のある人に接近することに努めた。教会によりハンセン病病院を作る目的で力量を発揮した。当然組織のトップと交渉するので、中間管理職のブランドラム師は、板ばさみとなり、精神異常を起こして、死亡に至った。リデルは教会組織にたくさん敵を作ったので、教会から離れて回春病院を経営せざるを得なかった。衣装も着飾り、上京すれば帝国ホテルに宿泊し、夏は軽井沢で避暑をする。いろいろ贅沢をするが、寄付を受ける作戦と主張し意見を変えない。結果的には驚くべく多数の全世界の金持ちから寄付を受けている。日本においては、実業家、政治家、はては皇族も会えるようになる。リデルは性的なことには潔癖で、回春病院内では療養者に対して徹底した禁欲を強制し、男女が言葉を交わすのも禁じ、挙句の果ては療養者が雌雄のカナリアを同じ籠で飼うことさえ禁止したとされる。沖縄の患者への助力を考え青木恵哉を派遣した。またらい研究所を作ったが、これは日本初である。 エダ・ハンナ・ライト エダ・ハンナ・ライト( Ada Hannah Wright, 1870 - 1950) - ハンナ・リデルの姪で、彼女が創設したハンセン病療養所再春病院の後継の院長を勤めた。再春病院は1941年に解散させられ、彼女はオーストラリアに亡命した。1948年來日して熊本で晩年を過ごした。 ケート・ヤングマン ケート・ヤングマン(Kate M. Youngman, 1841年12月17日 - 1910年9月29日)は、アメリカ合衆国の宣教師。来日して1894年にハンセン病施設「目黒慰廃園」を設立した。 コンウォール・リー コンウォール・リー(1857-1941) Mary Helena Cornwall Legh(以前 Mary Helena Cornwall-Leihとあったが本家のHPなどにより訂正)イギリスのカンタベリー市で、インド駐屯軍・陸軍大佐の長女として生まれた。本家は男爵である名門である。聖アンドリウス大学で教育学、経済学、言語学、英文学を専攻した。母の死後、相続した莫大な財産と自己の余生を人類の奉仕に役立てようと、日本を選び、明治41年、51歳で日本聖公会の宣教師として来日、リデルや慰廃園のハンセン病救済活動を見学、草津に赴き湯の沢で聖バルナバ(St.Barnaba)医院をはじめ、18ホーム、1教会、1小学校、1保育園を開設し、患者とその子弟の救済、とくに養育に尽くした。昭和16年84歳で永眠。 ゴードン・アレキサンダー・ライリー ゴードン・アレキサンダー・ライリー (Gordon Alexander Ryrie) イギリス出身の医師。1928年よりマレーシア連邦最大のスンゲイブロー療養所の院長を務める。日本軍の捕虜になりシンガポールのチャンギ収容所に入所して健康を害し、後イギリスに帰国。美しいらい療養所の紙幣を作ったが、検査して菌がないことを確認後、1938年に燃やしてしまった。現在療養所に銅像がある。 綱脇龍妙 綱脇龍妙(1876-1970) 明治39年日蓮宗僧侶綱脇龍妙は身延山に参拝したおり、らい患者が悲惨なる生活をしているのを目撃、時の身延山法主の許可を得て河原より13名を収容、身延深敬(じんきょう)病院を作った。彼は全国を勧進し、費用を獲得し、十万一厘講を組織した。大正9年財団法人となる。昭和9年から17年福岡県に分院をつくるも、軍の結核施設として譲った。昭和45年、95歳でなくなる。深敬園は平成4年廃止。 石館守三 石館守三(1901-1996)(いしだて もりぞう、1901年1月24日 - 1996年7月18日)は日本の薬学者、薬理学者。日本の薬学界のパイオニア。ハンセン病治療薬「プロミン」を合成し、多くのハンセン病患者を救った。東京大学薬学部初代学部長、名誉教授、薬学博士。 岡村平兵衛 岡村平兵衛(1852-1934) プロミン以前の治癩薬、大風子油は泉州堺の岡村製薬所のものが品質が優れ、広く用いられた。1852年生まれ。明治21年、行き倒れ癩患者を救い、自宅で救済した人は千数百人に達した。明治34年自宅での救済は中止した。昭和19年、原料の輸入がとまり、プロミンが使われるようになって大風子時代は終了した。身長188センチ、素人相撲の大関を張り、剣は免許皆伝で、堺では有名人であった。1934年没。享年82。 村田正太 村田正太(むらたまさたか、1884-1974)。日本の医師、医学研究者。梅毒血清反応「村田法」の創始者。ハンセン病研究者。エスペランティスト。1926年から1933年大阪府外島保養院院長。外島事件で、辞任。患者を一人の人間として対等に「キミ」と呼び、遇したのは当時としてはたいへん珍しい。その後職に就かず、神奈川県二宮町で個人的研究生活に入る。 小川正子 小川正子(1902-1943): 協議離婚後(相手は後に衆議院議長、大臣になる)、東京女子医学専門学校入学。卒業間際に光田健輔の全生病院に就職を希望、定員がなく断られた。1932年、長島愛生園医務嘱託、33年医官発令。在宅患者の収容にいく。1937年結核発病。38年「小島の春、ある女医の手記」を出版。41年退職。43年永眠。1991年、小川正子記念館開館。当時の在宅患者の悲惨な状況、周辺の人々や収容の状況が記述された記録文学である。映画化で、多くの人の感動を呼んだが、それは彼女が嫌うところであった。また、太田正雄(木下杢太郎)は「小島の春」の文学的価値に限って高く評価し、「あれだけ感動させる力のあるのは事実の描写というものの他に作者のシンセリティ(誠実さ)と文学的素養があるからで、特殊性という付加物なしにも本当の文学だと思う。もうひとつは叙景がすばらしい。」と言っている。しかし映画を見てからライ根絶の最良策はその化学療法にあると批判した。 松田ナミ 松田ナミ(1904年 - 1995年11月14日)ら、戦前、戦中にかけ、女医がらい医療にたずさわった記録がある。古くは服部ケサ、田中逸野、西原ツボミ、松田ナミ、小川正子、神谷美恵子、小原安喜子を含め33名の記録である。多くは東京女子医大かその前身の卒業生である。松田ナミは、郷里八代に近い九州療養所に勤務したが、誘われるまま、辞表を出して沖縄愛楽園に転勤した。その療養所では男性は殆ど応召してしまっていた。三上婦長(三上千代)を中心に7名の白衣の天使群はまるで戦場における7名の武士のように勇敢に最後まで踏み止まって職務を遂行した。白兵戦もあった戦い、戦後のことも記載がある。現在でも女医は重要な任務についているが、戦争時は男性がいなかったため貴重であった。松田ナミは当時医局長。 ゼローム・ルカゼウスキー ゼローム・ルカゼウスキー(JeromeLukaszewski)(1922-2003):カトリック宣教師 。アメリカコネチカット州ニューヘヴンで生まれる。ポーランド系アメリカ人。和光園松原若安(じょあん)事務長や先任のパトリック神父の努力で、和光園で生まれた子供たちの養育に努力。「子供の家」、引き続き、「名瀬天使園」を創設した。「南日本文化賞」を受賞。らい予防法廃止時、感謝の集いが世話を受けた人ともども開かれた 青木恵哉 青木恵哉(1893-1969) 1893年、徳島県で生まれた。16歳でハンセン病を発病、23歳大島療養所に入所。2年後に洗礼を受けた。のち回春病院に転院。1927年、回春病院のハンナ・リデルから、らい者への伝道のために沖縄に派遣された。昭和5年、伝道の中心は屋部にうつった。昭和10年焼討事件にあい、無人島に移った。洞窟とテントにより40人が生活した。その後屋我地島済井出に移り、昭和12年MTL相談所が出来、翌年国頭愛楽園ができた。青木は戦後も伝道を行い、昭和44年老衰のため地上の生を終えた。 井深八重 井深八重(いぶかやえ1897年10月23日-1989年5月15日)日本の看護婦。台北市で出生。同志社女学校専門部英文科卒業。長崎で英語教師。大正8年ハンセン病と診断され神山復生病院に入院。誤診とわかったが、当時のレゼー院長の献身ぶりに接し、神父を助けることを決心。速成科の看護婦になり同病院に就職。戦後の困難な時期を乗り切り、戦後は日本カトリック看護協会を設立、初代会長として貢献。神山復生病院創立100周年の前日に亡くなり、藤楓協会総裁表彰を受ける。父は国会議員の井深彦三郎。叔父は明治学院学院長だった井深梶之助。ソニーの創始者井深大とは遠縁にあたる。遠藤周作の『わたしが・棄てた・女』のヒロインのモデルでもある。 石渡こと 石渡こと(1874-1947)東京市で出生。1902年より光田健輔の「回春病室」の看護婦。光田をよく補助した。1909年全生病院首席看護婦、1924年初代看護婦長。全生病院では、 風呂場外科、という言葉もある。石渡婦長は、光田健輔と相談して、船のようなものに下に車がついていて、寝ながら入浴できるものを風呂場に持ち込んできてそれに患者を入れて体を洗ったという。 1936年退職。1947年没。男勝りで頑固な面もあったが、愛情深く、侠気なところもあり、また治療は光田直伝で評判がよかった。看護婦全体および、若い医師の面倒もみた。「神山復生病院120年の歩み」に2枚の写真と署名がでている。署名によると石渡こと(こは「古」をくずした字)と書いていた。また、林文雄は著書、天の墓標のなかで、特に1章を設け、「石渡婦長さんに感謝す」を設け、人となりを褒めている。彼女は自腹を切って人の食事の面倒をみられたという。 三上千代 三上千代(1891-1978) 山形市で出生。1916年全生病院看護婦。17年草津に行きコンウオール・リーの救らい事業に参加。1924年女医服部ケサと共に鈴蘭病院を開設、服部の死亡により、全生に帰る。1925年再び草津へ。1933年全生へ、1939年国頭愛楽園婦長。戦争で苦労する。1946年全生へ。1953年退職。日本MTL理事。1957年ナイチンゲール賞を授与される。同年黄綬褒章。勲4等瑞宝章。1978年永眠。 河村正之 河村正之(1878-1933) 九州療養所初代所長。医師としては日本で最初の公立ハンセン病療養所長。温厚篤実で文筆に親しむ。患者にも慕われたが熊本県杖立温泉にて急逝。在職1909年4月-1933年7月。 中條資俊 中條資俊:ちゅうじょう すけとし、明治5年11月7日(1872年12月7日) - 昭和22年(1947年)3月1日は日本の医師、ハンセン病研究者、北部保養院(国立療養所松丘保養園)院長、園長を1909年から1947迄勤める。治療法の開発に熱心でテレピン油製剤を熱心に研究した。 林文雄 林文雄(はやしふみお 1900-1947)日本の医師、全生病院、(国立療養所多磨全生園),国立療養所長島愛生園,国立療養所星塚敬愛園(園長),国立療養所大島青松園(園長)を勤めた。特に光田健輔を助け、光田反応を完成させた。 高島重孝 高島重孝たかしましげたか(1907-1985)は日本の医師。ハンセン病治療に貢献した。国立療養所栗生楽泉園、東北新生園、国立駿河療養所(所長)、長島愛生園(園長)に勤務した。長島愛生園と本土を結ぶ、長島架橋に努力した。 家坂幸三郎 家坂幸三郎家坂幸三郎(いえさかこうさぶろう1878-1952)は日本の医師。ハンセン病療養所国立療養所宮古南静園、国立療養所沖縄愛楽園所長を勤めた。クリスチャンで、現在でも宮古南静園に教会がある甦生会(よみがえりのかい)を結成した。 三宅俊輔 三宅俊輔1854年島根県の生。1874年上京。桑田衡平の家塾、ベルツの指導をえて、1878年内務省医師開業免状をえる。故郷に近い津和野で開業、1890年山口に移動。1893年長崎へ、翌年谷山(鹿児島県)や指宿へ。伝道師としても活躍。1897年リデルに招かれ回春病院に医師として赴任。30年その職にあった。リデルは病院に週2回しかこなかったが、彼が病院をまかせられていた。たいへん真面目な性格で、時には、リデルと患者の間に入って、患者を守り、皆から信頼されていた。1926年没。 上川豊 上川豊(かみかわ ゆたか、1892年 - 没年不詳)上川豊は日本の医師。ハンセン病の治療、研究に従事し、国立療養所菊池恵楓園、台湾総督府楽生院(初代院長)、国立療養所東北新生園(2代目園長)で勤務した。大風子油を研究し、東北新生園時代は社会復帰農園を作った。 岩下壮一 岩下壮一 (いわしたそういち、1889年 - 1940年) カトリック司祭・哲学者。東京帝国大学(現・東京大学)哲学科を卒業後、欧米に留学をしており、教授を嘱望されたが、生涯をカトリックの一司祭として、司牧、宣教、学究、ハンセン病患者の福祉などに尽力した(1930年 ハンセン病療養所神山復生病院6代目院長)。 中村哲 中村哲 (医師)(なかむら てつ、1946年9月15日 - )は、福岡県福岡市出身の日本の医師。 ペシャワール会医療サービス(PMS)総院長。西南学院中学校、福岡県立福岡高等学校、九州大学医学部卒業。国内病院勤務ののち、1984年、パキスタン北西辺境州の州都ペシャーワルに赴任。以来、20年以上にわたってハンセン病を中心とする医療活動に従事。 早田晧 早田晧 (はやた ひろし、1903年12月 - 1985年8月19日没) ハンセン病患者を治療した医師。縁戚にあたる綱脇龍妙に説得され、金沢医大を卒業。ハンセン病施設である福岡の身延深敬病院分院に勤務。九州大学で研究。長島愛生園で光田健輔の弟子となる。昭和19年すでに戦場になりそうな、沖縄愛楽園の園長になり、患者を戦災から守るのに苦労をする。戦争直後であるが、爆撃を受けた跡地で病理解剖をしていた写真を米軍が撮影した。1946年 多磨全生園に転任、1948年三島の保健所にうつる。1950年 三島市で開業、時々身延深敬病院で患者の診察をした。 屋我地島のドン・キホーテ上巻 屋我地島のドン・キホーテ下巻 野島 泰治 野島泰治(のじま たいじ、1896年11月10日 - 1970年3月3日)は日本の医師。ハンセン病の治療に当たり、大島青松園勤務41年(うち園長36年)勤める。『祈る らい医師の海外紀行』と 随筆集 『らいと梅干と憲兵』(1971年、野島泰治先生記念会) 終戦直後、海軍より車の提供を受けた野島が使用していたところ、陸軍の憲兵から理不尽にも監禁され体罰をうけたが、それでも死なないでよかったと述べている。
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