東洋の停滞と西洋の発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:32 UTC 版)
枢軸時代後の進展については「枢軸民族」の節でもふれたが、ヨーロッパ文明を拓いたゲルマン人、ビザンティン文化を発展させたスラヴ人、イスラーム文化を開花させたアラブ人 は「枢軸民族」ではないものの、その精神をひきついだ民族であり、東洋では日本人、マレー人、タイ人がそれにあたるとしている。枢軸時代が存在しなかったら、これら独自に新しい文化をきずいた諸民族のその後の運命も異なったものとなっていたに違いない。 ヤスパースはしかし、同じ枢軸時代を経験しながらも、その後西洋の諸文化のみが発展し、インドや中国では文化の停滞が生じたとしている。その違いは何によるのかについてのヤスパースの考えは以下のとおりである。 西洋では、古代ギリシャの時代から西洋と東洋の対立を含んだまま歩んできた。西洋ではヘロドトス以来、東洋と西洋の対立はオリエント(「朝の国」、モルゲンラント)とオクシデント(「夕の国」、アーベントラント)の永遠の対立として意識されてきたが、この対立意識こそが西洋文化を発展させる原動力となってきたのである。つまり、西洋はたえず東洋を強く意識し、ときに東洋と対決し、東洋から受け入れられるものは受容してそれを同化しながら成長してきた。ギリシャ人とペルシア人、東西2つのローマ、東西2つのキリスト教、西洋とイスラーム、ヨーロッパとアジア、西洋はいつでもこのような二項対立のなかで発展したのであり、そこに西洋の特異性がみられる。それに対し、東洋では西洋との対立を意識しなかった。異質な文化に対し積極的に対決しようとはしてこなかった。精神とは、対立などを契機にして自己を意識し、闘争の場に置いて自己自身を発見したとき、初めて生きたものとなり、結実豊かなものとなる。西洋は母なる東洋と対決するたびに精神を若返らせてきたが、東洋は離れていった西洋に対し無関心だったのである。 とはいえ、1500年頃までは大文化圏のあいだには類似性が認められ、東洋も西洋も同程度の文明を保ちつづけてきた。東洋の停滞が明らかになってきたのは、それ以後の大航海時代以降のことであり、「世界史の図式」の第4段階に入ってからである。この段階における科学と技術の起源はゲルマン・ローマ諸民族に帰せられる。これによって全地球を覆う人類史(世界史)が始まったのである。 18世紀以降、西洋の歴史学者の多く[誰?]が東洋には歴史がないと主張したのはヨーロッパ中心的な偏見にすぎないが、しかし、そこに理由がないわけではなかった。彼らは当時の停滞したアジア社会のみに着目したから、そういう結論に至ったのだとヤスパースはみる。逆に、こんにちの[いつ?]西洋の歴史家のように、西洋が没落しつつあるとして、東洋の将来性のみを強調するのも誤りである。こうした見方も、実のところ18世紀の歴史家の見方を裏返しただけで、歴史は西洋にしかないという予断を含んでおり、東洋には歴史もなかったから没落もないというに等しい。ヤスパースは、インドや中国も枢軸時代に参画したとみることによって、西洋と東洋を包括した世界的な人類の統一の基盤を求めようとしたのであった。
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