東洋のマタハリ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 07:03 UTC 版)
1933年2月になり、関東軍の熱河省進出のため熱河自警団(安国軍または定国軍と呼ばれた)が組織され、芳子が総司令に就任した。このニュースは日本や満州国の新聞で大きく取り挙げられ、芳子は「東洋のマタ・ハリ」、「満洲のジャンヌ・ダルク」などと呼ばれた。断髪時のエピソードや小説の影響から既に知名度が高かった事もあり、芳子は一躍マスコミの寵児となった。 当時はラジオ番組に出演し、余った時間に即興で歌を披露すると、それがきっかけでレコードの依頼があり、『十五夜の娘』『蒙古の唄』などのレコードが発売されるなど、非常に人気があった事が知られている。 作詞者としても1933年に『キャラバンの鈴』(作曲:杉山長谷夫、唄:東海林太郎)というレコードを出している。同年には、小説「男装の麗人」が連載されていた『婦人公論』誌に「僕は祖國を愛す」と題された独占手記も掲載された。 私生活においては、伊東ハンニ(「昭和の天一坊」と騒がれた相場師)と交際したと言われている。また、水谷八重子など当時の芸能人とも親交をむすんだ。
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