全日本プロレス時代 - 大木金太郎の管理時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 08:10 UTC 版)
「アジアヘビー級王座」の記事における「全日本プロレス時代 - 大木金太郎の管理時代」の解説
1976年2月、新日本プロレスがヘビー級とタッグのアジア王座新設を発表すると、対抗策として全日本プロレスは日本プロレス版のアジアヘビー級王座とアジアタッグ王座の復活を計画。日本プロレス崩壊時の社長だった芳の里がNWAに申請する形で、両王座の継続および名称復活の許諾を得たことを発表した。シングルのヘビー級王座については最終保持者(第4代王者)である大木(大木は全日本離脱後新日本に参戦していたが、この前年から再び全日本に参戦していた)による継続保持が認められ、同年3月に韓国のソウルでグレート小鹿の挑戦を受け、約3年半ぶりに復活第1戦が行われた。その後、大木は9月に全日本のリングでワルドー・フォン・エリックと防衛戦を行うが、無効試合で一旦は王座預かりとなり、10月に改めて行われた王座決定戦でワルドーを破り第5代王者となる。以降、ジャンボ鶴田と馬場を相手に2度の防衛戦を行った後、1977年10月に馬場のPWFヘビー級王座とのダブルタイトル戦に敗れて王座を失った。第6代王者となった馬場はPWF王座を優先させ、アジア王座は一度も防衛戦を行わず、正式な説明もなく再び休眠状態となった(なお、1978年6月1日の馬場とキラー・トーア・カマタのPWF戦の実況で「馬場は(インターナショナル・タッグ王座と合わせて)三冠王」「三冠になったばかりだが(この試合でカマタに敗れたことにより)再び二冠に戻った」との倉持隆夫のコメントがある)。 1981年、全日本が大木の返上を受けてインターナショナル王座復活を発表した際、それと交換する形で大木はアジア王座の管理権を譲渡された。同年5月、韓国でタイガー戸口との王座決定戦を開催、勝利した大木が第7代王者となった。翌1982年5月、大木は韓国で阿修羅・原の挑戦を受けて王座を防衛。これが最後の防衛記録で、大木の引退とともにアジアヘビー級王座は空位のまま事実上の消滅状態となった。
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