経歴・作風
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母の実家のある長野県で出生し、幼少期は東京都青梅市で育ち、建築業の父とともに、武蔵野市武蔵境、豊島区池袋、神奈川県相模原市に移る。小学生の頃からマンガを描き始め、高校時代から集英社や小学館に投稿を始める。 駒澤大学時代に水野流転が主宰する同人誌『楽書館』に参加、秋田書店の『少年チャンピオン』編集部にストーリー漫画を書いて持ち込んだが、担当編集者の綿引勝美が辞めたため、朝日ソノラマに『無題』『ここに愛の手を』を持ち込み、担当編集者の原田利康に認められ、1977年大学4年の時に『マンガ少年』8月号掲載の「江帆波(えほば)博士の診療室」でデビュー。その後は同誌に多く作品を発表する。 デビュー当時は毛筆とGペンを併用した特徴的な線と絵柄で知られ、『マンガ少年』に連載中はそのスタイルを通していたが、『マンガ少年』休刊後は意識的に作風を変えていった。1980年前後には漫画界のニューウェーブの旗手と目され、従来の少年漫画や少女漫画の影響を受けつつ、それらのいずれとも異なる独特な表現で漫画ファンの注目を集めた。 作品は、基本的に猟奇要素の強い幻想怪奇漫画が多いが、「明朗怪奇」(吾妻ひでお)とも言われ、シニカルなブラックジョーク、コメディ、冒険活劇など多岐にわたる。独特なグロテスク描写について米澤嘉博は、「筆、あるいはGペンのタッチの強弱を強調した独自のスタイルは、ぬめぬめとした光沢をもちながらもドライ」なことで生理的嫌悪感を生まず、「リアルさ、あるいは世界の中のリアリティを求めて動いてきたマンガとは逆のベクトルを持つ高橋のマンガは、あくまで絵を基調とした異世界として、形状の面白さを求めていく。」と評している。藤田和日郎も、高橋作品に強い影響を受けたと語っている。 『マンガ少年』休刊後は、後継誌『Duo』に初のラブコメ『真琴♥グッドバイ』を連載。筑紫女学園大学非常勤講師の竹内美帆は「高橋マンガ独特の線描を特徴づける筆ではなく、サインペンを主線に使用し、人物や背景も描き込みが少なくポップで明るい雰囲気を印章づけている」と解説している。1983年からは『夢幻紳士』冒険活劇編を連載。次いで『メディウム』誌で1984年から『夢幻紳士』怪奇編、『ネムキ』で1992年から『夢幻外伝』を掲載、この作品はライフワーク的位置付けとなる。 荒俣宏『帝都物語』映画化の第2弾『帝都大戦』公開の1989年にマンガ版『帝都物語』を書き下ろし。1995年からは「学校の怪談」ブームを背景に『週刊少年チャンピオン』で『学校怪談』を2000年まで連載。この登場人物達も夢幻一族の子孫という設定になっている。 2006年、近藤豪志の作画による『私は加護女(かごめ)』で初めて原作を手がける。 2005年、怪奇篇の流れを汲む『夢幻紳士』幻想篇を『ミステリマガジン』に連載し、幻想篇のカバー用にカラーを描く時からパステル調の淡いタッチの絵柄を使い始めた。2007年に逢魔篇のスピンオフとなる『もののけ草紙』を『ホラーM』に連載。以降は早川書房とぶんか社での執筆が多くなっている。 2021年7月、『夢幻紳士』40周年を記念して、高橋初の画集『にぎやかな悪夢』を刊行。その刊行と高橋のデビュー45周年を記念して、東京にあるリベストギャラリー創にて原画展が開催された。2022年2月から福岡県にて、その巡回展が行われる。
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経歴・作風
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1977年、小学館の少女漫画雑誌『少女コミック』(増刊12月21日号)に掲載された『12月のミステリー』で、18歳(高校3年生)で漫画家デビュー。以来『ちゃお』、『少女コミック』、『プチフラワー』、『Cheese!』、『プチコミック』など小学館が発行する数多くの少女漫画誌に幅広い作品を発表した。 主に女子中学生から高校生を対象とした雑誌で作品を発表。レディコミ風の作品や、『ちゃお』などに掲載された小学生が主役の作品もある。女性向けの性的な要素を含む作風で知られる。掲載誌によっては、また特に後期の作品には際どい、あるいは直接的な性描写を含む作品が多い。 2005年11月末から胃癌のため入院。退院後は、闘病を続けながら読み切り作品などの執筆を行っていたが、2007年2月10日に47歳の若さで逝去。漫画家生活30年の節目の年でもあった。
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経歴・作風
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小学生の頃からミステリーが好きで、中学の頃には横溝正史や江戸川乱歩賞受賞作を読み漁る。高校生になるとジョン・ディクスン・カーなどの海外ミステリーにも興味を広げ、同時に自らも執筆活動を始める。大学在学中には江戸川乱歩賞に初応募するが、一次選考にも残らなかった。大学卒業後はIT企業に就職し、ソフトの開発業に従事する。 1998年に『Jの神話』で第4回メフィスト賞を受賞し、34歳で作家デビュー。続く2作目の『匣の中』では、四大奇書と呼ばれる竹本健治の『匣の中の失楽』にオマージュをささげた。三作目の『塔の断章』では断章のタイトルどおり、各エピソードが時間軸ばらばらに並べられている実験的な作品だった。2004年に刊行した『イニシエーション・ラブ』はその年の「このミステリーがすごい」で第12位、「本格ミステリベスト10」で第6位と高く評価される。2005年に同作で第58回日本推理作家協会賞(長編及び連作短編集部門)候補となる。2007年に同作が文庫化されると、雑誌やテレビ番組などでたびたび紹介されロングヒットとなり、2014年4月に100万部に達した。2021年、「夫の余命」で第74回日本推理作家協会賞(短編部門)候補。
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経歴・作風
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大学在学中はミステリクラブに所属しており、木智みはる名義で創元推理文庫の折り込み冊子『紙魚の手帳』で「女子大生はチャターボックス」という書評のコーナーを担当していた。大学卒業後、業界紙の編集部などに勤務し、5年のOL生活を経て1991年『ぼくのミステリな日常』でデビュー。『夏の果て』(『閉ざされた夏』と改題して93年刊行)で第38回江戸川乱歩賞最終候補。本格推理小説、ハードボイルド、コージー・ミステリ、ホラー、パニック小説、歴史ミステリーと多彩な作風だが、その中で一貫して人の心の中に潜む悪意を描いているところに特徴がある。
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経歴・作風
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祖父に利殖の才があったため、村一番の金持ちだったという。ただし、その金を梢風の父と梢風の代で殆ど放蕩し尽くしてしまった。静岡県立静岡中学校を経て慶應義塾大学経済学部理財科に入学。しかし、父が亡くなったため中退、静岡に戻り教師となる。授業中に落語や百面相をやってみせたという。近隣の村の娘と結婚するが、翌年同文学部に再入学する。ところが、吉原などで遊蕩三昧を尽くしたため再び中退、幾つか職を転々とするがいずれもモノにはならなかった。この頃には実家から金を持ち出すこともできなくなり、毎朝早くに起きて道端に落ちている金を拾ったりしていた。後年、梢風は「結構落ちてるものでな」と語ったという。 梢風は文学に憧れてはいたものの、自分が文筆で身を立てるのは到底実現できないと思っていた。しかし1917年(大正6年)、処女作「琴姫物語」をダメ元で『中央公論』に応募したところ、滝田樗陰に認められデビュー。その後文筆活動に専念し、次々と作品を発表する。ただし、同誌の創作欄ではなく、説苑欄という中間小説或いは読み物を載せる欄に掲載され、梢風自らこれを「情話」と称した。梢風の号を用い始めるのもこの頃で、うらぶれた気持ちで街を歩いていると、木々の梢を冬の風が吹き抜けていくのを見て決めたという。ところが、当時新進の流行作家であった佐藤春夫が芥川龍之介らと語らって、梢風らに対する排斥運動を起こす。佐藤は樗陰に、「あのような下賤の輩に紙面を提供するなら、以後『中央公論』への執筆を停止する」と申し入れてきた。剛腹な樗陰も、有力作家たちに反対されては屈せざるを得なかった。梢風はこのことで後年まで佐藤春夫を恨み、佐藤が和解を申し出ても聞く耳持たなかったという。これを気の毒に思った樗陰が、新しく企画したのが「本朝画人伝」であった。 1923年(大正12年)には、上海に渡航し、その魅力にとりこになって滞在する。中国文化にふれるとともに、租界にあったヨーロッパのモダニズム文化にもふれる。彼が住んだアパートは、ロシア人が経営し、ロシア人のほかにドイツ人やフランス人が住んでいた。また、郭沫若、郁達夫、田漢、欧陽予倩ら、中国の若き知識人たちと知り合う。また、上海を舞台とした作品「魔都」を発表する。 以降もたびたび中国を訪問し、「支那通」として有名となる。 滝田樗陰の死後の、1926年(大正15年)には、個人雑誌『騒人』を創刊。1928年(昭和3年)には、郭沫若が亡命してきたため、匿い、市川に居住させる。ただし、同年の、日本による中国への出兵である「済南事件」を村松が支持したことから、ながらく友情関係がつづいていた田漢と、決裂した。 その後、戦前は多くの時代小説等を執筆。戦後も多くの時代小説や伝記小説を執筆・連載した。代表作として『近世名勝負物語』『正伝清水次郎長』『女経』などが知られる。実証的な手法に裏付けられた評伝作品に、卓越した腕をふるった作家として知られる。 また明治期の歌舞伎俳優・二代目尾上菊之助を描いた『残菊物語』は、戦前の溝口健二以降三度映画化され、舞台でもしばしば上演された代表作である。「男装の麗人」「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれた清朝王女川島芳子を取材し、小説『男装の麗人』を発表した。しかし、小説で芳子のスパイ行為をことさら誇張して描いたため、戦後芳子が漢奸裁判にかけられた際に小説が証拠として扱われ、芳子を死刑に追い込んだという批判がある。村松自身、戦後芳子の知人から「お前のせいで川島芳子は死んだ」となじられたという。 現在では、主に『本朝画人伝』の作者として知られている。同作は、文献資料を漁るのはもとより、自分の足で直接取材した話が多いのが特色である。梢風は心から絵が好きで、川端康成が大金を投じて『十便十宜図』だか何かの絵を買った話を聞くと、「世の中で名画と定評ある絵は確かにいいさ。だからそういう絵を金を惜しまずに買う人は、絵好きには違いない。だがな、例えば二流の画家でも生涯に何作か、ひどく出来のいい絵が描けることがあるものだ。値は安くてもそういう絵にも、えも言えない良い所がある。自分で買えるそういう絵を見つけて楽しむのも絵好きなんだぞ」と語ったという。
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経歴・作風
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2000年に『COMIC Crimson』(創美社)にて『コーセルテルの竜術士』でデビュー。同誌にて約3年間の連載となったが雑誌休刊に伴い、2003年6月に一旦完結。 その後、『コミックZERO-SUM』(一迅社)に移籍して、続編となる『コーセルテルの竜術士物語』を2004年4月(6月号)から2009年5月(7月号)まで連載。 2009年よりシリーズ3作目にあたる『コーセルテルの竜術士〜子竜物語〜』を連載開始。同年9月(11月号)から2012年12月(2013年2月号)まで連載され一時休載。 2013年2月(4月号)から、シリーズの番外編となる『イルベックの精霊術士』を連載。2014年の同作終了後に、『コーセルテルの竜術士〜子竜物語〜』の連載が再開された。 作風はいわゆるデフォルメタッチであり、非常に柔らかい絵柄が特徴。カラーイラストにはパステルカラーが頻繁に使用されている。
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経歴・作風
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1955年東京生まれ、筑波大学大学院芸術専攻修了。1980年代から万年筆を使用して描いた絵画作品を多数発表する。その技法のユニークさもさることながら、作品のもつ幻想的な独自の世界観が高い評価を得て、数多くの賞を受ける。鞄や万年筆の熱心な収集家で、それらをテーマにした絵画や著作も多数あり、文房具愛好家などからの人気も高い。なかでも日本各地の手作り万年筆の職人を探ねて収集した聞き書きを纏めた著作『4本のヘミングウェイ』は名著として語り継がれている。現在、制作と並行して上野の森美術館で絵画教室を開き、後進の指導にも当たっている。
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経歴・作風
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大学卒業後帰国し、高知大学経済学部教務助手や土佐女子高等学校講師などを勤めるかたわら小説を執筆。江戸川乱歩賞や小説現代新人賞などに投稿を続ける。 1990年、「聯殺(れんさつ)」が第1回鮎川哲也賞の最終候補に残る(受賞作が芦辺拓『殺人喜劇の13人』、佳作入賞が二階堂黎人『吸血の家』)。受賞はできなかったが、招待された受賞パーティーの席で島田荘司を紹介され、「いいものがあったら見てあげます」と言われる。その後、鮎川哲也賞には第2回、第3回と応募したが予選を通過することはできなかった。1992年、仕事を辞めて執筆活動に専念する。『解体諸因』の第一稿を島田荘司に送ったところ、それが講談社の編集者宇山日出臣に渡り、1995年に小説家デビュー。 第3作『七回死んだ男』は、時間のループにとらわれ同じ一日を9回繰り返してしまうという特異体質の持ち主である少年が祖父の死を食い止めようとする推理小説で、SF設定で本格推理作品が成立することを示した。この作品は、ビル・マーレイ主演のアメリカ映画『恋はデジャブ』にインスパイアされたものである。 その後も、複数人で中に入ると玉突き式に人格が入れ替わってしまうという謎の装置の中で起こる連続殺人事件を描いた『人格転移の殺人』、一定量のアルコールを摂取することで瞬間移動を行うことができる主人公の登場する『瞬間移動死体』、触れた生き物のコピーを作ってしまうという謎の壁が登場する『複製症候群』など、SF的設定を導入した世界で論理的に謎を解く<SF新本格ミステリー>と呼ばれる作品を発表し、「ヘン本格の雄」、「アチャラカ・パズラー」などと呼ばれる。こうしたある種「反則」的な能力の存在が明示されてはいるが、作中においてその能力の規則性や陥穽があまさず明かされたうえでロジカルに物語が展開する。またロバート・J・ソウヤーなどのようなSFより、ピーター・ディッキンソンなどのロジック主体のミステリとしての側面が強い。 また、いわゆる「新本格」の作家の中でも、他の作家がやや淡泊に思えるほど登場人物の心理に深いこだわりを見せる点が異色とも言える(これは西澤が傾倒している都筑道夫、殊に『退職刑事』シリーズなどの影響によるものと思われる)。 シリーズとして、酒を飲むほど推理が冴え渡ってくるという匠千暁(タック)をはじめ、高瀬千帆(タカチ)、辺見祐輔(ボアン先輩)、羽迫由起子(ウサコ)ら地方大学生4人組(卒業後のエピソードも適宜混在する)を主人公とする<タック&タカチ>シリーズや、「超能力者問題秘密対策委員会」(通称「チョーモンイン」)の捜査員である神麻嗣子(かんおみ つぎこ)(一見中学生風美少女だが年齢不詳)が男性ミステリー作家の保科匡緒(ほしな まさお)、美人警部の能解匡緒(のけ まさお)らとともに超能力を用いておこなわれた犯罪の捜査に挑む<神麻嗣子の超能力事件簿>シリーズなどがある。特に後者は西澤の珍名ネーミング(主に姓)が通行人程度の端役まで徹底しており、山田、田中クラスはもちろん、高瀬、辺見程度の名前もまず登場しない。稀に吉川といった名前が出て慣れた読者を戸惑わせるが、意図は不明である。 2014年、腕貫探偵シリーズの実業之日本社文庫版が累計で30万部を発行するヒットになった。
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経歴・作風
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2011年、九丘望名義で投稿した「エスケヱプ・スピヰド」が第18回電撃大賞小説部門〈大賞〉を受賞し、翌年に改稿した同作で作家デビュー。秋山瑞人のファンであり、それが電撃大賞に応募する切っ掛けのひとつとなった。廃墟マニアであり、本人曰く「好きな廃墟は志免炭鉱跡。」であるという。 作風としては、SF的なマシンを登場させることや、物語の舞台に廃墟を用いることを好むなどの特徴を持つ。
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経歴・作風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/09 18:31 UTC 版)
『よろず屋東海道本舗』(花とゆめステップ増刊 1998年6月15日号)でデビュー。そのまま連載となり、人気を確立した。同作は、何でも屋を運営する主人公コンビが、次々と事件を解決していく探偵アクション物。 昔から少女漫画よりも少年漫画を愛読し、ストーリー、作画とも、少年漫画風の作風である。少年を主人公としたアクション物、ファンタジー物が作品の中心。 ペンネームは「冴凪 煌」(さえなぎ かがや)だったが、デビューが決まった時に周囲から「読めない」と指摘を受け、現在の名前に変更した。
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経歴・作風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/11 03:02 UTC 版)
「岡田純子 (漫画家)」の記事における「経歴・作風」の解説
1973年、『週刊少女フレンド』(講談社)に掲載された「変身ウッフーン」でデビュー。 プロデビュー後はファンタジーとギャグを併せたような作風に定着する。 1986年には「ドリーミング」の連載を開始し、本格的にファンタジーの評価を受けるようになる。 1989年には『バスルームより愛をこめて』を発表し、少女漫画の世界に進出する。 『Eleganceイブ』には童話を題材にしたアダルトな作品を描いた。(下記) 明るいタッチのH系漫画家という独自のスタイルを確立した。
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経歴・作風
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1970年に埼玉県立春日部高校、1974年に早稲田大学第一文学部卒業後、JTBに入社。3年後に出版事業局に異動し、1980年に月刊旅行誌『旅』の編集部に配属される。 1985年、「おせっかいな密室」がオール讀物推理小説新人賞の最終候補作となる。1987年にJTBを退社し、1988年に、同作を含む短編集『五つの棺』が東京創元社より刊行される。次いで同社より「鮎川哲也と十三の謎」の1冊目として『倒錯の死角(とうさくのアングル) 201号室の女』が刊行される。同年に執筆した長編推理小説『倒錯のロンド』が江戸川乱歩賞最終候補作まで残るものの落選。1995年早川書房より刊行した小説『沈黙の教室』で第48回日本推理作家協会賞を受賞。 執筆する作品のほとんどに叙述トリックが使われることから「叙述トリックの名手」と呼ばれる。しかし90年代の前半に叙述トリック作品を連発したために、「叙述トリック作家」という呪縛にとらわれ「展開が窮屈で無理な作品がつづいた」と回顧している。このときに生まれた作品が『異人たちの館』であり、新潮文庫(1996年)、講談社文庫(2002年)、文春文庫(2016年)と「三次文庫」として出すほど本人も思い入れのある作品であり、「自分の持っているすべてをぶちこん」だ「転機となる記念碑的な作品」と述懐している。だが、ノンシリーズの作品であったことも影響してか、売れ行きはあまり芳しくなく、新潮文庫と講談社文庫ともにすぐに絶版となってしまった。 伯父は作家の中島敦。妻は小説家の新津きよみ。共に執筆した小説『二重生活』が講談社より刊行されている。また、同じく推理作家の北村薫は、春日部高校、早稲田大学の先輩にあたり、大学在学時にはともにワセダミステリクラブに所属していた。折原の著書の一つ『ファンレター』には全編を通して"西村香"という覆面作家が登場している。 作中で活躍する探偵は、密室マニアであるが故に簡単な事件も「密室」と捉えてしまい、かえって事態をややこしくする迷警部の黒星光などがいる。 ホラー作品、「チェーンレター」発表当初は「青沼 静也」のペンネームを使用した。 日本テレビ『マジカル頭脳パワー!!』の「マジカルミステリー劇場」の原案ブレーンに関わっていた事もある。またフジテレビアナウンサーの笠井信輔は自身のプロフィールで折原ファンを公言している。 2018年、1994年に発表した『異人たちの館』で本屋大賞発掘部門「超発掘本!」を受賞した。
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