ハンセン病政策に関わった人物
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高松宮宣仁親王 高松宮宣仁親王(大正天皇の第3皇子(昭和天皇の弟)。戦前、戦中は海軍軍人であった。戦後は兄宮昭和天皇を間接的に助けようとする気持ちが強く、東京裁判関係者を招いてカモ狩りなどの宴会などをした。皇室の伝統がない外国人も喜んだとある。また、その他に福祉の宮としても有名である。藤野豊はGHQのクロフォード・サムス准将が天皇家の代表として高松宮を福祉関係に活用したという証言を引用している。高松宮は1947年楽泉園を訪れた際に消毒服に着替えず、背広のままで園内を見学し、準備したコースを無視して病室に入り、入所者と直接話したり、重監房の中にも立ち入り、園当局をあわてさせている。同年、多磨全生園では園長に紅波の副作用を質問している。翌年、星塚敬愛園でも、大島青松園でも予防着なしで入園者と気さくに面接している。後年は園の指示するコースを歩いた。藤楓協会の初代総裁となり、全国の療養所を回った。 光田健輔 光田健輔(1876-1964)山口県生れ。済生学舎をへて医術開業試験に合格。東京大学で病理を専攻中、ハンセン病に興味をもつ。東京市養育院でらいの病室「回春病室」を作る。全国の患者の状態を研究した。明治42年全生園医長、その後院長となる。ハンセン病政策に関して指導的立場にたち、隔離政策(彼の沖縄離島案は否決された)、ワゼクトミーを推進、昭和5年、国立療養所長島愛生園初代園長となった。研究面でも業績が多く、本人は病理学者と思っているが、免疫学的方面も「光田反応」を発見、1923年のストラスブルクの国際学会で、副会頭にもなり、その反応を発表している。戦後「らい医学」における功績で文化勲章受章。その5日後、昭和26年11月8日参議院で、隔離政策の強化を主張、非難を浴びた。プロミンが有効となっても、隔離政策を主張した。療養所内では風紀が乱れ望まれない妊娠が多発し管理者を悩ましていた。これに対しキリスト教系の療養所が収容者に対して徹底した禁欲を強制したのに対し、光田は男女の情愛を力を以て禁ずることには反対で、断種手術を条件に結婚を認めるという妥協策を採用した。皮肉なことにこの温情が後に光田に対する倫理的批判を招くことになった。 宮崎松記 宮崎松記(1900-1970) 熊本県八代市生まれ。第5高等学校学生時代、リデルの回春病院にいきハンセン病に興味をもつ。京都帝大をへて大阪赤十字病院外科部長。昭和9年九州療養所所長。本妙寺事件、龍田寮事件などに関与した。昭和26年の参議院において、隔離政策の強化を主張。のちに発言を取り消したが、菊池恵楓園の入所者数は彼が辞職して初めて減少に転じた。学問的には、戦争とらいを研究し、戦争中らいを発病した場合は、結核を発病したと同様な取扱いとさせた。菊池恵楓園を拡大し、らい研究所の分室をつくったが、あまり予算をとったので他から憎まれた。昭和33年、恵楓園退職。その後、JALMA Japan Leprosy Mission of Asiaを設立、インドのアグラにらいセンターを作り、援助活動をした。日本航空機事故でニューデリーで殉職。 小笠原登 小笠原登 (1888-1970): ハンセン病先覚者。京都帝国大学卒業。京都帝国大学医学部皮膚科特別研究施設助教授であった。寺院の出身で、そこでもハンセン病を見ていたが感染することはなかったという。らい体質病説を昭和5年頃から唱えた。ハンセン病を大学外来で治療し、隔離主義に反対した。昭和16年12月、ハンセン病は恐るべき伝染病で、根こそぎ隔離すべきであるとする付和雷同の学会員から異端の説として袋だたきにあった。彼は当時くる病体質と関係あるだろうと考えていた。その後奄美和光園で漢方を研究した 周防正季 周防正季(1885-1942) 明治18年(1885年)滋賀県生まれ。愛知県立医学専門学校卒業。県立岡崎病院、内務省防疫官補を経て開業した。のち韓国にわたり、警察部衛生課長になり、麻薬中毒撲滅に没頭。京城大学でモルフィネの研究で博士号を取得した。昭和8年小鹿島慈恵医院院長に就任した。昭和14年には収容人数6000名の大療養所(小鹿島更生園)を完成した。昭和15年、日本癩学会総会を主催した。入所者に対する日本の習慣の押し付け(神社参拝)、患者待遇の悪化、食料の欠乏、日本の植民地支配への反感などがあり、昭和17年6月20日、患者から刺殺された。勅任官刺殺事件として注目を浴びた。勲三等に叙勲され、皇太后より祭祀料が下賜された。 貞明皇后 貞明皇后(1884-1951) 救癩事業に尽くしたことで有名。内務大臣安達謙蔵は貞明皇后に救癩事業への援助を願い出て、昭和5年11月10日、御手元金24万8000円が下賜された。これが最初というわけでなく、皇后はハンナ・リデルの回春病院にも多額の寄付を行っており、1916年には年6000円、それ以降毎年3000円の寄付をおこなっている。また、神山復生病院のレゼー神父が就任直後、病院経営が難しくなった時に、経済援助をした。 「つれづれの友となりてもなぐさめよ ゆきことかたきわれにかはりて」という皇后の歌が彫られた石碑をもつ歌碑公園が全国の療養所に作られた(除九州療養所:ただし屏風がある。)この文献に、ハンセン病に興味を持たれたのは大正3年の養蚕に興味を持たれた後、と記載してある。また、昭和23年6月8日埼玉県蚕糸業視察の時、全生園正面を通過したさいに在園者役員および代表が迎えた。各園長の話をよく聞かれ、林芳信は1時間半に達したと記述している。詳細は「貞明皇后」を参照 犀川一夫 犀川一夫 (1918-2007): 1944年―60年国立療養所長島愛生園勤務。プロミンを使った最初の医師達の一人であった。隔離主義に関し、恩師光田健輔に反抗し、1960年―64年台湾麻瘋協会に勤務。1964年―70年WHO西太平洋地区らい専門官、1970―72年琉球政府らい専門官及沖縄愛楽園長。1972年―87年国立療養所沖縄愛楽園長。復帰に伴って患者の強制隔離を定めたらい予防法が適用されるのに反対し、沖縄だけは在宅治療を続けることを国に認めさせた。01年患者側が全面勝訴したハンセン病国賠訴訟で、元患者側の証人として出廷し、国の政策を批判する証言をした。2007年没。 大谷藤郎 大谷藤郎(1924-2010 ): 大正13年滋賀県に生まれる。昭和27年京都大学医学部卒業、昭和34年 厚生省に入り、厚生大臣官房審議官、公衆衛生局長、医務局長を歴任。その間、ハンセン病や精神障害者などの人権回復に尽力。退官後も精神障害者の地域社会復帰運動など、疾病障害差別の人権運動にかかわる。特にらい予防法の廃止運動に先鞭をつけ、流れを加速したことに功績がある。先輩小笠原登を詳しく紹介した。平成5年レオン・ベルナール賞を受賞。『現代のスティグマ』『らい予防法廃止の歴史』など、著書多数。国立ハンセン病資料館館名誉館長を勤めた。2010年12月7日没。
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