東洋の渾天儀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 04:08 UTC 版)
中国の歴史を通じて、天文学者は星の観測の補助として渾天儀を用いてきた。渾天儀は暦の計算などにも用いられた。 イギリスの科学史家ジョゼフ・ニーダムは、紀元前4世紀に石申と甘德が単純な構造の原始的な渾天儀を作り、赤緯や赤経を測ることができたとしていたが、これは1980年のクリストファー・カレンの研究によって否定されている。 前漢の時代になると、落下閎、耿壽昌らによってさらなる改良が加えられた。紀元前52年に耿壽昌は天の赤道にあたるリングを加えた。続いて後漢時代の84年には賈逵らによって黄道のリングが加えられた。125年には、政治家、天文学者、発明家として著名な張衡によって地平線と子午線に当たるリングが加えられ、渾天儀はほぼ完成した。また張衡は世界で初めて水力で動く渾天儀を発明した。 漢帝国滅亡後の323年には孔挺が黄道リングを天の赤道リングの任意の場所に留められる渾天儀を発明した。また唐の李淳風は633年に複数の天文観測を計算できる3つの球からなる渾天儀を発明した。 723年に唐の僧の一行と役人の梁令瓚は、張衡の水力天球儀に脱進機を取り付け、世界で初めての水力による機械時計を作った。宋時代の有名な時計台製作者である蘇頌は一行の水力時計を更に改良した。また学者で政治家の沈括は日時計の指針、天球儀、水時計など多く道具の改良を行っている。
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