全日本プロレス退団から失踪まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/14 08:13 UTC 版)
「石澤常光」の記事における「全日本プロレス退団から失踪まで」の解説
全日本退団後はリキプロなどにスポット参戦したのち渡米。新日本ロス道場でコーチとして後進の指導に当たりながら、アメリカのインディー団体、ROHに「ドラゴン・ソルジャーB(Bは「バカ」の意)」なるリングネームで参戦。アメリカのファンに通じるはずもない「ホーッ!」などの中西の真似を披露。同団体ではジュニアヘビー級のトーナメントで優勝している。この時期、海外では他にヨーロッパのプロレス団体にもスポット参戦している。 2005年4月、長年に渡って犬猿の仲だった中西と電撃和解を果たし、永田と藤田和之も加えて「チームジャパン」を結成。さらにTJ内で中西とお揃いの迷彩コスチュームのタッグチーム「ワイルドソルジャーズ」も結成。これを機にヘビー級戦線にも本格参戦するようになり、同年夏のG1 CLIMAXに初出場を果たした。決勝トーナメント進出はならなかったが、予選リーグで川田利明に勝利を収めた。 2006年3月、総合格闘技大会「HERO'S」に急遽石澤として参戦。秋山成勲を相手に、約4年3か月ぶりに総合格闘技の試合を行うもギブアップ負け。同年10月に再度HERO'Sへ出場し、カーロス・ニュートンと対戦するも22秒でTKO負け。ただし、石澤は「試合を止めるのが早い」と抗議した。さらに同年12月のK-1 PREMIUM 2006 Dynamite!!では金泰泳と対戦するがハイキックでKO負けを喫した。この試合以降、石澤としてもカシンとしても試合をせず、ほぼ完全に消息を絶ったため、引退の声も強く囁かれた。事実、東京スポーツのコラムにおいて、「石澤はもう歳だろう」などと述べ、総合からの撤退を示唆している。
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全日本プロレス退団から失踪まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 19:13 UTC 版)
「ケンドー・カシン」の記事における「全日本プロレス退団から失踪まで」の解説
全日本退団後はリキプロなどにスポット参戦したのち渡米。新日本ロス道場でコーチとして後進の指導に当たりながら、アメリカのインディー団体、ROHに「ドラゴン・ソルジャーB(Bは「バカ」の意)」なるリングネームで参戦。アメリカのファンに通じるはずもない「ホーッ!」などの中西の真似を披露。同団体ではジュニアヘビー級のトーナメントで優勝している。この時期、海外では他にヨーロッパのプロレス団体にもスポット参戦している。 2005年4月、長年に渡って犬猿の仲だった中西と電撃和解を果たし、永田と藤田和之も加えて「チームジャパン」を結成。さらにTJ内で中西とお揃いの迷彩コスチュームのタッグチーム「ワイルドソルジャーズ」も結成。これを機にヘビー級戦線にも本格参戦するようになり、同年夏のG1 CLIMAXに初出場を果たした。決勝トーナメント進出はならなかったが、予選リーグで川田利明に勝利を収めた。 2006年3月、総合格闘技大会「HERO'S」に急遽石澤として参戦。秋山成勲を相手に、約4年3か月ぶりに総合格闘技の試合を行うもギブアップ負け。同年10月に再度HERO'Sへ出場し、カーロス・ニュートンと対戦するも22秒でTKO負け。ただし、石澤は「試合を止めるのが早い」と抗議した。さらに同年12月のK-1 PREMIUM 2006 Dynamite!!では金泰泳と対戦するがハイキックでKO負けを喫した。この試合以降、石澤としてもカシンとしても試合をせず、ほぼ完全に消息を絶ったため、引退の声も強く囁かれた。事実、東京スポーツのコラムにおいて、「石澤はもう歳だろう」などと述べ、総合からの撤退を示唆している。
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