全日本プロレス移籍
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「ラッシャー木村」の記事における「全日本プロレス移籍」の解説
UWF離脱直後、全日本プロレスの1984年世界最強タッグ決定リーグ戦にジャイアント馬場のタッグパートナーとして参戦。馬場のパートナーは開幕戦まで事前に発表されず「ミステリアス・パートナー」とされていた。馬場と元国際のエースである木村のタッグは注目を浴びたが黒星が先行する結果となる。そして12月8日の愛知県体育館での対鶴田&天龍源一郎戦の試合中、突然木村が馬場にラリアットを放ち造反。国際の残党である剛竜馬、鶴見五郎も乱入し木村に加勢。試合放棄となり馬場とのタッグはリーグ戦途中で空中分解する事態となる。これら一連の動きを木村は「(プロレス人生で)自分の意思で動いたのは、これが初めてだった」と述懐した。なお、UWFを離脱後新日本プロレスも木村の獲得に動いたが、木村は全日本プロレスを選択している。これについて、後に和田京平が木村になぜ全日本を選択したのか聞いたところ、木村曰く「新日本は会社の重役が話に来た。全日本は馬場さんが料亭に招いてくれて、直接誘ってくれた。となればどちらを選ぶかは明白でしょう」と答えたという。 以降、鶴見、剛、アポロ菅原、高杉正彦と「国際血盟軍」を結成。全日本軍と敵対するアングルが組まれ、試合後に馬場を挑発するマイクパフォーマンスが次第に注目を集める。1985年6月21日の日本武道館大会では馬場が持つPWFヘビー級王座に挑戦するも敗退。またジャパンプロレス勢の参戦など日本人選手の過剰により剛、菅原、高杉は全日本を解雇され、以降は鶴見とのタッグで活動。ヒットマンのキャラクターで一匹狼となった同じく国際の残党である阿修羅・原とも一時的に共闘した。 1988年8月29日、武道館にて馬場とのシングル戦に敗れるも、試合後のマイクで「お前のことをな、アニキと呼ばせてくれ」とアピール。このマイクがきっかけとなり同年の世界最強タッグ決定リーグ戦に馬場との「義兄弟コンビ」で出場。馬場50歳、木村47歳のベテランチームであったが3位の好成績を収め、翌1989年2月には義兄弟コンビで鶴田&谷津嘉章が持つ世界タッグ王座にも挑戦した。その後は体力の衰えからミッドカード戦線での活動を余儀なくされフェイスターンし、馬場と共に1989年春のスーパー・パワー・シリーズより「ファミリー軍団」を結成。悪役商会(永源遙、大熊元司、渕正信ら)を相手にユーモラスな前座試合を展開し、試合後のマイクパフォーマンスも含め全日本のコンセプト「明るく・楽しく・激しいプロレス」の「明るく・楽しく」を担った。 だが、1989年11月29日、札幌中島体育センターにて世界最強タッグリーグ公式戦として行われた馬場&木村vs天龍&スタン・ハンセン戦では、入場時の天龍の攻撃により馬場が昏倒したため、10分以上にわたって木村ひとりが天龍とハンセンの攻撃を流血しながらも真正面から受け続けるという国際在籍時代や猪木との抗争時代を髣髴とさせる「激しい」試合を展開。また1990年春のチャンピオン・カーニバルでは天龍との抗争が繰り広げられ、3月31日の富山市体育館大会のタッグ戦(木村&寺西vs天龍&川田利明)ではゴング前、天龍に毒霧を浴びせるという異例な攻撃を見せたこともある(次期シリーズで天龍とのシングル戦が構想されていたが、天龍の全日本退団により幻に終わっている)。 1992年4月18日、後楽園ホールで行われたファン感謝デー大会では、メインイベント「4対4サバイバル・タッグマッチ」に欠場した田上明の代理として鶴田軍の一員で急遽出場。既に50歳を過ぎていたが、超世代軍の三沢光晴、川田利明、小橋健太と対戦し往年の激しいプロレスを展開した。 ファミリー軍団結成時にはマイクパフォーマンス人気によるユニークなキャラクターが買われ、土曜深夜の『三宅裕司のいかすバンド天国』(TBS)にレギュラー審査員として出演。一人だけピンマイクではなく、手持ちのマイクで喋っていた。国際時代の寡黙なブルファイターのイメージとは180度異なるコミカルな存在となったが、彼のマイクパフォーマンスは桑野信義も『志村けんのだいじょうぶだぁ』で物まねをするなど、プロレス界の名物として定着した。
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