東洋における同様のエピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/01 09:27 UTC 版)
「ケーキを食べればいいじゃない」の記事における「東洋における同様のエピソード」の解説
中国でも『晋書』恵帝紀光熙元年(306年)に同じような話が伝わっている。当時、社会が混乱をきわめ、ついに餓死者が出るほどであったが、当時の皇帝である晋の恵帝は、これを知って「何不食肉糜(なんぞ肉糜を食わざる)」(「なぜひき肉で作った粥を食べないのか」の意)と述べた。ただし、このときの恵帝は継母である皇太后から命をねらわれている立場であり、暗愚なふりをして身を守ろうとしたのだという解釈もある[要出典]。 また日本では天明7年(1787年)、天明の大飢饉により米価が高騰し深刻な米不足が起こった際、北町奉行曲淵景漸は町民からのお救い米の要求に応じず、「以前の飢饉では猫1匹が3匁した、今回はそれほどでもない」や、「犬を食え」、「猫を食え」と放言したとか、「町人は米を食うものではない、米が無ければ何でも食うが良い」と叱りつけたとされた。ただし、お救い願いに対して実際に曲淵がどのような発言をしたのかについては伝わっておらず、困窮した江戸町民の訴えに耳を貸そうとしない町奉行に対して広まった風説とされている。5月頃から江戸では天明の打ちこわしが発生し、曲淵は6月1日に西丸留守居に左遷されたが、その後松平定信の時代に復権し、勘定奉行を務めている。 1950年12月7日、池田勇人大蔵大臣が米価の統制について質問された際に、「米と麦との価格の問題につきましても、日本古来の習慣に合つたようなやり方をして行きたい。お百姓さんに小麦を食え、而も米の一〇〇に対して九五の小麦を食えと言つてもお百姓さんはなかなか食わぬ。」「大所得者も小所得者も同じような米麦の比率でやつております。これは完全な統制であります。私は所得に応じて、所得の少い人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に副つたほうへ持つて行きたいというのが、私の念願であります。」と答弁した。質問者の木村禧八郎は「所得の少い者は麦を食え、例えば農村に例をとればお百姓さんは昔のように稗です粟でも食え、米を食うのは主食の統制の結果だ。それだから食習慣を昔に戻すためにこういう食糧の価格体系を考えたのである。こういうような答弁でありました」と批判し、議場からも「問題発言だ」と声が上がった。この答弁はしばしば池田が「貧乏人は麦を食え」と述べたこととされている。
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