ハンセン病政策に関わった人物とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ハンセン病政策に関わった人物の意味・解説 

ハンセン病政策に関わった人物

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/03 17:12 UTC 版)

ハンセン病に関連した人物」の記事における「ハンセン病政策に関わった人物」の解説

高松宮宣仁親王 高松宮宣仁親王(大正天皇第3皇子昭和天皇の弟)。戦前戦中海軍軍人であった戦後は兄宮昭和天皇間接的に助けようとする気持ち強く東京裁判関係者招いてカモ狩りなどの宴会などをした。皇室伝統がない外国人喜んだとある。また、その他に福祉の宮としても有名である。藤野豊GHQクロフォード・サムス准将天皇家代表として高松宮福祉関係に活用したという証言引用している。高松宮1947年楽泉園を訪れた際に消毒服に着替えず背広のままで園内見学し準備したコース無視して病室入り入所者と直接話したり、重監房中にも立ち入り、園当局をあわてさせている。同年多磨全生園では園長に紅波の副作用質問している。翌年星塚敬愛園でも、大島青松園でも予防着なしで入園者と気さくに面接している。後年は園の指示するコース歩いた協会初代総裁となり、全国療養所回った光田健輔 光田健輔(1876-1964)山口県生れ済生学舎をへて医術開業試験合格東京大学病理専攻中、ハンセン病興味をもつ。東京市養育院でらいの病室回春病室」を作る全国患者の状態を研究した明治42年全生園医長その後院長となる。ハンセン病政策に関して指導的立場にたち、隔離政策彼の沖縄離島案は否決された)、ワゼクトミーを推進昭和5年国立療養所長島愛生園初代園長となった研究面でも業績多く本人病理学者思っているが、免疫学的方面も「光田反応」を発見1923年のストラスブルクの国際学会で、副会頭にもなり、その反応発表している。戦後「らい医学」における功績文化勲章受章その5日後、昭和26年11月8日参議院で、隔離政策強化主張非難浴びたプロミンが有効となっても、隔離政策主張した療養所内では風紀乱れ望まれない妊娠多発し管理者悩ましていた。これに対しキリスト教系療養所収容者に対して徹底した禁欲強制したのに対し光田男女情愛を力を以て禁ずることには反対で、断種手術条件結婚認めるという妥協策を採用した皮肉なことにこの温情が後に光田対す倫理的批判を招くことになった宮崎松記 宮崎松記(1900-1970) 熊本県八代市生まれ第5高等学校学生時代リデル回春病院にいきハンセン病興味をもつ。京都帝大をへて大阪赤十字病院外科部長昭和9年九州療養所所長本妙寺事件龍田寮事件などに関与した昭和26年参議院において、隔離政策強化主張。のちに発言取り消したが、菊池恵楓園入所者数は彼が辞職して初め減少転じた学問的には、戦争とらいを研究し戦争中らいを発病した場合は、結核発病した同様な取扱いとさせた。菊池恵楓園拡大し、らい研究所分室つくったが、あまり予算をとったので他から憎まれた。昭和33年、恵退職その後、JALMA Japan Leprosy Mission of Asia設立インドアグラにらいセンター作り援助活動をした。日本航空機事故ニューデリー殉職小笠原登 小笠原登 (1888-1970): ハンセン病先覚者京都帝国大学卒業京都帝国大学医学部皮膚科特別研究施設助教授であった寺院出身で、そこでもハンセン病見ていたが感染することはなかったという。らい体質病説を昭和5年頃から唱えたハンセン病大学外来治療し隔離主義反対した。昭和16年12月ハンセン病恐るべき伝染病で、根こそぎ隔離すべきであるとする付和雷同学会員から異端の説として袋だたきにあった。彼は当時くる病体質と関係あるだろうと考えていた。その後奄美和光園漢方研究した 周防正季 周防正季(1885-1942) 明治18年1885年滋賀県生まれ愛知県立医学専門学校卒業県立岡崎病院内務省防疫官補を経て開業した。のち韓国にわたり、警察部衛生課長になり、麻薬中毒撲滅没頭京城大学でモルフィネの研究博士号取得した昭和8年小鹿島慈恵医院院長就任した昭和14年には収容人数6000名の大療養所小鹿島更生園)を完成した昭和15年日本学会総会主催した入所者に対す日本習慣押し付け神社参拝)、患者待遇悪化食料欠乏日本植民地支配への反感などがあり、昭和17年6月20日患者から刺殺された。勅任官刺殺事件として注目浴びた勲三等叙勲され、皇太后より祭祀料下賜された。 貞明皇后 貞明皇后(1884-1951) 救癩事業尽くしたことで有名。内務大臣安達謙蔵貞明皇后救癩事業への援助願い出て昭和5年11月10日御手元金248000円が下賜された。これが最初というわけでなく、皇后ハンナ・リデル回春病院にも多額寄付行っており、1916年には年6000円、それ以降毎年3000円の寄付をおこなっている。また、神山復生病院のレゼー神父就任直後病院経営難しくなった時に経済援助をした。 「つれづれの友となりてもなぐさめよ ゆきことかたきわれにかはりて」という皇后の歌が彫られ石碑をもつ歌碑公園全国療養所作られた(除九州療養所:ただし屏風がある。)この文献に、ハンセン病興味持たれたのは大正3年養蚕興味持たれた後、と記載してある。また、昭和23年6月8日埼玉県蚕糸業視察の時、全生園正面通過したさいに在園役員および代表が迎えた。各園長の話をよく聞かれ芳信1時間半達した記述している。詳細は「貞明皇后」を参照 犀川一夫 犀川一夫 (1918-2007): 1944年60年国立療養所長島愛生園勤務プロミン使った最初医師達の一人であった隔離主義関し恩師光田健輔反抗し1960年64年台湾麻瘋協会勤務1964年70年WHO西太平洋地区らい専門官、197072年琉球政府らい専門官及沖縄愛楽園長。1972年87年国立療養所沖縄愛楽園長。復帰伴って患者強制隔離定めたらい予防法適用されるのに反対し、沖縄だけは在宅治療続けることを国に認めさせた。01患者側が全面勝訴したハンセン病国賠訴訟で、元患者側の証人として出廷し、国の政策批判する証言をした。2007年没。 大谷藤郎 大谷藤郎(1924-2010 ): 大正13年滋賀県生まれる。昭和27年京都大学医学部卒業昭和34年 厚生省入り厚生大臣官房審議官公衆衛生局長、医務局長を歴任その間ハンセン病精神障害者などの人権回復尽力退官後も精神障害者地域社会復帰運動など、疾病障害差別人権運動にかかわる。特にらい予防法廃止運動先鞭をつけ、流れ加速したことに功績がある。先輩小笠原登詳しく紹介した平成5年レオン・ベルナール賞を受賞。『現代スティグマ』『らい予防法廃止歴史』など、著書多数国立ハンセン病資料館名誉館長勤めた2010年12月7日没。

※この「ハンセン病政策に関わった人物」の解説は、「ハンセン病に関連した人物」の解説の一部です。
「ハンセン病政策に関わった人物」を含む「ハンセン病に関連した人物」の記事については、「ハンセン病に関連した人物」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ハンセン病政策に関わった人物」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ハンセン病政策に関わった人物」の関連用語

ハンセン病政策に関わった人物のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ハンセン病政策に関わった人物のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのハンセン病に関連した人物 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS