全日本プロレス退団後
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「ザ・グレート・カブキ」の記事における「全日本プロレス退団後」の解説
1990年8月、メガネスーパーによって設立されたSWSに入団。以降、団体エース格の天龍源一郎が率いる『レボリューション』の所属選手兼ブッカーとして活動する。SWS崩壊後は7月にWARの旗揚げメンバーとして名を連ねるが、直後に新日本プロレスと契約し、同時期にWARからオファーがあったスーパー・ストロング・マシンとトレードする形で移籍。その際、小林邦昭の病欠による戦力補強として同年11月に越中詩郎率いる反選手会同盟の一員となった。これは新日本本社側の判断であり、反選手会同盟への加入は会見直前までカブキ本人すら把握していない事であった。後輩にあたり、これまで同じリングで戦ってきた越中や小林は当初不安を隠せなかったが、豊富なキャリアに裏付けされた試合巧者ぶりを存分に発揮し、当時のメンバーは異口同音に「カブキさんの加入は正解だった。」と称賛を送っている。 1993年5月24日、WARの大阪府立体育会館大会において、カブキの「息子」としてWCWでデビューしたグレート・ムタとの「親子対決」が実現。実況アナウンサーから「地獄絵図」と形容される程の凄惨な試合を展開。結果はムタがレフェリーの海野宏之にイスで暴行を加えたことによるカブキの反則勝ち。試合には勝ったものの、カブキは試合後血まみれでムタの名を叫び「My soooon! I kill you son of a bitch...」とマイクで続けた。同年6月15日には新日本プロレスの日本武道館大会において「二度目の親子対決」(IWGPヘビー級選手権試合)が実現。ムタの猛攻に額を割られカブキは大流血となったが、血管が切れてしまい額から勢いよく噴き出す血を倒れているムタの体にかけるなどカブキ独自の世界観を体現。マサ斎藤は「口からは毒霧、額からは血が…」と語るに至った。結果はカブキが海野レフェリー(当時、WAR)に毒霧を吹きかけ、さらに止めに入った田山正雄レフェリー(当時、新日本プロレス)にもイスで暴行を加えたことによるカブキの反則負け。くしくも前回の親子対決とは立場が逆転した試合結果に終わった。試合後、カブキは「Hey! my son...look me father!? I'm tough I'm tough!! My son listen to me!! listen to me...next time next time! I kill you」とマイクアピールを行い、あまりの過激さから試合はタイトル戦にもかかわらずテレビ中継が中止となり、ビデオソフト化による放映となった。 1994年1月22日、一度だけザ・グレート・カブキとしてWWFに参戦。ロードアイランド州プロビデンスにて開催された『ロイヤルランブル』のランブル戦に出場した(22番目に登場したが、レックス・ルガーにリングに落とされ15人目の退場者となる)。この大会では、セミファイナルで行われたヨコズナ対ジ・アンダーテイカーのカスケット・マッチにも、ヨコズナに加担するヒール陣営の一員として乱入し、アンダーテイカーを急襲した。なお、WWF(WWWF)にはカブキに変身する以前の1978年5月22日にも、ヨシノ・サトとしてマサ斎藤とのコンビでフロリダ地区からゲスト参戦しており、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにて、ドミニク・デヌーチ&ディノ・ブラボーが保持していたWWWF世界タッグ王座に挑戦したことがある。 新日本プロレスとの契約満了後はインディー団体を転戦するようになり、1995年9月には石川敬士が興した新東京プロレスに出場。1996年に設立が発表された「インディー統一機構(ファイティング・フォー・フューチャー、略称:FFF)」にも主力選手としての参戦が予定されていたが、FFFは旗揚げ前に頓挫。 1997年からはIWA・JAPAN所属となるが、1998年6月に現役引退を表明。引退に際してムタの代理人である武藤敬司が「パパと一緒に試合がしたい」とコメント。そして同年8月の新日本プロレス大阪ドーム大会でカブキとムタの「親子タッグ」が実現。後藤達俊&小原道由と対戦し、カブキが後藤からピンフォール勝ちを収める。試合後、ムタは控室に引き上げる際「I miss daddy...I love kabuki kabuki!!」と声を上げ、さらに「I miss daddy I love you I miss you I love you!!」とムタなりにカブキの引退に際してのコメントを送っている。 同年7月20日には、漫画『プロレス・スターウォーズ』の中でしか実現していなかったケンドー・ナガサキとの「オリエンタル・ミステリー・タッグ」で後楽園ホールのメインイベントに出場した。
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