「らい療養所」である北部保養院長(後の国立療養所松丘保養園長)として
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北里柴三郎の推挙でなったといわれる。(北島多一、光田健輔、高野六郎)。その前の慰廃園も同様である。久保田善吉(開設当初介護人、のち退職し医師となり再び採用)によると最初は中條は医長で所長は警察部長のようである。東北6県と北海道の連合立であったのでなにかと不如意であった。昭和3年(1928年)に大火に見舞われた。入所を希望する人すべてを入所できず、また昭和9年(1934年)には外島保養院の患者50名も収容した。行政のたちおくれで、中條は昭和11年(1936年)に東北地方に国立らい療養所設置を要望すると訴えた。その月の10月にふたたび大火に見舞われ昭和14年(1939年)に国立療養所東北新生園ができた。
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