全日本プロレス時代
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2002年2月、新日本プロレスを退団し、総合格闘技に本格進出やパンクラスへの移籍がスポーツ紙で噂されるなか、大方の予想を覆し、同じ新日本を退団した武藤敬司、小島聡らと共に全日本プロレスに移籍する。入団会見ではスーツに身を包み、「過去を反省して生まれ変わります。もう認定証を破ったりとかはしませんので、パウチったりするのは止めてください」と発言。新日本離脱に伴い、保持していたIWGPジュニアヘビー級王座は退団時に返上(事実上の剥奪)となった。全日本ではカズ・ハヤシらとともにジュニア戦線の主力選手として活躍する一方で、ZERO-ONEやみちのくプロレスなど、他団体にも頻繁に参戦。 2004年6月、小島聡&カズ・ハヤシ組を破り、第50代世界タッグ王座戴冠(w/永田裕志。しかし、世界タッグ王座の封印を宣言し試合を行わなかったことから剥奪される(詳細は後記)。さらに、試合への無断欠場を繰り返したことなどを理由として、同年7月1日付で解雇処分を受ける。
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全日本プロレス時代
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「ケンドー・カシン」の記事における「全日本プロレス時代」の解説
2002年2月、新日本プロレスを退団し、総合格闘技に本格進出やパンクラスへの移籍がスポーツ紙で噂されるなか、大方の予想を覆し、同じ新日本を退団した武藤敬司、小島聡らと共に全日本プロレスに移籍する。入団会見ではスーツに身を包み、「過去を反省して生まれ変わります。もう認定証を破ったりとかはしませんので、パウチったりするのは止めてください」と発言。新日本離脱に伴い、保持していたIWGPジュニアヘビー級王座は退団時に返上(事実上の剥奪)となった。全日本ではカズ・ハヤシらとともにジュニア戦線の主力選手として活躍する一方で、ZERO-ONEやみちのくプロレスなど、他団体にも頻繁に参戦。 2004年6月、小島聡&カズ・ハヤシ組を破り、第50代世界タッグ王座戴冠(w/永田裕志。しかし、世界タッグ王座の封印を宣言し試合を行わなかったことから剥奪される(詳細は後記)。さらに、試合への無断欠場を繰り返したことなどを理由として、同年7月1日付で解雇処分を受ける。
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全日本プロレス時代
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日本プロレスを離脱したジャイアント馬場が1972年に旗揚げした全日本プロレスに、旗揚げと共に参加。以降、馬場の試合に欠かせないレフェリーとして一躍有名になる。スキンヘッドと青のコスチュームがトレードマークで、日本人のNWAオフィシャルレフェリーの代表・大御所的存在でもあった。1974年6月14日には、アメリカセントルイスのキール・オーディトリアムにて行われたジャック・ブリスコ VSドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級選手権試合を裁き、日本人で初めてキール・オーディトリアムで行われた試合を裁いたレフェリーとなった。 それまでのレフェリーのイメージはどちらかと言えば地味であったが、よく足を使い、試合がストップした状態でも観客を飽きさせないそのレフェリングは、後の和田京平や西永秀一らにも大きな影響を与えている。試合がグラウンド状態になった際に叫ぶ言葉「ワッチャギブアップ(Watch out give-up)」も、実は観客を飽きさせないための工夫であった。また試合中に選手の乱闘に巻き込まれて失神したり、悪役レスラーの反則に気付かないのもお馴染みであった。とりわけ1980年代前半には、乱闘に巻き込まれて樋口が失神し決着になだれこむ「ジョー樋口失神ギミック」がビッグマッチを中心に多発した。この時期に馬場から「ジョーさん、現役の頃よりいい受け身取っているんじゃない」と言われたことがあるという。このギミックは1980年代後半からあまり見られなくなり、樋口の体力が衰える反面で試合のテンポが速くなった四天王プロレスの時代には、樋口が試合に巻き込まれて失神することはほとんどなかった。 レフェリングは厳格であり、2003年の力道山追悼興行で特別レフェリーを務めた際には、カウントしないことがほぼ不文律となっている小橋建太のマシンガンチョップに対して反則カウントを取った。カウントが遅いこともよく取り沙汰された(ダグ・ファーナスが試合中に指摘したこともある)が、ストップウォッチでジョーのカウントを計測したところ、実時間の3秒とほぼ一致していたという話もある。 1990年代には、この頃から高齢のためチーフレフェリーの座を和田に譲る。1997年3月1日に日本武道館で挙行された三冠ヘビー級選手権試合(三沢光晴 vs. スティーブ・ウィリアムス戦)を最後にレフェリーを引退、外国人係に専念することになる。
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全日本プロレス時代
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1998年11月、全日本プロレスにて大森隆男と、当時フリーだった高山善廣がコンビを組んで、世界最強タッグ決定リーグ戦に出場する。しかしこれは、会社側の意向でのタッグ結成であり、以降のタッグ継続は両者とも考えていなかった。リーグ戦は1勝6敗の成績に終わるが、上を目指すという共通の目的があったことで意気投合、タッグ存続を決定した。結成当初はゲーリー・オブライトを含めたトリオとしての出場も多く、解散したTOPの延長線上のイメージは拭えなかった。この件に関して大森も「高山選手と組んでいるから惰性でゲーリーとも組むというのは僕は嫌」と異論を述べていた。 1999年5月、高山が全日本プロレスに正式入団。東京ドームで行われたジャイアント馬場引退記念興行で大森、高山、オブライトのトリオで参戦し、同時にチーム名「NO FEAR」を発表。この頃から威勢のいい言動が目立つ様になり、様々な展開を作り出すスタイルの新日本プロレスならまだしも、ファイト重視の全日本のリングにおいてテレビカメラに向かって傲岸不遜な態度で自らをアピールし異彩を放った。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}日本テレビ側も「数字を呼べる要員」として、大いに歓迎されたという。[要出典]リング上でも破天荒な闘いぶりが若者を中心に多くのファンの共感を呼んだ。 6月、ハヤブサ&新崎人生からアジアタッグ王座を奪取。その勢いで世界タッグ王座の常連の川田利明&田上明にノンタイトル戦ながらも勝利。7月にはジョニー・エース&バート・ガンから世界タッグ王座を奪取し、史上初の世界タッグ&アジアタッグのタッグ三冠王に輝いた。 しかし8月25日、タッグ三冠を三沢光晴&小川良成組との初防衛戦で落とす。同年の最強タッグは8チーム中6位に終わるなどチームの勢いは持続できなかった。同年秋にはトリオを組む機会が多かったオブライトを準メンバーと認め、さらには2000年1月には浅子覚が正メンバーとして加入した。しかしオブライトは同年1月にアメリカで死去。 2000年は大森と高山はシングル・プレーヤーとしての存在感を高め、大森はチャンピオン・カーニバルの決勝戦に進出、高山は小橋建太の三冠ヘビー級王座に挑戦した。 6月、メンバーは揃ってプロレスリング・ノアへ移籍。
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全日本プロレス時代
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1973年、日本一周徒歩旅行を断念後、ジャイアント馬場に憧れて全日本プロレスに「新弟子第一号」として入門し、1974年4月14日の後楽園ホール大会における佐藤昭雄戦でデビュー。翌年に入門した渕正信、薗田一治と共に「若手三羽烏」と呼ばれた。新弟子時代には体重が50kg台であったため増量を命じられ、90㎏にならないと解雇される状況であった。夜にファン感謝デーの試合を控えていたある時、馬場から増量のためにスパゲッティ10人前を用意され、食べてから試合を行った時にボディスラムを受けて鼻からスパゲッティが飛び出してしまった。 1981年に海外修業に出発。旧西ドイツで試合を行った後、テリー・ファンクの斡旋でプエルトリコへ移動し、マサ・フチこと渕正信と合流。その後アメリカ本土に乗り込み、ミスター・オーニタ(Mr. Onita)のリングネームでテネシー州メンフィスのCWAに参戦。トージョー・ヤマモトをマネージャーに迎え、渕とのコンビでジェリー・ローラー&ビル・ダンディーやロックンロール・エクスプレスとAWA南部タッグ王座を争った。遠征中の1982年3月7日、ノースカロライナ州シャーロットにて、チャボ・ゲレロの持つNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座に挑戦、セコンドに付いたテリー・ファンクの目前で、敵地でのタイトル奪取を成し遂げた。王座奪取後、日本に帰国する前にメキシコ遠征を行い、サングレ・チカナに王座を一時奪われるものの、すぐに奪回している。 このベルトを引っさげて凱旋帰国した大仁田は、当時ライバル団体の新日本プロレスで爆発的人気のあったタイガーマスクに対抗し、ジュニア戦線のチャンピオンとして活躍。ジェイ・ヤングブラッド、ウルトラセブン、チャボ・ゲレロ、ドス・カラス、チック・ドノバン、ジプシー・ジョーらを挑戦者に迎えて防衛戦を行った。佐山タイガーの4次元殺法のような華麗さ、アクロバティックさはないものの、無骨で荒々しく感情剥き出しなスタイルから「炎の稲妻」と呼ばれ人気を博す。馬場やジャンボ鶴田、天龍源一郎に続く全日第4の男として注目されるが、1983年4月20日、東京都体育館でのヘクター・ゲレロとの防衛戦に勝利した後の終了後、リングを飛び降りた際に着地時に足を滑らせ、全体重がかかった状態で膝を床に打ち付けてしまい、左膝蓋骨粉砕骨折をしてしばらく欠場、医師からは再起不能を宣告された。 一度は復帰するも、かつてのような活躍は果たせず、馬場夫妻の勧告により1984年12月2日に引退を賭けて、新王者マイティ井上のインターナショナル・ジュニアヘビー級王座に挑戦するも敗退。1985年1月3日に後楽園ホールで引退式が行われた。馬場は付き人の大仁田を可愛がり、養子にしようと本気で考えており、馬場元子は引退式後に大仁田を抱きしめて涙していたため、馬場夫妻にとっては苦渋の決断だったことが伺える。川田利明は1997年2月に週刊プロレスでのインタビューで「大仁田さんが最初に引退した時、元子さんは号泣していた」と語り、その1997年2月に大仁田は自身の愛弟子であるハヤブサを全日に参戦させようと馬場と交渉の場を持った。その際、馬場は大仁田を邪険に扱うことなく「欲しいものがあったら言え」と大仁田に伝え、ハヤブサの全日参戦を承諾した。
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全日本プロレス時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:31 UTC 版)
ジャーマン・スープレックス ジュニアヘビー時代の大仁田のフィニッシュ・ホールドだった。今では信じられないがブリッジの美しさに定評があった。しかし膝の重症以降はブロック・バスター・ホールド、羽折式風車固めのような他のブリッジ技と共に永遠に封印された。 ダイビング・ヘッドバット ハーリー・レイスのように、その場やコーナー二段目から放つタイプ、ダイナマイト・キッドのようにコーナーポスト最上段から放つタイプなど、色々と使い分けていた。 ブロック・バスター・ホールド ブロック・バスターで投げたあと手を離さず、そのままブリッジの態勢でフォールを奪う。ジャーマン・スープレックス同様、ジュニアヘビー時代にフィニッシュとして多用していた。 サンダーファイヤー1号 カナディアン・バックブリーカーの体勢に抱え上げ、そのまま後方に倒れ込んで相手の背中を痛打させる技。TVゲームでも「サンダーファイヤー」として登場したことがある。 サンダーファイヤー2号 カナディアン・バックブリーカーの体勢に抱え上げ、前方へ走りながら倒れ込み相手を放り投げる。後のサンダーファイヤーパワーボムの原型となった技。 羽折式風車固め ダブルアーム・スープレックスで相手を投げた後、両手を離さずブリッジで決め、そのままギブアップを奪う。一見前田日明のリバース・アームサルトに似ているが、こちらは相手の首を自分の脇に挟み低い態勢から素早く投げるヨーロッパ式ダブルアーム・スープレックスの後、3カウントを奪うものである。上記の通りジャーマン・スープレックス、バック・フリップ・ホールド同様、膝の重症以降は封印された。 トペ・スイシーダ NWAインター・ジュニアヘビー王者としてメキシコに転戦した際、身に付けたもの。大仁田のトペ・スイシーダは体を捻りながら放つため、ショルダー・スイシーダのような感じで相手に見舞っていった(天龍のトペと似ているが、無論使い始めたのは大仁田の方が先である)。FMW以降の試合でも、まれに使うことがある。 フライング・ボディ・アタック トペ・スイシーダ同様、メキシコに転戦した際、身に付けたもの。相手をロープに飛ばしてのカウンター式、コーナートップからミル・マスカラスのように放つタイプなど様々に繰り出した。ダイビング・ヘッドバット、トペ・スイシーダ同様に、この時期何かと比較された初代タイガーマスクへの対抗心が伺える技であった。 ミサイルキック 当時はこの技を切り札にしていた先輩のジャンボ鶴田に影響を受けたのか、鶴田同様のスクリュー式ミサイルキックをNWAインター・ジュニアヘビー級選手権で良く用いた。タイトルを巡ってライバルだったチャボ・ゲレロとの試合では、必ずといっていいほど繰り出していた。 エルボー・バット 組み合い、接近戦でよく用いた。特にザ・ファンクス仕込みのエルボー・スマッシュは、大技への繋ぎ、反撃の糸口として多用した。 トラース・キック 試合の流れを変えようとした際に用いた。その場で蹴るパターンと、ロープへ振ってからのカウンターで蹴るパターンがあったが、現在は膝の負傷もありほとんど使用していない。 この他にも、チャボ・ゲレロからNWAインターナショナル世界ジュニアヘビー級王座を奪取した際のフィニッシュである高角度前方回転エビ固め、同王座がNWA本部預かりから名称をNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座に変更してチャボ・ゲレロと行われた新王者決定三番勝負の3戦目では逆さ押さえ込みで新王者になるなど、ジュニアヘビー選手らしいトリッキーな逆転フォール技もかなり多用していた。
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全日本プロレス時代
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1984年11月からは全日本プロレスに転出し、前述の対抗戦以来の全日本マット登場となった。移籍と同時に馬場と仲間割れした木村以下、剛と同門の鶴見、アポロ菅原、高杉と『国際血盟軍』を結成した。なお、乱入の現場には井上も居たが、結局「国際血盟軍」には加入しなかった。阿修羅・原は後に一匹狼的な立場に置かれた際に「国際血盟軍」との共闘を頻繁に行っている。 しかし、木村の試合後のマイクパフォーマンス以外に華のないファイトスタイルで尻すぼみになり、全日本内におけるポジションも下位グループにとどまった。またジャパンプロレスの大量移籍で全日本で日本人選手が飽和状態となったため、カルガリーハリケーンズ(スーパー・ストロング・マシン、ヒロ斎藤、高野俊二)と入れ替わりに「エキサイティング・ウォーズ'86」シリーズ中の1986年3月2日の岩手県陸前高田市民体育館大会の対石川敬士戦をもって、高杉や菅原と共に全日本に移籍してわずか1年4カ月で整理解雇された。解雇の原因は、目立ちたいがために、馬場やジョー樋口、和田京平、タイガー服部、ミスター林各レフェリーの機嫌を悪くさせたためであった(菅原も同様の理由だった)。最終的に陸前高田大会翌日に、原軍治リングアナウンサーが3人を事務所に呼び出し、馬場が直接解雇通告を行ったという。鶴見によれば、仙台市内のホテルにて馬場と剛・菅原が食事した際、菅原が馬場が掲げるプロレススタイルを否定する発言を行ったため、馬場の逆鱗に触れてしまい、帰り際、剛・菅原は鶴見に対して「馬場のプロレスは面白くない」と発言した所、鶴見は2人に対して「馬場になんて事を言ったんだ!」と激怒したという。さらに鶴見は、以前から「剛の全日本在籍期間は短い期間に終わるだろう」と感じていたという。これにより剛は、昭和4団体(国際・新日本・UWF・全日本)をシリーズ中に退団または解雇される格好となった。全日本在籍中にはタイガー・ジェット・シンやハーリー・レイスらにシングルマッチで挑む機会を与えられたが、未勝利に終わっている。 解雇後は北沢幹之が経営する建築内装業の下働きをしていたが、1986年4月末よりマサ斎藤のブッキングで渡米し、スーパー・ニンジャこと高野俊二のタッグパートナー "Ninja Go" としてAWAに参戦。高野やビル・アーウィンと組んでスコット・ホール&カート・ヘニングが保持していたAWA世界タッグ王座に挑戦したほか、ラリー・ズビスコのパートナーとなってミッドナイト・ロッカーズ(マーティ・ジャネッティ&ショーン・マイケルズ)とも対戦した。 その後、1987年7月の全日本「サマー・アクション・シリーズ」に1シリーズだけ復活招聘され、アジアタッグ王座争奪リーグ戦に鶴見と組んで参戦したが、三つ巴の最下位に終わった。なお、ピンフォールを取られたのはすべて剛である。最終戦の7月30日、東京都東村山市民スポーツセンター大会の対谷津&仲野信市戦(剛のパートナーは木村)をもって、全日本マットから再び去った。心肺能力などは高い評価を受けていたが、体の硬さと不器用さが響き、第一線に出ることなくメジャー団体から放逐されることとなり、自らのタニマチが経営していたお好み焼き屋の店長に転身した。
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全日本プロレス時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 07:59 UTC 版)
1981年8月9日に国際プロレスが解散し、その後全日本プロレスに移籍。天龍源一郎の付き人を務めた。この時期、同じ若手だった三沢光晴とは一緒に海に遊びに行くなどして仲が良かったという。1983年に行われたルー・テーズ杯争奪リーグ戦にも参加したが、1勝5敗1分の成績に終わる(優勝は越中詩郎)。1984年11月に海外初遠征。テキサス州サンアントニオ地区では川田利明とのタッグチーム「ジャパニーズ・フォース」で活動、若手時代のショーン・マイケルズ&ポール・ダイヤモンドの「アメリカン・フォース」と抗争を展開した。 1985年12月、体重を増加させて帰国後、ジャイアント馬場の命名によりサムソン冬木に改名した。海外遠征中には国際プロレスのエース格だったラッシャー木村が全日本に移籍し、鶴見五郎・高杉・菅原と国際崩壊直前に新日本プロレスへ移籍していた剛竜馬も加入した上で「国際血盟軍」を率いていたが、冬木はマイティ井上共々「国際血盟軍」には加入しなかった。国際出身者でジャパンプロレスのアニマル浜口・寺西勇も海外遠征直前に全日本に移籍していた。「国際血盟軍」や浜口・寺西の元国際所属選手でなおかつ国際時代には格上だった選手ともシングルやタッグで対決し、1986年3月に剛・高杉と共に全日本を整理解雇された菅原の全日本最後の試合の対戦相手も務めている(井上との師弟タッグで鶴見&菅原組と対戦)。 1987年3月に再び海外遠征し、プエルトリコ地区では風貌が似ていたため「リキ・チョーシュー」を名乗った。帰国後、天龍同盟に参加。川田利明とのコンビ「フットルース」を結成したが、川田が天龍とのタッグの機会が多くなるにつれて、冬木は孤立していった。1989年の第1回あすなろ杯争奪リーグ戦では準優勝している(優勝は川田)。
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全日本プロレス時代
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「ジャイアント馬場」の記事における「全日本プロレス時代」の解説
1972年10月に日本テレビ・三菱電機の後押しで全日本プロ・レスリング株式会社を旗揚げした。馬場は全日本旗揚げに際して、日プロ時代に保持していたタイトルを全て返還しており、全日本旗揚げ後より、団体の看板となるシングル王座の確立のため、世界の強豪レスラー連と、全日本プロレス認定世界ヘビー級王座(後のPWFヘビー級王座)争奪戦を開始。合計10戦において8勝0敗2引き分けの戦績により、馬場が初代王者として認定された。なおこのシングル王座のベルトとして当初使われたのは、力道山が所有していたインターナショナル・ヘビー級王座のベルトであり、全日本旗揚げ時に力道山家より馬場に寄贈されたものである(後に新調され、オリジナルは、ヒューストンのプロレス博物館に寄贈された)。馬場は、このPWFヘビー級王座を38回連続防衛を含んで長期間保持し、PWFヘビー級王座は、全日本時代の馬場の代名詞とも言うべき看板タイトルとなり、後に、インターナショナル・ヘビー級王座、UNヘビー級王座とともに、全日本三冠タイトルの一つとなった。 創立1年強の1974年1月には早くもジャック・ブリスコ、ハーリー・レイス、ドリー・ファンク・ジュニアとNWAの現・前・元王者を招聘し、日本陣営の馬場本人や成長著しいジャンボ鶴田、ザ・デストロイヤーとの組み合わせが展開された。同年12月、ジャック・ブリスコを破って、当時世界で最も権威があるとされたNWA世界ヘビー級王座を初めて獲得する。PWFヘビー級王座と二冠を賭けたダブルタイトルマッチで勝利し初防衛を果たすも、再々戦で敗れた。1979年と1980年にもハーリー・レイスを破って、結局、通算3回、NWA世界ヘビー級王座を獲得したが、このときはいずれも翌週の再戦では防衛を果たせなかった。全日本プロレス入門第一号で、一番弟子であるジャンボ鶴田は、馬場の期待を大きく上回る程の急成長を遂げ、馬場・鶴田の最強師弟コンビは、長年に亘ってインタータッグ王座を保持し、全日本プロレスの暮れの定番イベントとなった世界最強タッグ決定リーグ戦においても、通算2回の優勝を果たした。 1979年8月26日、日本武道館にて行われたプロレス夢のオールスター戦にて、アントニオ猪木と一夜限りでBI砲を復活させ、アブドーラ・ザ・ブッチャー、タイガー・ジェット・シン組と対戦し勝利した。 1980年4月、ザ・シークを相手に通算3000試合目を達成。デビューから丸20年目だった。記者から後に知らされ、「最初から分かっていれば、まともな相手を選んでいた」とコメント。9ヶ月後の、1981年1月には「ジャイアント馬場3000試合連続出場突破記念試合」を開催し、バーン・ガニアとの間で自身の保持するPWFヘビー級王座とガニアの保持するAWA世界ヘビー級王座のダブルタイトルマッチを行う。結果は3本勝負で行われ1-1のドローで両者王座防衛。 1981年12月、世界最強タッグ決定リーグ戦の最終戦において、ブルーザー・ブロディ&ジミー・スヌーカ組のセコンドとして突如登場したスタン・ハンセンが、試合後、ドリー・ファンク・ジュニアとの乱闘を繰り広げたことから、急遽馬場らが乱入しハンセンとの遺恨勃発。1982年2月に行われたPWFヘビー級選手権試合で初対決、死闘を繰り広げたが、両者反則による引き分けとなった。 1979年夢のオールスター戦での猪木と組んでのブッチャー&シン戦、1980年の鶴田と組んでのファンクスとの世界最強タッグ決定リーグ戦最終戦、1981年のガニアとのダブルタイトル戦、そして1982年のハンセンとのPWF防衛戦で、4年連続でプロレス大賞のベストバウト(年間最高試合)を受賞している。 1984年4月、ハンセン&ブロディ(ミラクルパワーコンビ)のハイジャック・パイルドライバーで首を痛め、次の試合を欠場、デビュー以来3000試合以上続いた連続無欠場記録がストップした。 1985年7月、ハンセンに敗退し、PWFヘビー級王座から転落したのをきっかけにタイトル戦線から退いた後は、社長業やタレント業に比重を移しながらも義弟を自認するラッシャー木村や百田光雄とファミリー軍団を結成し、悪役商会との抗争を開始し、前座で「明るく楽しいプロレス」を展開し、最後の試合が行われた1998年12月5日までリングに上がり続けた。アントニオ猪木率いる新日本が異種格闘技戦など斬新な企画を次々と打ち出しても、馬場は年8回のシリーズと全国巡業という型を続けていた。 生涯で通算5769試合を行った。 1995年1月、元子夫人の明石の実家が阪神・淡路大震災の被害に遭い、運転手の和田京平、専属秘書の仲田龍らと家の片付けに向かった。関西地区の被害を目の当たりにした馬場は、ガスコンロや生活用品を買い集めた後関西地区に住んでいる全日本のファンクラブ「キングスロード」会員の名簿を取り寄せ、一軒一軒へ馬場自らが出向き、生活用品を差し入れて回ったという。1998年には、全日本の興行で募った震災義援金を明石ロータリークラブに寄付し、その寄付金で巨人軍時代のキャンプ地でもあった兵庫県立明石公園第一野球場が在る明石公園内に『阪神淡路大震災記録碑』を建立している。 1995年3月にタワーレコード渋谷店が移転しメガストア化した際の宣伝ポスターに、上を見上げる馬場がモデルとして起用された。 晩年巨人のOB会へ出席した際、先輩の千葉茂に「おーい、馬場!」と手招きされた際、大喜びで後ろから抱きついた。このため馬場がおんぶされるような格好で甘えているように写るという珍しい構図になった。目上から呼び捨てにされる機会がほとんど無くなり、久しぶりのことだったのでとても嬉しかったという。亡くなる前年には巨人阪神のOB戦に巨人OBとして出場。一塁にランナーとして出るも牽制でアウトになり王貞治から「馬場さん頼むよ〜」と和やかな雰囲気で試合を楽しんだという。 プロレス興行では大会場での試合、地方での売り興行関係なく入場口近くの売店の椅子に座り、グッズを購入したファンにサインを書いたり、記念撮影に応じてフレームに収まったりしていた。馬場死後の全日本プロレスでは、愛用だった椅子を置いている。
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