第二次ソロモン海戦
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第二次ソロモン海戦(だいにじソロモンかいせん)は、第二次世界大戦(太平洋戦争)中、1942年8月24日にソロモン諸島の北で戦われた日本軍とアメリカ軍との間の海戦。連合軍側の呼称は東部ソロモン海戦(Battle of the Eastern Solomons)[1]。日本海軍は空母1隻を喪失、ガダルカナル島への兵員輸送にも失敗して敗北した。
- ^ #モリソンの太平洋海戦史169頁
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- ^ #S1708外南洋増援部隊(1)p.13「(11)八月二十日1420外南洋部隊電令作第四〇號ニ依リ江風ハ陽炎ト交代ノ爲『ガダルカナル』方面ニ進出ス」
- ^ #戦藻録(九版)168頁
- ^ #叢書49南東方面547-548頁「連合軍の作戦」
- ^ #日本空母戦史318頁
- ^ #戦藻録(九版)169頁
- ^ #S1708外南洋増援部隊(1)pp.13-14「(13)江風ハ八月二十一日夜『ガダルカナル』『ツラギ』泊地襲撃ノ爲急速南下八月二十二日0100『ルンガ』泊地ニ侵入0200敵驅逐艦二隻ヲ砲雷撃内一隻ヲ轟沈セリ」
- ^ 戦史叢書49 1971, p. 552「『江風』のガダルカナル泊地攻撃」.
- ^ #S1708外南洋増援部隊(3)p.24「江風驅艦長|二十二日〇九三一|二十二日〇九三一 8F.11AF各司令長官 2sd司令官 24dg司令〔5AB指揮官 夕凪駆艦長〕|一.〇一〇〇哨戒艦ノ警戒ヲ排除シ西方ヨリ湾内ニ侵入視界狭少ニシテ「ルンガ」岬距岸一.五浬ニ至ルモ輸送船ヲ發見スルニ至ラズ湾内ヲ捜索〇二〇〇 二隻編隊ノ駆逐艦ヲ發見發射砲撃ヲ加ヘ一隻ヲ轟沈セシム我被害ナシ 發射魚雷數六本弾數六發 敵航空兵力ヲ考慮〇二三〇反轉北方ニ避退ス/二.陸戰隊トノ連絡ニ努メタルモ應答ナク11Aタナ第二六四番電ハ放送四回實施ス/三.一二〇〇燃料四割トナル見込ナリ」
- ^ #草鹿回想155-156頁
- ^ #草鹿回想169頁
- ^ #続海軍くろしお214-215頁
- ^ a b c 戦史叢書49 1971, p. 545.
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- ^ a b c d #モリソンの太平洋海戦史172頁
- ^ #草鹿回想163頁
- ^ #戦藻録(九版)170頁
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- ^ #S1707七戦隊日誌(4)p.34「23日0455機動部隊指揮官→機動部隊/機動部隊信令第3号」
- ^ #連合艦隊参謀長の回想163-164頁「敵機動部隊発見に勇躍」
- ^ #戦藻録(九版)172頁
- ^ #吉田比叡142頁
- ^ 戦史叢書49 1971, p. 572.
- ^ #吉田比叡147頁
- ^ #吉田比叡149-150頁
- ^ #S1708二水戦日誌(3)p.48、#S1707七戦隊日誌(4)p.41「前進部隊指揮官24日1715/前進豚本隊(陸奥 2dg欠)ハ機動部隊ノ攻撃ニ策応今夜残敵ヲ捕捉下撃滅セントス(前進部隊本隊1500地点『ケリテ33』針路170度速力28節)」
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- ^ #吉田比叡143頁
- ^ #モリソンの太平洋海戦史174頁
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- ^ #海軍功罪88頁、奥宮正武談。
- ^ #日本空母戦史338頁
- ^ #戦藻録(九版)174頁
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- ^ #戦藻録(九版)175頁
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- ^ #モリソンの太平洋海戦史176頁
- ^ a b #草鹿回想165頁
- ^ #戦藻録(九版)177-178頁、#大和と日本人105頁
東部ソロモン海戦
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「エンタープライズ (CV-6)」の記事における「東部ソロモン海戦」の解説
先のミッドウェー海戦で一挙に日本空母4隻を撃沈し、サラトガの修理が終了したのに加え大西洋からワスプが回航してきたため日米の空母戦力は互角になりつつあった。アメリカ海軍はこの機を逃さず反攻に転じた。8月7日から始まるソロモン諸島方面での反攻作戦を支援するため、エンタープライズは7月15日に出撃した。エンタープライズは第61任務部隊所属の第16任務群旗艦となった。7月25日にトンガのヌクアロフに入港し、ワスプ以下の第18任務群と輸送船団と合流した。翌日にフィジー南東でサラトガの第11任務群と合流。30日から31日にかけてフィジーのコロ島沖で上陸演習を行った。8月7日にサラトガ座乗のターナー少将より各艦に「本日8月7日、我が部隊は現在敵の手にあるツラギとガダルカナルを奪還する」という電文が伝えられた。5時35分にガダルカナル島へ向け、F4F16機とSBD9機からなる攻撃隊が発艦した。6時13分に重巡クインシーが8インチ砲の砲撃を開始し、攻撃が始まった。エンタープライズやサラトガ、ワスプの攻撃隊は繰り返し発艦し、反復攻撃を行った。これら攻撃隊はワスプの航空群指揮官ビークリー少佐のTBFによる空中管制を受けて攻撃を行った。7時から上陸が開始された。正午頃から日本軍機が襲来し始め、これらの迎撃任務にも追われた。この迎撃でF4F3機を失った。この1日だけで236回の発艦と229回の着艦を行い、艦の記録が更新された。8日も同様に航空支援を行ったが夕方にフレッチャー中将より南東への退避命令が下され、空母部隊は後退。その晩に第一次ソロモン海戦(アメリカ軍での呼称はサボ島沖海戦)が生起し、アメリカ海軍は大敗しソロモン諸島の制海権を失った。ワスプなどは反転して日本艦隊の追撃を求めたが、空母の安全を取ったフレッチャー中将はそのまま空母部隊を後退させた。8月9日から2週間ソロモン諸島南方の哨戒を行った。日本軍の圧力が強まりつつあったため、アメリカ海軍は8月17日にホーネットを真珠湾より出港させた。8月22、23日に、日本軍の輸送船団が発見され、日本軍の攻撃が近い事が明らかになった。8月24日に日本海軍の空母部隊がソロモン諸島の北方から襲来し、第二次ソロモン海戦(アメリカ軍での呼称は東部ソロモン海戦)が生起する。ワスプ以下の第18任務群は燃料補給のため後退しており、日本軍の大型空母2隻、小型空母1隻を、大型空母1隻、中型空母1隻で相手取る事になった。この海戦ではエンタープライズが索敵を、十数キロ離れた位置にいるサラトガが攻撃を担当した。また、エンタープライズの第16任務群には、開戦以来初めての戦艦であるノースカロライナが護衛に付いた。6時30分頃にSBD23機の偵察隊が発艦。10時頃にガダルカナルのカタリナ偵察機が龍驤を発見した。13時45分に更にTBF7機とSBD16機の偵察隊を発艦させ、15時15分頃にTBF2機が龍驤を発見し、水平爆撃したが命中せず、反対にTBF1機が撃墜された。更にSBD2機が摩耶を攻撃したが命中しなかった。15時30分に龍驤以下の部隊よりも後方でSBD2機が翔鶴を発見。通報し、15分後翔鶴を奇襲爆撃、至近弾を与えた。アメリカ海軍は龍驤を囮と判断し、慌てて攻撃目標を翔鶴型航空母艦2隻に変更しようとしたが、既にサラトガ攻撃隊の集中攻撃を受けた龍驤は沈没しつつあった。日本軍も攻撃隊は既に発艦しており、翔鶴、瑞鶴の2隻から、九九式艦上爆撃機27機、零式艦上戦闘機10機の攻撃隊が米艦隊に接近していた。16時32分にエンタープライズの対空レーダーが方位320度、距離140kmで敵編隊を発見。サラトガと合わせて54機が迎撃に上がったが、実際に戦闘に参加できた戦闘機は多くなかった。17時5分から、迎撃機が日本軍機との空戦を開始し、17時8分までにSBD12機、TBF7機が攻撃のため発艦したが日本艦隊は発見できなかった。17時12分から、第16任務群は対空射撃を開始。17時14分に第3エレベーター右舷側前方に250キロ爆弾を被弾。これは徹甲弾でエレベーターの縦穴を12メートル通り抜けた後、兵員居住区まで貫通して炸裂。右舷後部喫水船下に破孔ができ、浸水が発生した。数秒後に1発目の後方5メートル以内に2発目を被弾。これは触発信管で飛行甲板上で炸裂。右舷後部(第3グループ)ガンギャラリーを爆発が襲い、多数の兵員が殺傷し備砲の4分の1が壊滅。飛行甲板にも大きな損傷が発生した。15分に第2エレベーター右舷側後方に3発目を被弾した。これも触発信管であったが、幸運にも不良爆弾だったようで、爆発の威力は低く弾殻はいくつかの大きな破片に別れた。それでも飛行甲板には3メートルの穴が空いた。更に左舷艦尾に至近弾を被弾した。至近弾の衝撃で後部にいたものは60cm~90cm体が持ち上げられた。船殻がへこみ、左舷後部の飛行甲板が一部盛り上がった。17分に攻撃は終了。74名が戦死した。エンタープライズは、大火災発生、第2、第3エレベーター損傷、飛行甲板損傷、右舷水線に2メートルの破孔、右舷へ3度傾斜、という甚大な被害を受けた。引き換えに日本軍は艦爆17機、艦戦3機が撃墜され、艦爆1機不時着という大損害を受けた。エンタープライズではダメージコントロールにより火災が消火され、甲板も修復、左舷への注水で傾斜も回復し、1時間以内に艦載機の発着艦が可能となった。18時50分までに25機が着艦したが、舵が故障し、操舵不能に陥った。駆逐艦バルチと衝突しそうになったが、バルチが前進一杯、エンタープライズが後進一杯を行い、辛うじて回避した。両舷の機関出力調整でも艦をコントロールすることが出来ず、やむ無くエンタープライズは停止した。操舵区画内は約80度の高温であったが懸命の修理により、19時28分に修理が完了した。この修理中の動けない間に日本軍の第2次攻撃隊が接近し、レーダーが「方位270度、距離80km」という至近距離で敵をとらえたが、幸運にも日本軍機はエンタープライズを発見できなかった。その後、8月26日にトンガタプ島で応急修理を行い、ポートランドと共に後退した。艦載機の大半は他空母や、ガダルカナルのヘンダーソン飛行場に分配しており、F4F6機とSBD6機のみしか搭載していなかった。9月10日に真珠湾に入港し、本格的な修理が行われた。開戦から一貫してエンタープライズの航空隊として活躍してきた第6航空群は一連の戦いで消耗していた上に、ガダルカナル防衛のため空母ワスプやヘンダーソン飛行場へ派遣され半壊していた。そのためエンタープライズには新設の第10航空群が搭載された。その戦闘機隊はヨークタウンで活躍したジミー・フラットレー少佐に率いられ"グリム・リーパーズ"の呼び名と共に名を馳せることとなるが、この時は航空群の搭乗員のほとんどが新兵であり、練度は日本軍のそれに比べかなり劣っていた。修理と平行して改装が行われ、28mm4連装機銃4基16門を撤去し(艦首の1基は残された)、ボフォース40mm4連装機関砲4基16門が搭載され、20mm機銃も12基増設された。ダメージコントロール面でも改善があった。真珠湾でエンタープライズは修理と改装を行っていたが、ソロモン諸島では米海軍は苦戦していた。8月31日、サラトガが伊26の雷撃で大破した。フレッチャー提督も負傷し、サラトガは9月21日から真珠湾で修理に入った。9月15日には、ワスプが伊19の雷撃で沈没した。これにより、太平洋における米海軍の稼働空母はホーネット1隻のみになっていた。エンタープライズの修理は急き立てられ、10月16日には真珠湾を出港した。
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