皇極太子系仁科氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 16:46 UTC 版)
「皇極ノ太子」の3歳の子は、仁品の館に入り、宝祚谷(ほそ(が)や)氏と名乗った。7歳のときに高明王(高明天王、高明親王)と名乗ることとなり、天智天皇7年(668年)には和泉守に被任したことから仁科和泉守高明(森和泉守)とも呼ばれる。この年、皇極ノ太子の命で、「仁品」は「日本」と訓が同じであることから、「仁科」と改めさせられた。ここで、仁科の姓が起こることとなる。 上記の『仁科濫觴記』では、9世紀の仁科高明王の孫(高明王の子・美濃殿の子・一若殿と八面大王を討伐した仁科明清)の代までの記述しかない。
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