健民修錬所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/12 16:41 UTC 版)
健民修錬所(けんみんしゅうれんじょ)[注釈 1]は、太平洋戦争期の大日本帝国において、国民の体力の管理を目指した国民体力法に基づいて設置された教練・療養施設である。1940年に制定された国民体力法は、17~19歳(のちに15~25歳)の全ての男子に対して体力検査を義務付けるものであったが、この中で「兵役に適さない者」とされた筋骨薄弱者・結核要注意者などを修錬所に集め、最大2ヶ月間の合宿形式の生活教練を施した。この制度・施設は1943年から1945年にわたって存続した。
- ^ 健民修練所とも表記される。
- ^ 実際にはこの言に反して、1920年代から1930年代半ばまでは、壮丁の体位(身長・体重・比体重)は低下よりもむしろ増大傾向にあった。ただし1926年以降、日露戦争後のベビーブームによって徴兵受検者が増加する一方で、現役兵ないし補充兵に当てられる甲種・乙種の定員は抑えられていたことから、それに満たない丙種の層が数字上増加していた背景があった[2]。
- ^ 精兵厳選主義を根本方針としていた徴兵検査の現場において、軍医や徴兵関係者の多くは、体位や疾病の有無といった客観的基準は、兵役に適した壮丁の選出には不都合であると考えていた。そこで、あえて定義の不明瞭な「筋骨薄弱」という文言を徴兵検査における「兵役に適せざる者」の基準に盛り込むことで、現場において柔軟な判断を可能にしようとしたのである[1]。もっともその背景には、現場で即時に判断困難な結核罹患者をあらかじめ排除するのに、体格が有効とされていたという事情もあった[5]。
- ^ 1939年から厚生省が導入した制度で、100メートル疾走・200メートル走・手榴弾投・運搬・走幅跳・懸垂といった検定種目に3階級の合格基準を設定し、総力戦体制下の体力向上の目標とした。国防年齢層の青少年を対象として、戦技の基礎能力を養成することを目的とするものだった[4]。
- ^ a b c 森川 2004.
- ^ 高岡 2011, pp. 42–44.
- ^ 高岡 2011, pp. 44–46.
- ^ a b c d 権 2018.
- ^ 高岡 2011, pp. 50–51.
- ^ 高岡 2011, pp. 262, 265.
- ^ 高岡 2011, pp. 262–264.
- ^ 「健民修錬所 42万人を鍛錬 8月、全国一斉に開所」『朝日新聞』、1943年6月11日、朝刊、2面。
- ^ a b 平成26年厚生労働白書「我が国における健康をめぐる施策の変遷」2014年。
- ^ 「さあ作ろう健兵健民 厚生省の新規要求 “結核殲滅”の大作戦 新たに女子体力章や武道章」『朝日新聞』、1942年12月12日、朝刊、3面。
- ^ 村井 2016, p. 127.
- ^ a b 「健民修錬所きょうから店開き 築け・勝抜く心身 弱体42万を鍛う」『朝日新聞』、1943年8月1日、朝刊、3面。
- ^ a b 扇谷 1943.
- ^ a b 「“虚弱”の汚名返上 輝く健民修錬所の戦果」『朝日新聞』、1944年5月9日、朝刊、3面。
- ^ 石垣 1943.
- ^ 高岡 2011, p. 272.
- ^ 下西 2001, p. 243.
- ^ 『岐阜県議会史』 3巻、1982年、124-125頁。
- ^ 島尾忠男「結核予防会渋谷診療所の回顧(1)」『複十字』第310号、財団法人結核予防会、2006年。
- ^ 手塚 1996, pp. 53–54.
- ^ 泉谷 2003, pp. 103–104.
- ^ 泉谷 2003, p. 104.
- ^ 荻 1986, p. 167.
- 1 健民修錬所とは
- 2 健民修錬所の概要
- 3 結果
- 4 証言
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