東洋での宣教
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 14:33 UTC 版)
「マキシミリアノ・コルベ」の記事における「東洋での宣教」の解説
コルベは当初、中国での宣教を考えていたが、日本へ布教活動に行くことになったのは、当時ローマに留学していた神学生里脇浅次郎(後の長崎教区大司教および枢機卿)との関りによるものであった。「支那へ布教に行きたいがどうしたら良いでしょうか」と尋ねられた里脇は「支那は政情が不安定だから、しばらく日本で待機したらどうですか」と日本行きを勧め、日本に知人がいないというので、長崎教区の早坂久之助司教あてに紹介状を書いた。コルベを含む5人の宣教師は、1930年3月7日にフランスのマルセイユから上海行きのアンジェ号に乗船し、4月11日に上海に到着した。上海では実業家で慈善家のカトリック信者の陸伯鴻と面識を持ち、援助の申し出を受けたが、布教活動は成功しなかった。この後も陸伯鴻は1931年に来日し、再び援助を申し出ている。 1930年4月24日にゼノ修道士、ヒラリオ修道士ら3人で長崎に到着すると、早坂司教に『無原罪の聖母の騎士』の出版許可を願った。司教はコルベ師が哲学ならびに神学博士号を持っていることを知ると、長崎大司教区、大浦神学校で哲学を教えることを条件に出版を許可した。翌月の5月には、長崎大浦の仮修道院で日本語版の『無原罪の聖母の騎士』の出版を開始した。翌年には聖母の騎士修道院を設立した。 1932年5月にはインドで修道院を設立するために神戸から船に乗り、エルナクラム(英語版)を訪れて、教区の司教から歓迎されて出版の許可も得たが、コルベがポーランドに戻ったこともあり、その後の計画は進まなかった。1933年4月にポーランドでの管区会議に出席するために日本を離れたが、その間に重病であった駐ポーランド公使河合博之のカトリックへの改宗に尽力している。そして再び日本に戻った後、1936年にニエポカラノフ修道院の院長に選ばれたために故国ポーランドに帰国した。
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