慰廃園
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慰廃園(いはいえん)は、東京府荏原郡目黒村字下目黒(現・東京都目黒区中町一丁目、日本基督教団新栄教会)に存在したハンセン病療養所。1894年に開園し、1945年の東京大空襲により焼失した。
年表
設立経緯はケート・ヤングマン#慰廃園参照
- 1894年5月、キリスト教系団体「好善社(現・公益社団法人好善社)」が東京府荏原郡目黒村字下目黒に土地を購入。好善社は米国長老教会派遣宣教師ケート・ヤングマンの呼びかけにより、彼女の教え子たちが立ち上げた伝道と奉仕を実践する団体[1]。
- 1894年10月13日、私立病院「慰廃園」を開設。入所者13名。監督官に牧師の大塚正心とその妻かね(ガントレット恒子・山田耕筰姉弟の叔母)。
- 1905年、社団法人認可
- 1929年11月16日、創立35周年記念会
- 1930年7月、園内電話架設
- 1942年8月5日、解散。 入所者56名は全生園へ移住
- 1945年5月25日、元慰廃園礼拝堂、診療所、婦人病棟は、空襲により焼失
- 1952年、慰廃園跡地に、「津田・元藤近代舞踊研究所(津田信敏近代舞踊学校)」開設
- 1953年、慰廃園跡地に、児童養護施設「恵光寮」開所
- 1958年、記念遺跡地完成
脚注
関連項目
外部リンク
慰廃園
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1894年(明治27年)から、毎年一定額の資金援助がMTLより贈られてきた。1894年5月に1500坪の地所を購入する。。更に同年10月 東京府荏原郡目黒村下目黒(現目黒区中町)に4,950平方メートルの土地を取得して施設を建設することになる。別の病院にいた津島八重を引き取り、大塚正心、かね(山田耕筰の母方叔母)夫妻を監督者に立て、1894年10月13日正式に慰廃園が発足した。 慰廃園の嘱託医は北島剛三、加治木勇吉が就任する。北里柴三郎は慰廃園を病院組織にするなら、医師を派遣し、医薬を与えようと申し入れた。1899年(明治32年) 慰廃園はこれを受け入れた。北里により、中條資俊、高野六郎らが派遣され嘱託医となった。慰廃園の病院化は好善社社員出席者全員一致の意思によるが、東京府の許可が与えられたのは彼女が宣教師として与えられていた米国での休暇中であった。ヤングマンは慰廃園の病院化は賛成ではなかったので、病院としての認可が下りると自ら慰廃園より手を引いた。
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