伝説の概要とは? わかりやすく解説

伝説の概要

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 01:48 UTC 版)

鈴鹿御前」の記事における「伝説の概要」の解説

文明18年1486年)に記された『壬生家文書』「坂上田村麻呂勘文」の田村すずゞかの物語勘文から、この頃には室町物語鈴鹿の物語田村の草子)』が成立していたことが判明している。お伽草子立烏帽子』は「立烏帽子近江国鈴鹿山池中三島蓬萊方丈瀛州)に御殿造って住む女盗賊で、悪鬼悪黒王の妻であったが、討伐に来た田村五郎利成矢文交わして計略により悪黒王を討たせ、田村めでたく結ばれた」という梗概である『立烏帽子』は能『田村』から発展したものか、『鈴鹿草子』の別伝として独立したもの定かではない。 現在一般に流布する鈴鹿御前伝承は、その多く室町時代後期成立した鈴鹿の物語(田村の草子)』や、江戸時代東北地方で盛んであった奥浄瑠璃演目『田村三代記』諸本負っている。写本刊本それぞれ本文異同見られ鈴鹿御前位置づけ異なる。諸本大別する2種類あり、鈴鹿御前田村丸戦い経て結婚し共に鬼退治をしたとする鈴鹿系古写本系)」と、田村丸助力をするために天下った鈴鹿御前田村丸結婚し共に鬼退治をしたとする田村系流布本系)」に分かれたとされる。ただし、この分類法には異論慎重論もある。

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酒呑童子」の記事における「伝説の概要」の解説

大江山絵詞』(大江山絵巻)によるあらすじ次のとおりである。 一条天皇時代、京の若者姫君次々と神隠し遭った安倍晴明に占わせたところ、大江山に住む鬼(酒呑童子)の仕業わかった。そこで帝は長徳元年995年)に源頼光藤原保昌らを征伐に向わせた。頼光らは山伏装い鬼の居城訪ね一夜の宿とらせてほしいと頼む。酒呑童子らは京の都から源頼光らが自分成敗しにくるとの情報得ていたので警戒し様々な詰問をする。なんとか疑い晴らし酒を酌み交わして話を聞いたところ、大の酒好きなために家来から「酒呑童子」と呼ばれていることや、平野山(比良山)に住んでいたが伝教大師最澄)が延暦寺建てて以来、そこには居られなくなり嘉祥2年849年)から大江山住みついたことなど身の上話語った頼光らは鬼に八幡大菩薩から与えられた「神変奇特酒」(神便鬼毒酒)という毒酒振る舞い、笈に背負っていた武具身を固め酒呑童子寝所襲い身体押さえつけて首をはねた。生首はなお頼光の兜を噛みつきかかったが、仲間の兜も重ねかぶって難を逃れた一行は、首級持ち帰り京に凱旋首級は帝らが検分したのちに宇治平等院宝蔵納められた。

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魏石鬼八面大王」の記事における「伝説の概要」の解説

仁科濫觴記』にみられる記述は、 1. おとぎ話要素含まず 2. 実見したように詳細で 3. 歴史的整合性があり 4. 部分的に典拠示されている、 ことを特徴とする。ここでは「八面大王」という個人ではなく、8人の首領戴く盗賊集団あるいはその首領自称として「八面鬼士大王」の名で登場する概略次のようなものである神護景雲767年 - 770年)末から宝亀年間770年-780年)にかけて、民家倉庫から雑穀財宝を盗む事件がおきた。宝亀8年777年秋に調べたところ、有明山の麓に盗賊集団(「鼠(ねずみ)」、「鼠族」)の居場所発見したその後への入り口見張り立てたが、盗賊は隙を窺っているらしく、盗み被害いっこうにやまなかった。そのうち盗賊たちは、「中分沢」(中房川)の奥にこもって、8人の首領をもつ集団になった山から出るときは、顔を色とりどり塗り八面鬼士大王」を名乗り手下とともに強盗働いた。これを憂い皇極太子系仁科氏3代目仁科和泉守は、家臣等々力玄蕃亮(3代目田村守宮)を都(長岡京)に遣わして討伐宣旨求めさせた。 延暦8年789年2月上旬朝廷より討伐命令下ったため、等々力玄蕃の子4代目田村守宮生年25歳)を追手城郭用語)の大将とし、総勢200名ほどで偵察行い、それに基づいて搦手城郭用語)の大将高根出雲作戦計画立てた後、まず退治祈祷行った延暦8年2月23日ユリウス暦789年3月24日先発グレゴリオ暦789年3月28日)、作戦決行。まず、前々の夜から東の「高かがり山」(大町市)に火をたかせた。田村守宮率い部隊は、夜半に「八面大王一派のいる裏山登り明朝決行待った後、翌24日3月25日3月29日)、夜明けとともにほら貝吹き鬨の声をあげながら一気に山を下った搦手太鼓打ち鳴らし鬨の声をあげた。寝起き襲われ盗賊団驚いて四散したが、多くの者は逃げ切れなかった。大将田村大声で「鬼どもよく聞けお前たち盗賊働き人々の家の倉庫打ち壊して財宝盗んだことは都に知られている。勅命に従って討伐に来た。その罪は重いが、これまで人命奪ってはいない。速やかに降参すれば、命だけは助けよう手向かえば、一人残らず殺すが、返事はいかに」といった。すると盗賊団はしばらく顔を見合わせた後、長老進み出て太刀投げ出し考えてから両手付いた。そして「貴君高名はよく承知しております。私の命はともかくも手下たちの命はお助け下さい」といった。そして、抵抗受けず全員が縄にかけられ、城に連行された。 合議によって、長老一人死罪とし、残りは耳をそいでこの地から追放することとなった。すると、被害者たちが地頭(この職も平安末期以降であり、当時無かったとともに私刑にしたいので彼らを引き渡して欲しいと嘆願に来た。これを切っ掛けとし、等々力玄蕃亮は考え直しもう一度合議して長老死罪許し8人の首領同罪として両耳そぎ、残りの手下は片耳そぎに減刑することに改めた耳そぎ執行の日、田村守宮罪状判決述べた立ち去った。そのため、役人が耳をそぎだすと、恨みある村人我も我もと争って70人あまりの盗賊耳そぎ執行された。そがれた耳は、血に染まった土砂とともに塚に埋められて、耳塚安曇野市穂高有明耳塚となったその後盗賊の手下たちは島立松本市島立)にて縄を解かれ追放された。一方の残る8人の首領は、恨み持った村人たちによって道をそれて山の方に連れて行かれた。そして口々に、「これまで公儀裁きであったこれから我ら恨みをはらすぞ。天罰であると思い知れといって掘った大穴突っ込まれた後、石積みにされて殺された。そのために、この場所を「八鬼山」(松本市梓川上野八景山やけやま))というようになったその後追放され盗賊団の手下たちは、もともと安曇の地に産まれた者たちであったので、日が経つにつれて徐々に親兄弟知人頼って秘かに故郷戻りかくまわれていた。そのこと聞き知った仁科和泉守は、延暦24年805年)、父の仁科美濃守100歳祝いあわせて彼らを免じ、八鬼山の地と3年分の扶持与えて開墾奨励した

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尹良親王」の記事における「伝説の概要」の解説

浪合記』『信濃宮伝』の間では年紀などに少なからず異同見られるが、『南朝編年記略』などを援用しつつまとめると、およそ以下のとおりになる。 遠江井伊谷の館で生まれる。初め上野移ったが、天授5年/康暦元年1379年吉野参候し、親王宣下を蒙って二品叙される。後に兵部卿経て元中3年/至徳3年1386年8月8日源姓を賜って臣籍下り同時に正二位権中納言叙任され左近衛大将征夷大将軍兼ねた元中9年/明徳3年1392年南北朝合一後もなお吉野に隠れ留まる応永4年1397年2月伊勢発して駿河宇津野静岡県富士宮市)へ移り田貫左京亮の家に入った。同5年1398年春に宇津野出て上野へ向かうが、鎌倉軍勢から攻められたために坂(迦葉坂か)でこれを防戦武田信長の館に入って数日逗留した後、8月上野寺尾城(群馬県高崎市)に赴いた。同10年1403年頼みとしていた新田義隆(義則か)が底倉害されると、世良田有親らを伴って下野落合城(栃木県上三川町)に没落次いで桃井満昌・堀田正重など旧功の士100余騎を率い高崎安中碓氷の敵を討って信濃入りし、島崎城長野県岡谷市)の千野伊豆守頼憲を頼って再興機会を窺った。この際尹良親王千野頼憲に「さすらへの身にしありなば住み果てんとまり定めぬ憂き旅の空」という歌を送ったという。同31年1424年8月三河足助向かおうとし、諏訪発して伊那路差し掛かった折、待ち受けていた飯太郎駒場小次郎200余騎が阻んだため、浪合にてこれと奮戦した浪合合戦)。味方80余騎であったが、結局世良田義秋・羽河景庸・熊谷直近ら以下25人が討たれ最期悟った尹良は子の良王君従士託した後、大河原民家入って自害した釜澤宇佐八幡社には尹良親王をはじめ洞院実世園基隆藤原光資、堀川光継、宇佐美殿、羽殿の6人が祀られており、この6人は尹良親王随臣とされる

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玉藻前」の記事における「伝説の概要」の解説

以下には『絵本三国妖婦伝』に記載されている伝説を記す。 最初藻女(みくずめ)と呼ばれたとされ、子に恵まれない夫婦の手大切に育てられ美しく成長した18歳宮中仕え、のちに鳥羽上皇仕え女官となって玉藻前たまものまえ)と呼ばれる。その美貌博識から次第鳥羽上皇寵愛されるようになった。 しかしその後上皇次第に病に伏せるようになり、朝廷医師にも原因が分からなかった。しかし陰陽師安倍泰成玉藻前仕業見抜く安倍真言唱えた事で玉藻前変身解かれ九尾の狐の姿(『玉藻の草子』では二尾として描かれている)で宮中脱走し行方を眩ました。 その後那須野現在の栃木県那須郡周辺)で婦女子をさらうなどの行為宮中伝わり鳥羽上皇かねてから那須野領主須藤権守貞信の要請応え討伐軍を編成三浦介義明、千葉介常胤上総介広常将軍に、陰陽師安部泰成軍師任命し軍勢那須野へと派遣した那須野で、既に九尾の狐化した玉藻前発見した討伐軍はすぐさま攻撃仕掛けたが、九尾の狐妖術などによって多く戦力失い失敗終わった三浦介上総介はじめとする将兵の尾を見立てた犬追物騎射訓練し、再び攻撃開始する対策十分に練ったため、討伐軍は次第九尾の狐追い込んでいった。九尾の狐は貞信の夢に娘の姿で現れ許し願ったが、貞信はこれを弱っていると読み最後の攻勢出た。そして三浦介放った二つの矢が脇腹首筋貫き上総介長刀斬りつけたことで、九尾の狐は息絶えたその後九尾の狐巨大な毒石に変化し近づく人間動物等の命を奪うようになった。そのため村人は後にこの毒石を『殺生石』と名付けた。この殺生石鳥羽上皇死後存在し周囲村人たち恐れさせた。鎮魂のためにやって来た多く高僧ですら、その毒気次々と倒れたが、南北朝時代会津の元現寺を開いた玄翁和尚殺生石破壊し破壊され殺生石各地へと飛散したといわれる玉藻前経歴中国古代王朝殷にまで遡る。殷の最後の王である紂の后、妲己正体は齢千年経た九尾の狐であり、王の妾であった寿羊という娘を食い殺し、その身体乗っ取って王を惑わせとされる。王と妲己酒池肉林にふけり、無実人々炮烙の刑にかけるなど、暴政敷いたが、周の武王率い軍勢により捕らえられ処刑された。またこの処刑の際に妲己妖術によって処刑人が魅せられ首を切ることができなくなったが、太公望照魔鏡取り出して妲己にかざし向けると、九尾の狐正体現し逃亡しようとした。太公望宝剣投げつけると、九尾の体は三つ飛散した。 しかしその後天竺の摩竭陀(まがだ)国の王子斑足太子はんぞくたいし)の妃華陽夫人として再び現れ王子千人首をはねるようにそそのかすなど暴虐限りを尽くしたが、耆婆(きば)という人物夫人魔界妖怪と見破り金鳳山中入手した薬王作った夫人を打つとたちまち九尾の狐正体現し、北の空へ飛び去って行った。 周の第十二代の王、幽王の后、褒姒九尾の狐とされる褒姒がなかなか笑わないので、幽王さまざまな手立て使って彼女を笑わそうとし、ある日何事もないのに王が烽火(のろし)を上げ諸侯集まったという珍事初め笑ったといわれ、それを機に王は何事もないのに烽火上げ諸侯烽火をみても出動することが無くなり、後に褒姒により后の座を追われ申后一族が周を攻めたとき、王は烽火上げた諸侯は集まらず、王は殺され褒姒捕虜にされたが、いつの間にか行知れずとなっていた。後に若という16歳ほどの少女化け吉備真備乗る遣唐使船に同乗し、来日果たしたとされる

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藤原千方の四鬼」の記事における「伝説の概要」の解説

様々な説があるが、中でも『太平記』第一六巻「日本朝敵事」の記事が最も有名。 『太平記』によると、天智天皇時代時の豪族藤原千方は、四人の鬼を従えていた。どんな武器弾き返してしまう堅い体を持つ金鬼(きんき)、強風繰り出して敵を吹き飛ばす風鬼(ふうき)、如何なる場所でも洪水起こして敵を溺れさせる水鬼(すいき)、気配消して敵に奇襲をかける隠形鬼おんぎょうき。「怨京鬼」と書くことも)である。藤原千方はこの四鬼使って朝廷反乱を起こすが、藤原千方討伐しに来た紀朝雄(きのともお)の和歌により、四鬼退散してしまう。こうして藤原千方滅ぼされる事になる。 他の伝承では、水鬼隠形鬼土鬼(どき)、火鬼(かき)に入れ替わっている物もある。 また、この四鬼忍者原型であるともされる

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金平鹿」の記事における「伝説の概要」の解説

鬼ヶ城断崖絶壁で、海が静かな時にしか近づけないところであり、ここに鬼神住んで郷民を悩ませていた。平城天皇の頃、鈴鹿山鬼神退治した征夷大将軍坂上田村丸が、紀伊国の鬼の話を聞いて討伐しようと二木島経由して船で岩屋へと近づいた。鬼の大将である金平鹿手下集め田村丸物の数ではないが、観音加護があるので我々の神通力効かないかもしれない」と食料運び込んだ岩屋の石の戸を閉めてじっと閉じ籠った。田村丸攻めあぐねていると、沖にある島の上菩薩のような一人童子現れ弓矢携え田村丸手招きしたかしこまる田村丸に「私が舞を舞うから、軍勢一緒に舞おう」と童子語り、船を並べた舞台の上舞い遊んだ。その妙なる調べに、鬼の大将何事かと石の戸を少し開けて顔を出したところを田村丸ここぞとばかりに童子から授かった弓を引き矢を放つと、矢は金平鹿左眼命中した。すると岩屋の中から金平鹿の手下の鬼たち800人が飛び出してきたが、田村丸の千の矢先ことごとく倒れた千手観音化身であった童子は、光を放って飛び去り童子あらわれた島は魔見るか島と呼ばれ、鬼ノ本(木ノ本)もこの故事から付けられ地名である。金平鹿の首は井土谷間埋められ祟りをもたらさぬよう「さしもぐさたたりをなさじ」と念じて封じ込めた。将軍大泊の奥に観音堂建立して守り本尊千手観音像を納め清水寺名付けた三重県熊野市井戸町鎮座する大馬神社に、鬼ヶ城に於ける討伐で、賊の頭(かしら)の首を地中埋めその上に社殿造ったとの伝承がある。この賊の頭(かしら)が海賊多娥丸たがまる)とされている。

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葛の葉」の記事における「伝説の概要」の解説

伝説の内容伝承によって多少異なるが、おおむね以下のとおりである。 村上天皇時代河内国のひと石川右衛門は妻の病気をなおすため、兄の蘆屋道満占いによって、和泉国和泉郡信太の森現在の大阪府和泉市)に行き野狐生き肝得ようとする。摂津国東生郡安倍野(現在の大阪府大阪市阿倍野区)に住んでいた安倍保名伝説上の人物とされる)が信太の森訪れた際、狩人追われていた白狐助けてやるが、その際にけがをしてしまう。そこに葛の葉という女性がやってきて、保名介抱して家まで送りとどける。葛の葉保名見舞っているうち、いつしか二人恋仲となり、結婚して童子丸という子供をもうける(保名の父郡司は悪右衛門争って討たれたが、保名は悪右衛門討った)。童子丸5歳のとき、葛の葉の正体保名助けられ白狐であることが知れてしまう。全て稲荷大明神宇迦之御魂神)の仰せである事を告白し、さらに次の一首残して葛の葉信太の森へと帰ってゆく。 恋しく尋ね来て見よ 和泉なる信太の森のうらみ葛の葉 この童子丸が、陰陽師として知られるのちの安倍晴明である。 保名書き置きから、恩返しのために葛の葉人間世界に来たことを知り童子丸とともに信太の森行き、姿をあらわした葛の葉から水晶の玉と黄金の箱を受け取り別れる。なおこの水晶の玉と黄金の箱は、稲荷大明神宇迦之御魂神)から葛の葉童子丸授け様に仰せ受けて預かっていた。数年後童子丸晴明改名し天文道修め母親遺宝の力で天皇病気治し陰陽頭に任ぜられる。しかし、蘆屋道満讒奏され、占い力くらべをすることになり、結局これを負かして道満殺された父の保名生き返らせ、朝廷訴えたので、道満は首をはねられ晴明天文博士となった

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白蔵主」の記事における「伝説の概要」の解説

永徳元年(1381年)に、和泉にある少林寺塔頭耕雲庵住侶白蔵主という僧がいた。白蔵主稲荷大明神を常に信仰して毎日法施を怠らなかった。 ある時、竹林にて片足失った三本足白狐出会い連れて帰って慈育した。このには霊性があり、吉凶告げたり盗難防いだりした。 そのの子孫も三本足であり、寺内住んでいたという。 白蔵主には狩猟好きな甥がいたが、白狐はこの甥を恐れ白蔵主化けてその甥の家に行き殺生罪について語り戒めた。 しかし、この甥は、白蔵主化けていることに気付き、鼠の天ぷら引き寄せ猟してしまう。 この話を題材として狂言釣狐』が作られとされる。この狂言師が心をこめたのを感じ老人化けて狂言見てさらに動き教えたともされる。『釣狐』を演じ役者上演の際に少林寺参詣し祈祷上げたうえに、境内の逆竹をとして舞台で使用するようになったという。 また、その後の人達によりこの白狐は「白蔵主稲荷」として奉拝された。 この話は江戸時代地誌堺鑑』、『難波丸』、『泉州志』、『和泉名所図会』や、江戸時代随筆和語連珠』(『和漢故事談』)、類書和漢三才図会』等に掲載されている。 現在では御神体秘仏となり御開帳はしないが、昔は何十年に一度割りで、開帳したとも伝えられる今日では御前立像のみ、参詣者の希望があれば開帳する。少林寺では毎年3月21日春季祭という鎮守白蔵主稲荷例祭が行われている。 なお『和泉名所図会』の挿絵担当した竹原春朝斎の子が、後述の『絵本百物語』の挿絵竹原春泉であり、親子ともに白蔵主の絵を描いていることになる。

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大嶽丸」の記事における「伝説の概要」の解説

田村語りとして一般に知られている『田村の草子』によるあらすじ次のとおりである。俊仁将軍の子である「ふせり殿」と称した田村丸俊宗退治した伊勢鈴鹿山鬼神大嶽丸となる。なお『田村の草子』では田村丸俊宗という名前であるが、『鈴鹿草子』『鈴鹿物語『田村三代記』などではそれぞれ名前が異なるため、以下田村丸で統一する

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