手塚治虫 年表

手塚治虫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/21 07:00 UTC 版)

年表

叙勲の推薦の際に作成された功績調書(1989年(平成元年))
同上
同上
同上に付された表紙(文部省原議書)
  • 1928年11月3日 - 大阪府豊能郡豊中町(現・豊中市)に生まれる。※岡町相生通りに生誕から2歳まで、引っ越して岡町曽根(萩の寺の付近)に2歳から5歳まで。
  • 1933年 - 5歳のとき兵庫県川辺郡小浜村(現・宝塚市)の川面(かわも)の高台のふもとの元祖父の屋敷に一家で引っ越す。このころから母とともに宝塚歌劇に親しむ。
  • 1935年 - 池田師範学校附属小学校(現・大阪教育大学附属池田小学校)入学。
  • 1939年 - 自分の名前「治」に虫を付けて「治虫」をペンネームとする。
  • 1941年 - 大阪府立北野中学校(現・大阪府立北野高等学校)入学。
  • 1945年3月 - 北野中学を卒業。勤労動員中6月の大阪大空襲に遭遇。7月、大阪帝国大学附属医学専門部に入学。
  • 1946年1月4日 - プロデビュー作の四コマ漫画『マァチャンの日記帳』(少國民新聞(後の毎日小学生新聞)大阪版)の連載開始。
  • 1947年 - 酒井七馬がもちかけた企画による長編漫画単行本(赤本)『新寳島』が刊行された(初版1月30日、4月20日、6月1日、7月25日と版を重ねて累積40万部が売れたとされる)。
  • 1950年(22歳) - 上京中に学童社に立ち寄って加藤謙一と出会い、持っていた単行本用の原稿を見せたところ連載が決まり「漫画少年」誌で『ジャングル大帝』の連載開始。
  • 1951年 - 1年留年し、大阪大学附属医学専門部(旧制)卒業。毎日放送開局時のアナウンサー採用試験に合格。偶然通りかかって受験してみたところ合格した、と後年同局の番組『あどりぶランド』で語っている。光文社の月刊誌「少年」に「アトム大使」(当初の予定はアトム大陸)を連載開始。
  • 1952年 - 医師免許取得。『アトム大使』から路線変更した『鉄腕アトム』(連載予告では鉄人アトム)を『少年』 に引き続いて連載。東京都新宿区四谷に約1年半下宿する(四谷交差点(北西角。メトロ2番入り口前)「成木屋青物店」の2階。のちの漫画作品「四谷快談」の舞台。『鉄腕アトム』などの執筆場所)。
  • 1953年(25歳) - 東京都豊島区椎名町5丁目(現:豊島区南長崎3丁目)のトキワ荘に入居。『リボンの騎士』を講談社の月刊誌少女クラブに連載開始。
  • 1954年 - 週刊朝日の昭和29年(1954年)4月11日号、頁22-23で「知られざる二百万長者 児童マンガ家・手塚治虫という男」として紹介される。
  • 1954年 - 10月に豊島区雑司が谷の並木ハウスに下宿。
  • 1957年 - 東京都渋谷区代々木初台に借家。
  • 1958年(30歳) - 第3回小学館漫画賞受賞(『漫画生物学』『びいこちゃん』)。練馬区東大泉町(現:東大泉)の東映動画から漫画「ぼくのそんごくう」を元にした劇場用長編総天然色漫画映画「西遊記」の制作を持ちかけられて嘱託社員となる。
  • 1959年 - 松下井知夫(まつしたいちお)が中心となって結成した「ストーリー漫画研究会」に参加(松下に結婚式の媒酌人を依頼)。
  • 1959年 - 10月に岡田悦子と結婚。『週刊少年サンデー』創刊号から『スリル博士』を連載する。
  • 1960年 - 練馬区谷原町(現・練馬区富士見台)に自らデザインした自宅を建てる。
  • 1961年 - 奈良県立医科大学から医学博士の学位を授与される。主に東映動画から引き抜いた人材を中心とする6名で手塚治虫プロダクション動画部を設立し(12月には株式会社虫プロダクションとして登記)、自宅の庭の一角に作った建物で非商用アニメーション作品「ある街角の物語」の制作を開始。長男・(本名:真)が誕生。
  • 1963年(35歳) - 自ら創設して社長も務めた虫プロダクション制作の日本初毎週30分枠のテレビアニメシリーズ[注釈 2]『鉄腕アトム』(モノクロ作品)がフジテレビにて1月1日から放送を開始する(丸4年間放送)。「ある街角の物語」が芸術祭奨励賞、第1回大藤信郎賞、ブルーリボン教育文化映画賞を受賞。
  • 1964年 - 長女・るみ子が誕生。
  • 1965年 - 日本初の1時間枠テレビアニメ「新宝島」を1月3日に放送(これは本来は手塚治虫原作の漫画を毎月1回1時間の枠で毎回完結の独立したアニメ番組化していく構想「虫プロ・ランド」の第1作目であったが、経営的な面から製作継続は無理と判断され、これ一作だけが作られて中止となった)。日本初のカラーテレビアニメシリーズ『ジャングル大帝』がフジテレビで10月6日から放送。毎日新聞社特派員記者としてニューヨーク世界博覧会を取材するために渡した際に偶然に同博覧会場のペプシコーラ館前において生涯で一度だけとなったウォルト・ディズニーとの対面を果たす。W3事件。虫プロの版権部門を独立させた会社「虫プロ商事」を発足する。
  • 1967年 - 虫プロ商事は月刊誌『COM』を刊行開始し、同誌に「火の鳥」の連載を開始。
  • 1968年(40歳) - 虫プロ商事制作のテレビ番組「バンパイヤ」がフジテレビ系で放送開始。漫画制作のための手塚プロダクションを設立。
  • 1969年 - 大人のための劇場用長編アニメーション「千夜一夜物語」を公開。
  • 1970年 - 『火の鳥』で第1回講談社出版文化賞の児童まんが部門で受賞。日本万国博覧会(大阪万博)にて「フジパンロボット館[注釈 22]」をプロデュース。少年画報社の「週刊少年キング」誌連載の『アポロの歌』に過度の性的描写があるとして、一部地域で青少年に対する発売禁止を受ける。
  • 1971年 - 虫プロ社長を退任。(虫プロ商事の社長は継続)。手塚プロダクション動画部を作り、テレビアニメシリーズ「ふしぎなメルモ」を制作し、朝日放送(現:朝日放送テレビTBS系列)で放送。
  • 1972年 -『ブッダ』を連載開始。
  • 1973年(45歳) - 虫プロ商事とそれに続いて虫プロダクションが倒産。虫プロダクションの経営から手を退いた後も、手塚は個人で多額の債務保証を行っていたため債権者に追われる身となるが、知人の葛西健蔵(現・アップリカ・チルドレンズプロダクツ会長)が後見人となり、版権の散逸は免れた。11月19日、『週刊少年チャンピオン』にて『ブラック・ジャック』の連載開始。
  • 1974年 - 練馬区から杉並区下井草に引っ越す。
  • 1975年 - 漫画作品『ブッダ』、『動物つれづれ草』により第21回文藝春秋漫画賞を受賞。『ブラック・ジャック』により第4回日本漫画家協会賞特別優秀賞を受賞。
  • 1977年 - 漫画作品『三つ目がとおる』、『ブラック・ジャック』により第1回講談社漫画賞少年部門受賞。講談社『手塚治虫漫画全集』(当初は第1 - 第3期の全300巻を予定)刊行開始。
  • 1978年(50歳) - 日本アニメーション協会(Japan Animation Association = JAA)の初代会長となった。
  • 1978年 - 日本テレビ系の夏の「24時間テレビ」の中で、日本初の単発2時間枠のスペシャルアニメ番組「100万年地球の旅 バンダーブック」を放送。
  • 1979年 - 児童漫画の開拓と業績により巖谷小波文芸賞受賞。
  • 1980年 - 東宝洋画系で劇場用長編アニメーション「火の鳥2772」を公開。サンディエゴ・コミック・コンベンション・インクポット賞受賞。国際交流基金のマンガ大使として国連本部、米国の大学で現代日本のマンガ文化について講演。映画『ヒポクラテスたち』に、大学病院の教授役でカメオ出演する。
  • 1983年(55歳) - 漫画作品『陽だまりの樹』により第29回(昭和58年度)小学館漫画賞(青年・一般向け部門)受賞。
  • 1984年 - 実験アニメーション『ジャンピング』がザグレブ国際アニメーション映画祭グランプリおよびユネスコ賞を受賞。
  • 1985年 - 実験アニメーション『おんぼろフィルム』が第1回国際アニメーション映画祭広島大会グランプリ受賞。東京都民文化栄誉章受章。漫画家生活40周年、『講談社 手塚治虫漫画全集』(当初予定した3期分全300冊)の完結により、講談社漫画賞特別賞受賞。同年7月にフランスで開催された「日仏文化サミット85」(朝日新聞社、フランス文化省、コミュニケーション国際広場CICOM主催、日仏両国外務省後援)に参加。
  • 1986年 - 漫画作品『アドルフに告ぐ』により、第10回講談社漫画賞一般部門受賞。
  • 1987年 - 愛知県岡崎市で開催の地方博覧会「葵博」の総合プロデューサーを務める。
  • 1988年2月13日 - 朝日賞受賞記念講演(東京・有楽町朝日ホール)、講演題「アニメーションと私」。
  • 1988年6月4日 - 高橋健矢島稔、田中栄治らと「日本昆虫倶楽部」を創設し初代会長に[266]
  • 1988年(60歳) - 戦後マンガとアニメーション界における創造的な業績により朝日賞受賞[267]。実験アニメーション「森の伝説」で毎日映画コンクール大藤賞受賞。ザグレフ国際アニメーション映画祭CIFEJ賞(青少年映画賞)を受賞。体調悪化により急遽入院(スキルス性胃癌と判明するが本人自身には伝えられず)。11月1日に大阪教育大学附属池田小学校で生涯最後の講演を行う。
  • 1989年2月9日 - 胃癌により入院中の半蔵門病院にて午前10時50分に死去(60歳没)。戒名は伯藝院殿覚圓蟲聖大居士。没後に日本政府から勲三等瑞宝章叙勲[268]日本SF作家クラブ主催第10回日本SF大賞特別賞受賞。
  • 1990年 - 東京国立近代美術館で回顧展。権威ある美術館で、没後1年足らずで回顧展が開かれた。国立美術館での漫画家の回顧展は空前のことであるという。同年、全業績に対して第19回日本漫画家協会賞文部大臣賞を受賞。
  • 1993年 - 第4期講談社手塚治虫全集の刊行を開始(その後1997年12月に第4期の刊行は完了し、全部で400冊の全集が完結した)。
宝塚市立手塚治虫記念館
  • 1994年 - 兵庫県宝塚市に、宝塚市立手塚治虫記念館が4月25日に開館した。これのメモリアル公演として宝塚歌劇団花組が第80期生初の舞台公演として『ブラック・ジャック 危険な賭け』『火の鳥』を上演。
  • 2002年 - 米アイズナー賞の「漫画家の殿堂」入り。同年に日本漫画家協会と出版社5社は手塚治虫の誕生日である11月3日を「漫画の日」とすることを提唱。
  • 2004年 - 漫画『ブッダ』の英訳版がアイズナー賞の最優秀国際作品部門を受賞。
  • 2007年 - 2008年に生誕80周年を迎えることを記念して、手塚治虫作品を読者の手で選んで発行する『手塚治虫O(オンデマンド)マガジン』のサービスが開始される。
  • 2008年 - 生誕80周年を記念して小学館から過去のコミックの特装版、純金製アトムなどの商品の発売、出身地宝塚でのイベント、アメリカ合衆国サンフランシスコでの手塚治虫展、広島国際アニメーションフェスティバル、東京国際映画祭で過去に自身が手がけたアニメ作品が特集されて上映。
  • 2009年 - 江戸東京博物館で特別展「手塚治虫展」開催。
  • 2009年10月 - 講談社『手塚治虫文庫全集』(全200巻)刊行開始。
  • 2011年4月28日から6月30日 - 大阪大学総合学術博物館 侍兼山修学館で、大阪大学総合学術博物館第13回企画展「阪大生・手塚治虫 - 医師か?マンガ家か?-」開催
  • 2012年 - 世田谷文学館にて「地上最大の手塚治虫展」開催。
  • 2013年 - 練馬区立石神井公園ふるさと文化館にて特別展「鉄腕アトム放送50周年記念 - 鉄腕アトムが飛んだ日」(開催期間:2013年1月19日-3月24日)。
  • 2013年 - 愛知県岡崎市「おかざき世界子ども美術博物館」で「手塚治虫展」。原稿や愛用品など約170点を展示(開催期間:2013年4月27日-2013年7月15日)。
  • 2013年 - 東京都現代美術館で特別展「手塚治虫×石ノ森章太郎 マンガのちから」(2013年6月29日 - 9月8日)。以降、広島県立歴史博物館(2013年11月15日 - 2014年1月5日)、大阪歴史博物館(2014年1月15日 - 3月10日)、山梨県立博物館(2014年3月21日 - 5月19日)、宮城県美術館(2014年5月31日 - 7月27日)、長野県信濃美術館(2014年10月4日-12月7日・予定)を巡回。
  • 2014年 - 大学入試センター試験二日目(1月19日、日曜日)の日本史Bの設問に手塚が取り上げられ、著書や漫画が使われた。※注:学校用教科書に手塚治虫の文章が掲載された例は在命中にも何度かある。
  • 2014年4月7日 - 米グーグルのWebサイト「歴史アーカイブ(Google Cultural Institute)」に漫画やアニメ作品でたどる手塚治虫の生涯が公開。
  • 2014年5月16日(?) - スペイン、バルセロナのコミックサロンで、手塚治虫作「人間昆虫記」が外国作品部門で受賞 ※日本漫画作品では初の受賞。
  • 2014年7月12日から8月31日 - 滋賀県立近代美術館で「手塚治虫展」(2014年7月12日-8月31日)開催。
  • 2014年7月25日 - 漫画『地底国の怪人』の英訳版(The Mysterious Underground Men, by Osamu Tezuka(PictureBox))がアイズナー賞の最優秀国際アジア作品部門を受賞。
  • 2014年7月19日から10月5日 - 湯前まんが美術館(熊本県球磨郡湯前町中央公民館(那須良輔記念館))で「火の鳥連載60周年記念 阿蘇と手塚治虫」展(2014年7月19日 - 10月5日)開催。
  • 2014年9月5日から9月14日 - 横浜みなとみらいのブリリアショートショートシアターで、手塚治虫の実験アニメーション特集(2014年9月5日 - 9月14日)。※「森の伝説 第二楽章」完成記念。初日に手塚眞のトークショウ。※2014年8月21日に第15回広島国際アニメーションフェスティバルでのワールドプレミア上映に続く一般向け公開。
  • 2014年11月3日から11月9日 - 東京・吉祥寺の吉祥寺ギャラリー・カイ(GALLERY KAI)で「手塚治虫の美女画展」開催。
  • 2015年2月28日から5月10日 - 京都国際マンガミュージアムで「医師たちのブラック・ジャック展」開催。
  • 2015年12月17日から12月23日 - 吉祥寺リベストギャラリー創で「手塚治虫文化祭 〜キチムシ‘15〜」開催。
  • 2016年7月30日から8月21日 - 会津若松市歴史資料センター「まなべこ」で特別企画展「手塚治虫と会津」開催。
  • 2016年9月10日から11月13日 - さいたま市立漫画会館1階 企画展示室で「手塚治虫とっておきの漫画」展開催。
  • 2018年1月25日から3月11日 - フランス・アングレーム美術館で展覧会「Osamu Tezuka, Manga no Kamisama」開催。
  • 2018年7月13日から9月2日 - 台湾台北市誠品書店敦南店で「漫畫之神-手塚治虫 生誕90年紀念展」開催。「手塚治虫書店」も出店。
  • 2019年4月1日 - 宝塚市立手塚治虫記念館がリニューアルオープン。
  • 2019年1月TVアニメ「どろろ」が放送開始
  • 2019年10月1日 - キオクシアの「#世界新記憶」第1弾として人工知能による手塚治虫新作漫画制作プロジェクト「TEZUKA2020」(テヅカニーゼロニーゼロ)が発表、タイトルは『ぱいどん』で2020年2月及び4月にモーニングで前後編が掲載された[269][270]
  • 2020年9月28日 - 米国の出版社ファンタグラフィックスが主催する漫画の賞ハーヴェイ賞(The Harvey Awards)の運営委員会は、2020年9月28日に手塚治虫に対して殿堂入りクリエイターとして"Harvey Awards Hall of Fame"を授与すると発表。
  • 2021年3月24日から4月5日 - 阪急うめだ本店 9階 阪急うめだギャラリーで「手塚治虫のクリエーション」開催。

注釈

  1. ^ 生前は1926年生まれと自称していた(「現代漫画6巻 手塚治虫集」〈筑摩書房〉著者紹介など)。
  2. ^ a b c d テレビアニメとしてはそれ以前に『もぐらのアバンチュール』『新しい動画 3つのはなし』『インスタントヒストリー』『おとぎマンガカレンダー』などが放映されている。
  3. ^ 初出は開高健「マンガの神様・手塚治虫」(週刊朝日1964年2月21日号)。ちなみに、生前の手塚は著書『ぼくはマンガ家』のように、漢字表記の「漫画」よりカタカナ表記の「マンガ」を好んで使っていた。
  4. ^ ただし、後述の石原実は手塚没後のインタビューで「手塚がいじめっ子を自宅に呼んで漫画で懐柔・籠絡した」とされる点に疑問を呈している。石原によると、同窓会のたびに皆で「おかしいなー」と言っていたが、手塚本人に言うと「『すまん、すまん』とケロッとして」いたという。(池田啓晶他 『手塚治虫完全解体新書』 集英社、2002年、p238)
  5. ^ なお、1947年の大阪帝国大学から大阪大学への名称変更に伴い、医学専門部も大阪大学附属医学専門部と改称された。
  6. ^ 旧制大学と旧制専門学校は明確に区別されており、旧制専門学校卒業生には学士号の授与も行われなかった。
  7. ^ 徹夜明けであっても映画館に駆け込んだという。『観たり撮ったり映したり』(手塚治虫著)
  8. ^ ただし、アニメーション『鉄腕アトム』関係者への聞き取りと資料の再調査を行った津堅信之は実際には「当初は1本155万円が代理店より制作費として支払われていた」としている。津堅によると、その後も制作料は少しずつ引き上げられており、「虫プロは確実に経営努力を実施して、かつ結果を得ている。『『アトム』を55万円で作ったから、その後のアニメ制作環境が悪くなった』という評価がいまだにあるとすれば、短絡的であると言わざるを得ない。」としている(津堅信之『アニメ作家としての手塚治虫―その軌跡と本質』NTT出版、2007年)。
  9. ^ アニメーターの大塚康生は、手塚が一方で理想のアニメに憧れながらも、遂にそれを成し遂げられなかった原因を、商業主義のためではなくて、手塚がアニメの技術について無知だったからだとしている。「演技設計やアニメートに無関心では優れたアニメーションになるはずがなかったように思います。実際、手塚氏はフル・アニメーションの基礎技術をディズニーなどの先達に学んだ形跡がなく、ろくにアニメーターの養成もせずに漫画的なリミテッドから出発している点も実に不思議です」(大塚『作画汗まみれ 増補改訂版』P95「4章 テレビアニメーション時代の幕開け」)
  10. ^ なお『どろろ』作中の妖怪は水木の影響を受けたと思われる点描が用いられている(夏目、151-152p)。
  11. ^ 手塚本人は1971年に経営者を退いていた。
  12. ^ 1986年1月10日に『手塚治虫 創作の秘密』がNHK総合で放送された[83]
  13. ^ 当時の主治医によれば、この時点ですでにステージ4の段階であり、腹膜にまでがんが転移していたという。しかし、癌であること自体は当時の医療慣習により本人には最後まで告知されず、胃潰瘍と告げられていた。
  14. ^ 医師法第八条の規定に基づき内閣が制定した医師法施行令の第四条第二項には「医師が死亡し、又は失そうの宣告を受けたときは、戸籍法(昭和二十二年法律第二百二十四号)による死亡又は失そうの届出義務者は、三十日以内に、医籍の登録のまつ消を申請しなければならない。」とあり、また同七条第一項には「医師は、医籍の登録のまつ消を申請するときは、住所地の都道府県知事を経由して、免許証を厚生労働大臣に返納しなければならない。第四条第二項の規定により医籍の登録のまつ消を申請する者についても、同様とする。」となっている。このため本来は死亡後三十日以内に遺族が医師の免許証の返納手続きをとるべきなのであったが、記念館内に展示保管されているために悪用されるおそれがないこと、医師免許証に文化財としての価値があるという理由で、法令の本来の規定を超えた特例の措置がなされた。
  15. ^ トレードマークの縦縞がなく、胸の部分に「OSAKA」と描かれているデザイン。
  16. ^ この机は安孫子の生家である富山県氷見市の光禅寺に保管されている。
  17. ^ 別の対談では、このとき手塚は家にいたが、母親に「留守です」と帰されたとも語っている
  18. ^ ただし、作中で説明されるのは井上ひさしが1971年に執筆した戯曲版のストーリーである。
  19. ^ うしおそうじは伝聞としてほぼ同じ内容を著書に記している(ただし、最後の「大阪人め」の箇所が「贅六め」という関西人への侮蔑語になっている)[225]
  20. ^ 手塚は『ぼくはマンガ家』において福井の死去が謝罪から「一カ月ほどたって」と記す一方、謝ったのは「綿のような雪の降る日」としており[224]、6月下旬に福井が死去した事実とは食い違っている。
  21. ^ 2011年時点で宮崎は70歳、手塚の没年は60歳。
  22. ^ フジパンロボット館は閉幕後に愛知青少年公園(現・愛・地球博記念公園)に移設され、2005年に愛・地球博でも展示された。
  23. ^ なお、治虫の作品に父親の存在が希薄であることはしばしば指摘されている。(桜井、34p)

出典

  1. ^ a b 時事通信『時事年鑑 1990年版』時事通信社、1989年、205頁。 
  2. ^ 宝塚市名誉市民など”. 宝塚市. 2022年8月17日閲覧。
  3. ^ a b 手塚プロダクション. “1980年代 年譜 手塚治虫について”. 手塚治虫公式サイト. 2019年8月10日閲覧。
  4. ^ 桜井, p. 22.
  5. ^ 桜井, pp. 24–28.
  6. ^ 夏目, pp. 70–71.
  7. ^ 桜井, p. 31.
  8. ^ 手塚 1999, p. 20.
  9. ^ , p. 20.
  10. ^ 手塚 1997, p. 20.
  11. ^ 手塚 1997, pp. 20–22.
  12. ^ a b 手塚 1997, p. 13.
  13. ^ 手塚 2009.
  14. ^ 手塚 1997, pp. 6–9.
  15. ^ 桜井, p. 32.
  16. ^ 手塚 1999, p. 29.
  17. ^ 手塚 1999, p. 274.
  18. ^ a b 桜井, p. 45.
  19. ^ 手塚 1997, p. 52.
  20. ^ 桜井, p. 58.
  21. ^ 手塚 1997, pp. 52–59.
  22. ^ 桜井, pp. 48–50.
  23. ^ 手塚 1997, p. 62.
  24. ^ a b 桜井, p. 59.
  25. ^ 手塚 1999, pp. 57–60.
  26. ^ 竹内 2008 p.88
  27. ^ 手塚 1999, pp. 61–65.
  28. ^ a b 米澤, p. 13.
  29. ^ 竹内 2008 p.74
  30. ^ 河本寿栄 著、小佐田定雄 編『二代目さん 二代目桂春団治の芸と人』青蛙房、2002年2月、130-131頁。 
  31. ^ 手塚 1999, pp. 89–90.
  32. ^ 手塚 1999, p. 90.
  33. ^ 手塚 1999, p. 91.
  34. ^ 米澤, p. 82.
  35. ^ a b , p. 128.
  36. ^ 米澤, pp. 14–15.
  37. ^ 手塚 1999, p. 96.
  38. ^ 米澤, pp. 15–16.
  39. ^ 米澤, p. 16.
  40. ^ 手塚 1999, pp. 98–99.
  41. ^ 公表されている手塚治の医師免許による。
  42. ^ 手塚 1999, p. 100.
  43. ^ 桜井, pp. 72–73.
  44. ^ 米澤, p. 21.
  45. ^ 米澤, p. 27.
  46. ^ 米澤, p. 23.
  47. ^ 米澤, pp. 23–24.
  48. ^ 手塚 1999, p. 183.
  49. ^ 手塚 1999, pp. 184–185.
  50. ^ a b 米澤, p. 31.
  51. ^ 米澤, pp. 32–33.
  52. ^ a b 桜井, p. 118.
  53. ^ 米澤, pp. 85–86.
  54. ^ 桜井, p. 119.
  55. ^ 手塚 1999, pp. 216–217.
  56. ^ 桜井, p. 121.
  57. ^ 豊田, pp. 59–63.
  58. ^ アジア初の長編アニメ「西遊記 鉄扇公主の巻」新千歳空港で上映、岡田秀則の講演も”. 映画ナタリー (2017年11月3日). 2018年3月8日閲覧。
  59. ^ 纪念手冢治虫辞世20年 他曾让阿童木牵手孙悟空”. 网易娱乐 (2009年10月22日). 2017年11月6日閲覧。
  60. ^ 手塚 1999, pp. 33–34.
  61. ^ 山本.
  62. ^ 大宅壮一は1958年に「文藝春秋」で連載した「日本の人物鉱脈」で「最近私は"阪僑"という妙な言葉をつくって、大阪人気質、東京その他における大阪系人物のありかたを、南方諸地域や日本における中国人のありかたになぞらえて」と書いている。
    札埜和男『大阪弁「ほんまもん」講座』新潮社、2006年 ISBN 978-4106101601 p20
  63. ^ a b 手塚 1999, p. 237.
  64. ^ 桜井, p. 136.
  65. ^ a b 手塚 1999, p. 242.
  66. ^ 桜井, p. 142.
  67. ^ 手塚 1999, p. 249.
  68. ^ 手塚 1999, p. 249.
  69. ^ 「話の特集」1979年7月号 瀕死のアニメーション
  70. ^ 米澤, p. 50.
  71. ^ 米澤, p. 55.
  72. ^ a b 米澤, p. 54.
  73. ^ 米澤, pp. 56–57.
  74. ^ 米澤, p. 59.
  75. ^ 米澤, pp. 59–62.
  76. ^ 桜井, pp. 166–167.
  77. ^ 夏目, pp. 169–170.
  78. ^ 夏目, p. 170.
  79. ^ 米澤, p. 65.
  80. ^ 米澤, p. 67.
  81. ^ 米澤, p. 72.
  82. ^ 米澤, p. 93.
  83. ^ NHK特集「手塚治虫 創作の秘密」”. NHK (2021年12月21日). 2021年12月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年12月26日閲覧。
  84. ^ 手塚治虫、松谷孝征『手塚治虫 壁を超える言葉』かんき出版、2014年10月。"第25章"。 
  85. ^ 1989年2月10日放送『おはよう!ナイスデイ』
  86. ^ a b 手塚眞「わが父 手塚治虫」朝日ジャーナル臨時増刊1989年4月20日号『手塚治虫の世界』所収
  87. ^ NHK「手塚治虫 世紀末へのメッセージ」1999年1月15日 22:00 - 22:50放送
  88. ^ 集英社新書「手塚先生、締め切り過ぎてます!」福元一義 2009年
  89. ^ 東京読売新聞朝刊「いま永遠の"火の鳥"となる 手塚治虫さんの葬儀にファン1万人」(1989年3月3日)
  90. ^ 東京読売新聞朝刊「手塚治虫さんの通夜 2000人がお別れ / 東京・東久留米」(1989年2月12日)
  91. ^ 米澤, p. 80.
  92. ^ NHKスペシャル「いのち〜わが父・手塚治虫」(1989年4月16日)
  93. ^ 宮﨑駿『折り返し点』(p.116、梅原の発言)
  94. ^ A Yiddishe Manga: The Creative Roots of Japan's God of Comics” (PDF). Innovative Research in Japanese Studies. Wix. 2014年7月17日閲覧。
  95. ^ 渡辺泰「アニメーションに魅せられた神様」、霜月たけなか編『誕生!「手塚治虫」』所収、朝日ソノラマ、1998年、101-102p
  96. ^ デアゴスティーニ『週刊100人』第20号「チャールズ・チャップリン」、2003年10月21日発行、27p
  97. ^ 「手塚治虫の引き裂かれた夢 (2)」
  98. ^ 洋泉社時代の映画秘宝の連載をまとめた町山智浩柳下毅一郎ベスト・オブ・映画欠席裁判 (文春文庫 ま 28-2)出版社  : 文藝春秋 (2012/3/9).発売日  : 文庫 ‏ 549ページ ISBN-13 : 978-4167801700
  99. ^ a b 手塚治虫氏と『孫悟空』”. 中国網. 2018年3月8日閲覧。
  100. ^ 手塚治虫と孫悟空の「縁」 (3)”. 人民網 (2017年7月27日). 2018年3月8日閲覧。
  101. ^ 手塚 1999, pp. 21–22.
  102. ^ 夏目, pp. 67–92.
  103. ^ 「第一章 マンガとの出会い」内「あかぬけていた大阪文化」内の本人発言、手塚治虫+聞き手=石子順『手塚治虫漫画の奥義』、講談社、1992年
  104. ^ 久能靖 (2002). 浅間山荘事件の真実. 河出書房新社. p. 314 (1972年2月28日付『朝日新聞』から引用)
  105. ^ 『二人で少年漫画ばかり描いてきた』p.20
  106. ^ 石森章太郎『少年のためのマンガ家入門』秋田書店、1965年。
  107. ^ 日本漫画学院(木村忠夫)編『漫画家名鑑1 漫画家訪問記』草の根出版会、1989年、p.84。ちばてつやインタビュー。
  108. ^ 瀬戸龍哉編『コミックを創った10人の男 巨星たちの春秋』ワニブックス、2002年、p.107。望月三起也インタビュー
  109. ^ a b 辰巳, p. 18.
  110. ^ 桜井昌一『ぼくは劇画の仕掛人だった』エイプリル出版、1978年、p.32
  111. ^ 佐藤まさあき『「劇画の星」をめざして 誰も書かなかった「劇画内幕史」』文藝春秋、1996年、p.11
  112. ^ 竹内オサム『手塚治虫論』平凡社、1992年、224-232p
  113. ^ 米澤, p. 97.
  114. ^ 野口文雄『手塚治虫の「新宝島」』小学館、2007年
  115. ^ 「霜月たかなか編『誕生!「手塚治虫」マンガの神様を育てたバックグラウンド』(1998年、朝日ソノラマ)
  116. ^ 夏目房之介『手塚治虫はどこにいる』筑摩書房、1992年、48p
  117. ^ 夏目, pp. 44–46.
  118. ^ 夏目, pp. 47–66.
  119. ^ 米澤, pp. 161–162.
  120. ^ 米澤, pp. 162–163.
  121. ^ 米澤, p. 181.
  122. ^ 桜井, p. 116.
  123. ^ 手塚 1997.
  124. ^ 手塚治虫エッセイ集(3)(手塚治虫漫画全集) P185-186 講談社 1997年
  125. ^ 思わずバンザイをし涙をこぼした:手塚治虫と戦争:TezukaOsamu.net(JP) 手塚治虫 公式サイトhttps://tezukaosamu.net/jp/war/entry/47.html 講談社版手塚治虫漫画全集『手塚治虫講演集』「未来人へのメッセージ」講談社、1986年岩波書店刊『未来人へのメッセージ』
  126. ^ 手塚 1999, p. 53.
  127. ^ 竹内オサム『戦後マンガ50年史』(1995年、筑摩書房)
  128. ^ 光文社刊『漫画の描き方』より
  129. ^ 夏目, pp. 188–189.
  130. ^ 夏目, p. 189.
  131. ^ 鳴海丈『萌えの起源』PHP新書 2009年
  132. ^ 手塚治虫デビュー作品集 毎日新聞社 1991年
  133. ^ a b 石ノ森章太郎『漫画超進化論』(河出書房新社、1989年)
  134. ^ 杉山卓『アニメ・ハンドブック』秋元書房、1981年2月、209頁。 NCID BA40504320 
  135. ^ 1989年2月10日金曜日放送 テレビ朝日『こんにちは2時 マンガ界の神様手塚治虫さん逝く!!』「「若く見られてはいけない」ということで、先生公称は大正15年生まれとして手塚さんは通していらしていたということですね」
  136. ^ 1978年『20歳への提言』オーシャンプランニング所収
  137. ^ 1992年『手塚治虫大全1』マガジンハウス社
  138. ^ 「論集 手塚漫画のはじまり」(1980年名著刊行会)
  139. ^ 「ユリイカ」手塚治虫特集号(1983年2月号)
  140. ^ 『漫画家・アニメ作家人名辞典』(日外アソーシエーツ)
  141. ^ 手塚(1987)、pp.6-7。原文には精密検査を受けたのは「四年前」とあるが、もとは1982年から『キネマ旬報』に連載されたもので、この箇所の掲載号が明示されていないため、具体的に何年を指すのかは不明確である。手塚自身は自分がA型ということに納得がいかず「断じてぼくは(引用者注:血液型性格分類でいうところの)B型だと思う」とも書いている。
  142. ^ 『ブラックジャック創作秘話』第2巻 p9 秋田書店
  143. ^ 開明墨汁 ニッポン・ロングセラー考 - COMZINE by nttコムウェア
  144. ^ 大塚英志、ササキバラ・ゴウ『教養としての〈まんが・アニメ〉』講談社現代新書、2001年、19p
  145. ^ TBS系「輝く日本の星! 手塚治虫を作る」
  146. ^ テヅカニアン博物館監修「手塚治虫の真実と謎と秘密と履歴書」p.72
  147. ^ 国際写真情報「異色対談 のらくろとアトム」1967年8月
  148. ^ 角川文庫「火の鳥13 ギリシャ・ローマ編」あとがきの手塚治虫の妹である宇都美美奈子の寄稿より
  149. ^ 手塚治虫「ぼくはマンガ家」1979年
  150. ^ 手塚治「異型精子細胞における膜構造の電子顕微鏡的研究」『奈良医学雑誌』第11巻第5号、奈良医学会、1960年10月1日、719-735頁、NAID 120004973463 
  151. ^ 手塚さんの医師免許で波紋/「返納義務ある」と指摘四国新聞社、2003年11月28日。
  152. ^ “1978年の10月12日、西武ライオンズが誕生。その経緯と豆知識”. SUUMOジャーナル. (2012年10月12日). https://suumo.jp/journal/2012/10/12/30668/ 2018年3月8日閲覧。 
  153. ^ 手塚治虫もトラファンだった 60年前の文通に素顔残す朝日新聞・2008年9月25日)。なお、1950年当時の球団名は「大阪タイガース」であったが、この当時から通称としては「阪神」と呼ばれていた。
  154. ^ 週刊少年マガジン1989年3月15日「思い出の手塚先生」
  155. ^ 藤子不二雄「トキワ荘青春日記」光文社
  156. ^ a b 「手塚治虫は宇宙人だ」月刊文藝春秋1989年4月号
  157. ^ 小学館「藤子不二雄自選集8」1981年 -藤子さんは凸凹コンビです 手塚治虫-
  158. ^ 小学館「コロコロコミック」1989年2月27日号
  159. ^ 朝日新聞「漫画家の梁山泊『トキワ荘』解体」1982年12月1日
  160. ^ a b 石ノ森章太郎のマンガ教室
  161. ^ 手塚 1999.
  162. ^ 石ノ森章太郎『ことばの記憶』2008年 P.132
  163. ^ a b 秋田文庫「ぜんぶ手塚治虫!」2007年
  164. ^ 日本漫画学院 赤塚不二夫インタビュー Archived 2008年9月16日, at the Wayback Machine. 参考。
  165. ^ 『トキワ荘の青春 ぼくの漫画修行時代』、44-46頁。
  166. ^ 古谷三敏「ボクの手塚せんせい」2010年 P.55
  167. ^ 赤塚不二夫120% 小学館文庫 1999年
  168. ^ 自由国民社「赤塚不二夫の特集」1997年
  169. ^ 秋田文庫「鉄の旋律」手塚治虫 水野による巻末のあとがきより
  170. ^ a b 1987年「トキワ荘青春物語」蝸牛社 -トキワ荘前史 手塚治虫-
  171. ^ a b 手塚治虫「ぼくはマンガ家」大和書房、1988年、175p
  172. ^ 福元一義『手塚先生、締め切り過ぎてます!』集英社《集英社新書》、2009年 P.44
  173. ^ 1989年2月23日 SPA!
  174. ^ 横山光輝さんのこと「復刻版鉄人28号」第三巻 大都社 1979年
  175. ^ a b 松本零士「未来創造-夢の発想法」2010年 p.111
  176. ^ 松本零士「未来創造-夢の発想法」2010年 p.129
  177. ^ 松本零士『未来創造-夢の発想法』2010年 p.133
  178. ^ 手塚プロダクション, p. 136.
  179. ^ 松本零士:「手塚治虫 逃亡先から呼び出し電報」、文藝春秋、2014年1月号、頁334 - 336(特別企画「世界が驚愕した日本人54人」の中の1つとして掲載)
  180. ^ アンソロジー『ブラック・ジャックALIVE』(2005年、秋田書店)
  181. ^ 産経ニュースwest 2012.10.26 『永井豪「手塚先生とコラボ、夢が実現」アトム〜マジンガーZ…特別展で系譜も披露』より
  182. ^ 永井豪『漫画家』p。35(1992年、実業之日本社)
  183. ^ 手塚プロダクション, p. 140.
  184. ^ 手塚プロダクション, p. 142.
  185. ^ 手塚プロダクション, p. 150.
  186. ^ 古谷三敏「ボクの手塚せんせい」2010年 P.45
  187. ^ 探検バクモン』2013年1月23日付放送分
  188. ^ 株式会社金の星社「手塚治虫物語―漫画の夢1945〜1959」2009年、P.151
  189. ^ 手塚プロダクション, p. 148.
  190. ^ a b 小学館「ビッグコミック」1989年3月10日
  191. ^ 辰巳, p. 11.
  192. ^ 辰巳, p. 6.
  193. ^ 辰巳ヨシヒロ「劇画漂流」青林工藝舎
  194. ^ 辰巳, p. 145.
  195. ^ 辰巳, p. 292.
  196. ^ 辰巳, p. 304.
  197. ^ 辰巳, p. 320.
  198. ^ 「つげ義春自分史」『つげ義春全集・別巻 苦節十年記/旅籠の思い出』筑摩書房 1994年 ISBN 4-480-70169-9
  199. ^ 白土三平「嵐の忍者」小学館クリエイティブ
  200. ^ 草森紳一「マンガ考」
  201. ^ 漫画の教科書「思想の科学」1982年3月号
  202. ^ 手塚治虫「ぼくはマンガ家」大和書房、1988年、178p
  203. ^ 角川書店「大友克洋×メトロポリス」2001年7月1日 P. 123
  204. ^ 角川書店「大友克洋×メトロポリス」2001年7月1日 P. 121
  205. ^ ユリイカ臨時増刊号『総特集大友克洋「カミソリ感覚」』1988年8月
  206. ^ COMIX BOX「特集ぼくらの手塚治虫」1989年
  207. ^ 『1億人の手塚治虫』(1989年、JICC出版局)
  208. ^ 石坂啓のインタビューによる
  209. ^ 映画メトロポリス公式サイト
  210. ^ NHK-FMラジオ 「日曜喫茶室 鉄腕アトムの贈り物」1993年5月30日
  211. ^ 手塚治虫名作集11「新撰組」あとがきの萩尾による寄稿より。
  212. ^ 1989年「SFマガジン」4月号
  213. ^ 手塚プロダクション, p. 144.
  214. ^ 手塚 1999, p. 87.
  215. ^ 手塚治虫漫画全集「鳥人体系」あとがきより
  216. ^ 報知新聞 1989年2月10日
  217. ^ a b 峯島正行『回想 私の手塚治虫』(山川出版社)P.47
  218. ^ a b 峯島正行『回想 私の手塚治虫』(山川出版社)P.72
  219. ^ やなせたかし「アンパンマンの遺書」岩波書店 1995年 P146
  220. ^ やなせたかし「アンパンマンの遺書」岩波書店 1995年 P154
  221. ^ 平凡パンチ 1984年5月 私の少年漫画誌
  222. ^ 手塚治虫「ぼくはマンガ家」大和書房、1988年、144p
  223. ^ イガグリくん - マンガ図書館Z(外部リンク)
  224. ^ a b c d e 手塚治虫『ぼくはマンガ家 手塚治虫自伝・1』大和書房、1979年、pp.133 - 137
  225. ^ うしおそうじ『手塚治虫とボク』草思社、2007年、pp.128 - 129
  226. ^ 手塚 1999, pp. 171–176.
  227. ^ 石ノ森章太郎のマンガ家入門 秋田文庫
  228. ^ 「手塚治虫物語―漫画の夢1945〜1959」金の星社、2009年、p.183
  229. ^ ヨシトミヤスオ「マンガ漫画の魅力」1978年。手塚とヨシトミとの対談による手塚本人談
  230. ^ 大下英治「第五章 多様化するテレビアニメの世界 「悪魔くん」に先を越される」『日本ジャパニーズヒーローは世界を制す』角川書店、1995年11月24日、ISBN 4-04-883416-9、110頁。
  231. ^ 初出は小学館の『ビッグコミック』1969年10月25日号、角川文庫『畏悦録』収録
  232. ^ 足立倫行『妖怪と歩く 評伝・水木しげる』(1994年、文藝春秋
  233. ^ 講談社「ゲゲゲの鬼太郎 TVアニメDVDマガジン」第一巻 水木へのインタビューより
  234. ^ 手塚 1987, p. 17.
  235. ^ 『水木サンの幸福論』174ページ
  236. ^ a b いしかわじゅん「フロムK」(双葉社週刊漫画アクション』1989年3月7日号掲載分)
  237. ^ まんが情報誌「ぱふ」1989年4月
  238. ^ 秋田書店「ブラック・ジャック創作秘話1」
  239. ^ 秋田書店「ブラック・ジャック創作秘話」1巻
  240. ^ 小学館『週刊少年サンデー』1989年3月1日「まんがの神様手塚治虫ご逝去を掉む」
  241. ^ 1989年3月10日号「週刊朝日」夏目房之介のコラムより
  242. ^ 夏目房之介「手塚治虫はどこにいる」筑摩書房 1992年
  243. ^ a b NHK BS2「週刊手塚治虫」2009年4月17日 ゲスト富野由悠季
  244. ^ 産経新聞ニュース「ガンダムの富野監督の語った鉄腕アトムと手塚治虫」(2013年6月)
  245. ^ 富野由悠季「∀の癒し」
  246. ^ 河出書房新社「文藝別冊 総特集 手塚治虫」1999年 P.18
  247. ^ 虫ん坊「新作アニメーション火の鳥 高橋良輔監督インタビュー」(2004年4月号)
  248. ^ 宮崎駿『出発点 1979-1996』徳間書店、1996年、pp231-236。
  249. ^ a b 宮崎駿「手塚治虫に「神の手」を見たとき、ぼくは彼と訣別した」『COMIC BOX』(ふゅーじょんぷろだくと)1989年5月号
  250. ^ 宮崎駿さんの手塚体験 「原点だから崇拝しない」(2009年4月19日時点のアーカイブ)YOMIURI ONLINE、2009年4月14日。
  251. ^ 1980年5月 ぱふ
  252. ^ 徳間書店「アニメージュ」1981年8月号
  253. ^ 徳間書店「The art of Nausica」1984年6月20日
  254. ^ 宮崎駿の手塚批判に自分なりに思ったこと。
  255. ^ ムック『増版決定版 漫画の神様 手塚治虫の仕事(クリエイション)』CCCメディアハウス、2020年3月
  256. ^ 宮崎駿「本へのとびら」岩波新書、2011年、pp137-138。
  257. ^ NHK特集『手塚治虫 創作の秘密』(1986年1月10日放送)
  258. ^ 『熱討スタジアム』「トキワ荘」の青春を語ろう」『週刊現代2019年11月2・9日合併号』、講談社、2019年10月28日、143頁、2019年10月28日閲覧 
  259. ^ 増田弘道 (2013年2月5日). “なぜ手塚治虫はヒット作を生み出し続けることができたのか”. ITmedia ビジネスオンライン. アイティメディア. p. 2. 2019年12月6日閲覧。
  260. ^ a b c 【田中圭一のペンと箸-漫画家の好物-】第二話:手塚治虫の「チョコレート」”. ぐるなび みんなのごはん. 2015年5月30日閲覧。
  261. ^ 漫画家・古谷三敏が語る 手塚治虫と赤塚不二夫の酒の思い出
  262. ^ 「♪こころやさし アトムきょう誕生日」 しんぶん赤旗 2003年4月7日(月)
  263. ^ JCPS_Officialのツイート(1150971146809954305)
  264. ^ 唐沢俊一氏がツイートしてた手塚治虫が共産党の応援演説後、同日に自民党の応援をしたという話の出典がわからない”. 電脳塵芥. 2023年3月9日閲覧。
  265. ^ “新たな手塚治虫”は二次創作から生まれる―後世に受け入れられるプロデュース術とは”. Wantedly Journal (2017年3月1日). 2024年2月11日閲覧。
  266. ^ 日本昆虫倶楽部ご案内
  267. ^ 朝日賞 1971-2000年度”. 朝日新聞社. 2022年8月31日閲覧。
  268. ^ 叙勲について(手塚治ペンネーム治虫)”. 国立公文書館. 2019年4月28日閲覧。
  269. ^ ““手塚治虫の新作マンガ”をAIが執筆、プロジェクト「TEZUKA2020」始動”. コミックナタリー (ナターシャ). (2019年10月1日). https://natalie.mu/comic/news/349814 2020年6月18日閲覧。 
  270. ^ “手塚治虫さんの新作漫画、AI技術で30年ぶり“復活” 息子・手塚眞氏「まさに漫画の中のよう」”. オリコンニュース (オリコン). (2020年2月26日). https://www.oricon.co.jp/news/2156142/full/ 2020年6月18日閲覧。 
  271. ^ 手塚治虫の家系図(深瀬泰旦:「漫画の神様 手塚治虫とその一族」、歴史と旅、秋田書店、2000年2月号より)
  272. ^ 手塚 1997, pp. 17–19.
  273. ^ アニメ雑学おもしろ事典(1984年、白泉社)手塚インタビュー
  274. ^ 手塚 1997, pp. 10–12.
  275. ^ テヅカニアン博物館監修「手塚治虫の真実と謎と秘密と履歴書」p.12
  276. ^ a b c 桜井 2015, p. 61
  277. ^ a b c d e 秦 2005, pp. 545–611, 第3部 陸海軍主要学校卒業生一覧-I 陸軍-1.陸軍大学校卒業生
  278. ^ 桜井, p. 37.
  279. ^ 桜井, p. 40.
  280. ^ 『手塚治虫完全解体新書』所収
  281. ^ 2009年2月9日放送「BS20周年企画 手塚治虫2009」
  282. ^ 手塚 1999, p. 217.
  283. ^ 桜井, p. 122.
  284. ^ , p. 25.
  285. ^ 松岡さんが亡くなった - 鎌倉・十二所わくわく通信(伊藤淳子のブログ)、2023年2月5日
  286. ^ E o projeto continua!:Henshin!(2010年9月7日時点のアーカイブ)(ポルトガル語)参照。
  287. ^ Panini lança edição especial que reúne Turma da Mônica Jovem com personagens do japonês Osamu Tezuka、o pai do mangá、em aventura na Amazônia[リンク切れ] (ポルトガル語)参照。
  288. ^ Tezka Macoto' 6D -手塚眞ブログ-:SUWA 及び Tezka Macoto' 6D -手塚眞ブログ-:DALI 参照。
  289. ^ [1]






手塚治虫と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「手塚治虫」の関連用語

手塚治虫のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



手塚治虫のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの手塚治虫 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS