全日本プロレス時代とは? わかりやすく解説

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全日本プロレス時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/14 08:13 UTC 版)

石澤常光」の記事における「全日本プロレス時代」の解説

2002年2月新日本プロレス退団し総合格闘技本格進出パンクラスへの移籍スポーツ紙噂されるなか、大方の予想覆し、同じ新日本退団した武藤敬司小島聡と共に全日本プロレス移籍する入団会見ではスーツに身を包み、「過去反省して生まれ変わります。もう認定証を破ったりとかはしませんので、パウチったりするのは止めてください」と発言新日本離脱に伴い保持していたIWGPジュニアヘビー級王座退団時に返上事実上剥奪となった全日本ではカズ・ハヤシとともにジュニア戦線主力選手として活躍する一方でZERO-ONEみちのくプロレスなど、他団体にも頻繁に参戦2004年6月小島聡&カズ・ハヤシ組を破り、第50代世界タッグ王座戴冠(w/永田裕志。しかし、世界タッグ王座封印宣言し試合を行わなかったことから剥奪される詳細後記)。さらに、試合への無断欠場繰り返したことなどを理由として、同年7月1日付で解雇処分を受ける。

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全日本プロレス時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 19:13 UTC 版)

ケンドー・カシン」の記事における「全日本プロレス時代」の解説

2002年2月新日本プロレス退団し総合格闘技本格進出パンクラスへの移籍スポーツ紙噂されるなか、大方の予想覆し、同じ新日本退団した武藤敬司小島聡と共に全日本プロレス移籍する入団会見ではスーツに身を包み、「過去反省して生まれ変わります。もう認定証を破ったりとかはしませんので、パウチったりするのは止めてください」と発言新日本離脱に伴い保持していたIWGPジュニアヘビー級王座退団時に返上事実上剥奪となった全日本ではカズ・ハヤシとともにジュニア戦線主力選手として活躍する一方でZERO-ONEみちのくプロレスなど、他団体にも頻繁に参戦2004年6月小島聡&カズ・ハヤシ組を破り、第50代世界タッグ王座戴冠(w/永田裕志。しかし、世界タッグ王座封印宣言し試合を行わなかったことから剥奪される詳細後記)。さらに、試合への無断欠場繰り返したことなどを理由として、同年7月1日付で解雇処分を受ける。

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全日本プロレス時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 19:31 UTC 版)

ジョー樋口」の記事における「全日本プロレス時代」の解説

日本プロレス離脱したジャイアント馬場1972年旗揚げした全日本プロレスに、旗揚げと共に参加以降馬場試合欠かせないレフェリーとして一躍有名になるスキンヘッドと青のコスチュームトレードマークで、日本人NWAオフィシャルレフェリーの代表・大御所存在でもあった。1974年6月14日には、アメリカセントルイスのキール・オーディトリアムにて行われたジャック・ブリスコ VSドリー・ファンク・ジュニアNWA世界ヘビー級選手権試合裁き日本人初めキール・オーディトリアム行われた試合を裁いたレフェリーとなったそれまでレフェリーイメージどちらかと言えば地味であったが、よく足を使い試合ストップした状態でも観客飽きさせないそのレフェリングは、後の和田京平西永秀一らにも大きな影響与えている。試合グラウンド状態になった際に叫ぶ言葉「ワッチャギブアップ(Watch out give-up)」も、実は観客飽きさせないための工夫であった。また試合中選手乱闘巻き込まれ失神したり、悪役レスラー反則気付かないのもお馴染みであったとりわけ1980年代前半には、乱闘巻き込まれ樋口失神し決着なだれこむジョー樋口失神ギミック」がビッグマッチを中心に多発した。この時期馬場から「ジョーさん、現役の頃よりいい受け身取っているんじゃない」と言われことがあるという。このギミック1980年代後半からあまり見られなくなり樋口体力衰え反面試合テンポ速くなった四天王プロレス時代には、樋口試合巻き込まれ失神することはほとんどなかった。 レフェリング厳格であり、2003年力道山追悼興行で特別レフェリー務めた際には、カウントしないことがほぼ不文律となっている小橋建太マシンガンチョップに対して反則カウント取ったカウントが遅いこともよく取り沙汰された(ダグ・ファーナス試合中指摘したこともある)が、ストップウォッチジョーカウント計測したところ、実時間の3秒とほぼ一致していたという話もある。 1990年代には、この頃から高齢のためチーフレフェリーの座を和田に譲る。1997年3月1日日本武道館挙行され三冠ヘビー級選手権試合三沢光晴 vs. スティーブ・ウィリアムス戦)を最後にレフェリー引退外国人係に専念することになる。

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全日本プロレス時代

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ノーフィアー」の記事における「全日本プロレス時代」の解説

1998年11月全日本プロレスにて大森隆男と、当時フリーだった高山善廣コンビ組んで世界最強タッグ決定リーグ戦出場する。しかしこれは、会社側の意向でのタッグ結成であり、以降タッグ継続両者とも考えていなかった。リーグ戦は1勝6敗の成績に終わるが、上を目指すという共通の目的があったことで意気投合タッグ存続決定した結成当初ゲーリー・オブライト含めたトリオとしての出場多く解散したTOP延長線上のイメージは拭えなかった。この件に関して大森も「高山選手組んでいるから惰性ゲーリーとも組むというのは僕は嫌」と異論述べていた。 1999年5月高山全日本プロレスに正式入団東京ドーム行われたジャイアント馬場引退記念興行大森高山オブライトトリオ参戦し同時にチーム名NO FEAR」を発表この頃から威勢のいい言動が目立つ様になり、様々な展開作り出すスタイル新日本プロレスならまだしもファイト重視全日本リングにおいてテレビカメラ向かって傲岸不遜態度で自らをアピールし異彩を放った。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}日本テレビ側も「数字呼べ要員」として、大い歓迎されたという。[要出典]リング上で破天荒な闘いぶりが若者中心に多くファン共感呼んだ6月ハヤブサ&新崎人生からアジアタッグ王座奪取。その勢いで世界タッグ王座常連川田利明&田上明ノンタイトル戦ながらも勝利7月にはジョニー・エース&バート・ガンから世界タッグ王座奪取し史上初の世界タッグ&アジアタッグタッグ三冠王輝いた。 しかし8月25日タッグ三冠三沢光晴&小川良成組との初防衛戦で落とす。同年最強タッグは8チーム中6位に終わるなどチーム勢い持続できなかった。同年秋にトリオを組む機会多かったオブライト準メンバー認めさらには2000年1月には浅子覚が正メンバーとして加入した。しかしオブライト同年1月アメリカで死去2000年大森高山シングル・プレーヤーとしての存在感高め大森チャンピオン・カーニバル決勝戦進出高山小橋建太三冠ヘビー級王座挑戦した6月メンバー揃ってプロレスリング・ノア移籍

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大仁田厚」の記事における「全日本プロレス時代」の解説

1973年日本一周徒歩旅行断念後、ジャイアント馬場憧れて全日本プロレスに「新弟子第一号」として入門し1974年4月14日後楽園ホール大会における佐藤昭雄戦でデビュー翌年入門した渕正信薗田一治と共に若手三羽烏」と呼ばれた新弟子時代には体重が50kg台であったため増量命じられ90ならない解雇される状況であった夜にファン感謝デー試合控えていたある時、馬場から増量のためにスパゲッティ10人前用意され食べてから試合行った時にボディスラム受けて鼻からスパゲッティ飛び出してしまった。 1981年海外修業出発旧西ドイツ試合行った後、テリー・ファンク斡旋プエルトリコ移動し、マサ・フチこと渕正信合流その後アメリカ本土乗り込み、ミスター・オーニタ(Mr. Onita)のリングネームテネシー州メンフィスCWA参戦トージョー・ヤマモトマネージャー迎え、渕とのコンビジェリー・ローラー&ビル・ダンディーロックンロール・エクスプレスAWA南部タッグ王座争った遠征中の1982年3月7日ノースカロライナ州シャーロットにて、チャボ・ゲレロの持つNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座挑戦セコンド付いたテリー・ファンク目前で、敵地でのタイトル奪取成し遂げた王座奪取後、日本に帰国する前にメキシコ遠征行いサングレ・チカナ王座一時奪われるものの、すぐに奪回している。 このベルト引っさげて凱旋帰国した大仁田は、当時ライバル団体新日本プロレス爆発的人気のあったタイガーマスク対抗しジュニア戦線チャンピオンとして活躍ジェイ・ヤングブラッドウルトラセブンチャボ・ゲレロドス・カラスチック・ドノバンジプシー・ジョーらを挑戦者迎えて防衛戦行った佐山タイガー4次元殺法のような華麗さアクロバティックさはないものの、無骨荒々しく感情剥き出しスタイルから「炎の稲妻」と呼ばれ人気を博す馬場ジャンボ鶴田天龍源一郎に続く全日第4の男として注目されるが、1983年4月20日東京都体育館でのヘクター・ゲレロとの防衛戦勝利した後の終了後リング飛び降りた際に着地時に足を滑らせ全体重がかかった状態で膝を床に打ち付けてしまい、左膝蓋骨粉砕骨折をしてしばらく欠場医師からは再起不能宣告された。 一度復帰するも、かつてのような活躍果たせず、馬場夫妻勧告により1984年12月2日引退賭けて、新王者マイティ井上インターナショナル・ジュニアヘビー級王座挑戦する敗退1985年1月3日後楽園ホール引退式が行われた。馬場付き人大仁田可愛がり養子にしようと本気で考えており、馬場元子引退式後に大仁田抱きしめて涙していたため、馬場夫妻にとっては苦渋の決断だったことが伺える。川田利明1997年2月週刊プロレスでのインタビューで「大仁田さんが最初に引退した時、元子さんは号泣していた」と語り、その1997年2月大仁田自身愛弟子であるハヤブサ全日参戦させよう馬場交渉の場を持ったその際馬場大仁田邪険に扱うことなく欲しいものがあったら言え」と大仁田伝えハヤブサ全日参戦承諾した

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全日本プロレス時代

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大仁田厚」の記事における「全日本プロレス時代」の解説

ジャーマン・スープレックス ジュニアヘビー時代大仁田フィニッシュ・ホールドだった。今では信じられないブリッジ美しさ定評があった。しかし膝の重症以降ブロック・バスター・ホールド羽折式風車固めのような他のブリッジと共に永遠に封印された。 ダイビング・ヘッドバット ハーリー・レイスのように、その場コーナー二段目から放つタイプダイナマイト・キッドのようにコーナーポスト最上段から放つタイプなど、色々と使い分けていた。 ブロック・バスター・ホールド ブロック・バスター投げたあと手を離さずそのままブリッジ態勢フォールを奪う。ジャーマン・スープレックス同様、ジュニアヘビー時代フィニッシュとして多用していた。 サンダーファイヤー1号 カナディアン・バックブリーカー体勢抱え上げそのまま後方倒れ込んで相手背中痛打させる技。TVゲームでも「サンダーファイヤー」として登場したことがあるサンダーファイヤー2号 カナディアン・バックブリーカー体勢抱え上げ前方走りながら倒れ込み相手放り投げる。後のサンダーファイヤーパワーボム原型となった技。 羽折式風車固め ダブルアーム・スープレックス相手投げた後、両手離さずブリッジ決めそのままギブアップを奪う。一見前田日明のリバース・アームサルトに似ているが、こちらは相手の首を自分の脇に挟み低い態勢から素早く投げヨーロッパ式ダブルアーム・スープレックスの後、3カウントを奪うものである上記通りジャーマン・スープレックス、バック・フリップ・ホールド同様、膝の重症以降封印された。 トペ・スイシーダ NWAインター・ジュニアヘビー王者としてメキシコ転戦した際、身に付けたもの。大仁田トペ・スイシーダは体を捻りながら放つため、ショルダー・スイシーダのような感じ相手見舞っていった(天龍トペ似ているが、無論使い始めたのは大仁田の方が先である)。FMW以降試合でも、まれに使うことがあるフライング・ボディ・アタック トペ・スイシーダ同様、メキシコ転戦した際、身に付けたもの。相手ロープ飛ばしてカウンター式、コーナートップからミル・マスカラスのように放つタイプなど様々に繰り出したダイビング・ヘッドバットトペ・スイシーダ同様に、この時期何かと比較され初代タイガーマスクへの対抗心伺える技であった。 ミサイルキック 当時はこの技を切り札にしていた先輩ジャンボ鶴田影響受けたのか、鶴田同様のスクリュー式ミサイルキックをNWAインター・ジュニアヘビー級選手権良く用いたタイトル巡ってライバルだったチャボ・ゲレロとの試合では、必ずといっていいほど繰り出していた。 エルボー・バット 組み合い接近戦でよく用いた。特にザ・ファンクス仕込みエルボー・スマッシュは、大技への繋ぎ反撃糸口として多用したトラース・キック 試合の流れ変えようとした際に用いたその場で蹴るパターンと、ロープ振ってからのカウンターで蹴るパターンがあったが、現在は膝の負傷もありほとんど使用していない。 この他にも、チャボ・ゲレロからNWAインターナショナル世界ジュニアヘビー級王座奪取した際のフィニッシュである高角前方回転エビ固め、同王座NWA本部預かりから名称をNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座変更してチャボ・ゲレロ行われた王者決定三番勝負の3戦目では逆さ押さえ込みで新王者になるなど、ジュニアヘビー選手らしいトリッキー逆転フォール技もかなり多用していた。

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全日本プロレス時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 21:03 UTC 版)

剛竜馬」の記事における「全日本プロレス時代」の解説

1984年11月からは全日本プロレス転出し前述対抗戦以来全日本マット登場となった移籍同時に馬場仲間割れした木村以下、剛と同門鶴見アポロ菅原高杉と『国際血盟軍』を結成した。なお、乱入現場には井上居たが、結局国際血盟軍」には加入しなかった。阿修羅・原は後に一匹狼的な立場置かれた際に「国際血盟軍」との共闘頻繁に行っている。 しかし、木村試合後のマイクパフォーマンス以外にのないファイトスタイル尻すぼみになり、全日本内におけるポジション下位グループとどまった。またジャパンプロレス大量移籍全日本日本人選手飽和状態となったため、カルガリーハリケーンズスーパー・ストロング・マシンヒロ斎藤高野俊二)と入れ替わりに「エキサイティング・ウォーズ'86シリーズ中の1986年3月2日岩手県陸前高田市体育館大会の対石川敬士をもって高杉菅原と共に全日本移籍してわずか1年4カ月整理解雇された。解雇原因は、目立ちたいがために、馬場ジョー樋口和田京平タイガー服部ミスター林レフェリー機嫌悪くさせたためであった菅原同様の理由だった)。最終的に陸前高田大会翌日に、原軍治リングアナウンサーが3人を事務所呼び出し馬場直接解雇通告行ったという。鶴見によれば仙台市内ホテルにて馬場と剛・菅原食事した際、菅原馬場掲げるプロレススタイルを否定する発言行ったため、馬場逆鱗触れてしまい、帰り際、剛・菅原鶴見に対して馬場プロレス面白くない」と発言した所、鶴見2人に対して馬場になんて事を言ったんだ!」と激怒したという。さらに鶴見は、以前から「剛の全日本在籍期間は短い期間に終わるだろう」と感じていたという。これにより剛は、昭和4団体国際新日本UWF全日本)をシリーズ中に退団または解雇される格好となった全日本在籍中にはタイガー・ジェット・シンハーリー・レイスらにシングルマッチ挑む機会与えられたが、未勝利終わっている。 解雇後北沢幹之経営する建築内装業の下働きをしていたが、1986年4月末よりマサ斎藤ブッキング渡米し、スーパー・ニンジャこと高野俊二タッグパートナー "Ninja Go" としてAWA参戦高野ビル・アーウィン組んでスコット・ホール&カート・ヘニング保持していたAWA世界タッグ王座挑戦したほか、ラリー・ズビスコパートナーとなってミッドナイト・ロッカーズマーティ・ジャネッティ&ショーン・マイケルズ)とも対戦したその後1987年7月全日本「サマー・アクション・シリーズ」に1シリーズだけ復活招聘されアジアタッグ王座争奪リーグ戦鶴見組んで参戦したが、三つ巴最下位終わった。なお、ピンフォール取られたのはすべて剛である。最終戦7月30日東京都東村山市スポーツセンター大会の対谷津&仲野信市戦(剛のパートナー木村をもって全日本マットから再び去った心肺能力など高い評価受けていたが、体の硬さ不器用さ響き第一線に出ることなくメジャー団体から放逐されることとなり、自らのタニマチ経営していたお好み焼き屋の店長転身した

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全日本プロレス時代

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冬木弘道」の記事における「全日本プロレス時代」の解説

1981年8月9日国際プロレス解散しその後全日本プロレス移籍天龍源一郎付き人務めた。この時期、同じ若手だった三沢光晴とは一緒に海に遊びに行くなどして仲が良かったという。1983年行われたルー・テーズ杯争奪リーグ戦にも参加したが、1勝5敗1分の成績に終わる(優勝越中詩郎)。1984年11月海外遠征テキサス州サンアントニオ地区では川田利明とのタッグチーム「ジャパニーズ・フォース」で活動若手時代ショーン・マイケルズ&ポール・ダイヤモンドの「アメリカン・フォース」と抗争展開した1985年12月体重増加させて帰国後、ジャイアント馬場命名によりサムソン冬木改名した海外遠征中には国際プロレスエース格だったラッシャー木村全日本移籍し鶴見五郎高杉菅原国際崩壊直前新日本プロレス移籍していた剛竜馬加入した上で国際血盟軍」を率いていたが、冬木マイティ井上共々国際血盟軍」には加入しなかった。国際出身者ジャパンプロレスアニマル浜口寺西勇海外遠征直前全日本移籍していた。「国際血盟軍」や浜口寺西の元国際所属選手なおかつ国際時代には格上だった選手ともシングルタッグ対決し1986年3月に剛・高杉と共に全日本整理解雇された菅原全日本最後試合対戦相手務めている(井上との師弟タッグ鶴見菅原組と対戦)。 1987年3月に再び海外遠征し、プエルトリコ地区では風貌似ていたため「リキ・チョーシュー」を名乗った帰国後、天龍同盟参加川田利明とのコンビフットルース」を結成したが、川田天龍とのタッグ機会多くなるにつれて冬木孤立していった。1989年第1回あすなろ杯争奪リーグ戦では準優勝している(優勝川田)。

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全日本プロレス時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 07:57 UTC 版)

ジャイアント馬場」の記事における「全日本プロレス時代」の解説

1972年10月日本テレビ三菱電機後押し全日本プロ・レスリング株式会社旗揚げした。馬場全日本旗揚げに際して、日プロ時代保持していたタイトル全て返還しており、全日本旗揚げ後より、団体看板となるシングル王座確立のため、世界強豪レスラー連と、全日本プロレス認定世界ヘビー級王座(後のPWFヘビー級王座争奪戦開始合計10戦において8勝0敗2引き分け戦績により、馬場初代王者として認定された。なおこのシングル王座ベルトとして当初使われたのは、力道山所有していたインターナショナル・ヘビー級王座ベルトであり、全日本旗揚げ時に力道山家より馬場寄贈されたものである(後に新調されオリジナルは、ヒューストンプロレス博物館寄贈された)。馬場は、このPWFヘビー級王座38連続防衛含んで長期間保持しPWFヘビー級王座は、全日本時代馬場代名詞とも言うべき看板タイトルとなり、後に、インターナショナル・ヘビー級王座UNヘビー級王座とともに全日本三冠タイトル一つとなった創立1年強の1974年1月には早くもジャック・ブリスコハーリー・レイスドリー・ファンク・ジュニアNWA現・前元王者を招聘し、日本陣営馬場本人や成長著しジャンボ鶴田ザ・デストロイヤーとの組み合わせ展開された。同年12月ジャック・ブリスコ破って当時世界で最も権威があるとされたNWA世界ヘビー級王座初め獲得するPWFヘビー級王座二冠賭けたダブルタイトルマッチで勝利し初防衛を果たすも、再々戦で敗れた1979年1980年にもハーリー・レイス破って結局通算3回NWA世界ヘビー級王座獲得したが、このときはいずれ翌週再戦では防衛果たせなかった。全日本プロレス入門第一号で、一番弟子であるジャンボ鶴田は、馬場期待大きく上回る程の急成長遂げ馬場鶴田最強師弟コンビは、長年亘ってインタータッグ王座保持し全日本プロレス暮れ定番イベントとなった世界最強タッグ決定リーグ戦においても、通算2回の優勝果たした1979年8月26日日本武道館にて行われたプロレス夢のオールスター戦にて、アントニオ猪木一夜限りBI砲復活させ、アブドーラ・ザ・ブッチャータイガー・ジェット・シン組と対戦し勝利した1980年4月ザ・シーク相手通算3000試合目を達成デビューから丸20年目だった。記者から後に知らされ、「最初から分かっていれば、まともな相手選んでいた」とコメント。9ヶ月後の、1981年1月には「ジャイアント馬場3000試合連続出場突破記念試合」を開催しバーン・ガニアとの間で自身保持するPWFヘビー級王座とガニアの保持するAWA世界ヘビー級王座のダブルタイトルマッチを行う。結果3本勝負行われ1-1ドロー両者王座防衛1981年12月世界最強タッグ決定リーグ戦最終戦において、ブルーザー・ブロディ&ジミー・スヌーカ組のセコンドとして突如登場したスタン・ハンセンが、試合後、ドリー・ファンク・ジュニアとの乱闘繰り広げたことから、急遽馬場らが乱入しハンセンとの遺恨勃発1982年2月行われたPWFヘビー級選手権試合で初対決死闘繰り広げたが、両者反則による引き分けとなった1979年夢のオールスター戦での猪木組んでブッチャー&シン戦、1980年鶴田組んでファンクスとの世界最強タッグ決定リーグ戦最終戦1981年のガニアとのダブルタイトル戦、そして1982年ハンセンとのPWF防衛戦で、4年連続プロレス大賞ベストバウト年間最高試合)を受賞している。 1984年4月ハンセン&ブロディミラクルパワーコンビ)のハイジャック・パイルドライバーで首を痛め次の試合欠場デビュー以来3000試合上続いた連続無欠記録ストップした1985年7月ハンセン敗退しPWFヘビー級王座から転落したのをきっかけタイトル戦線から退いた後は、社長業タレント業比重移しながらも義弟自認するラッシャー木村百田光雄ファミリー軍団結成し悪役商会との抗争開始し前座で「明るく楽しいプロレス」を展開し最後試合が行われた1998年12月5日までリング上がり続けたアントニオ猪木率い新日本異種格闘技戦など斬新な企画次々と打ち出しても、馬場は年8回のシリーズ全国巡業という型を続けていた。 生涯通算5769試合行った1995年1月元子夫人明石実家阪神・淡路大震災の被害遭い運転手和田京平専属秘書仲田龍らと家の片付け向かった関西地区被害目の当たりにした馬場は、ガスコンロ生活用品を買い集めた後関西地区住んでいる全日本ファンクラブキングスロード会員名簿取り寄せ一軒一軒馬場自らが出向き生活用品差し入れて回ったという。1998年には、全日本興行募った震災義援金明石ロータリークラブ寄付し、その寄付金巨人軍時代キャンプ地でもあった兵庫県立明石公園第一野球場在る明石公園内に『阪神淡路大震災記録碑』を建立している。 1995年3月タワーレコード渋谷店移転しメガストア化した際の宣伝ポスターに、上を見上げ馬場モデルとして起用された。 晩年巨人OB会出席した際、先輩千葉茂に「おーい、馬場!」と手招きされた際、大喜び後ろから抱きついた。このため馬場がおんぶされるような格好甘えているように写るという珍しい構図になった目上から呼び捨てにされる機会がほとんど無くなり久しぶりのことだったのでとても嬉しかったという。亡くなる前年には巨人阪神OB戦に巨人OBとして出場一塁ランナーとして出るも牽制アウトになり王貞治から「馬場さん頼むよ〜」と和やかな雰囲気試合楽しんだという。 プロレス興行では大会場での試合地方での売り興行関係なく入場口近く売店椅子座りグッズ購入したファンサイン書いたり、記念撮影に応じてフレーム収まったりしていた。馬場死後の全日本プロレスでは、愛用だった椅子置いている。

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