ザ・グレート・カブキとして
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「ザ・グレート・カブキ」の記事における「ザ・グレート・カブキとして」の解説
もともとは正統派の堅実なファイトスタイルであったが、アメリカ遠征中の1981年初頭、フリッツ・フォン・エリックが主宰していたテキサス州ダラスのWCCWにおいて、マネージャー兼ブッカーのゲーリー・ハートのアイデアで、歌舞伎役者をモチーフにしたオリエンタル・ギミックのペイントレスラー、ザ・グレート・カブキ(The Great Kabuki)に変身。1981年1月10日、ザ・スポイラーを相手にカブキとしてのデビュー戦を行った。当初、ゲーリー側の思惑ではこのギミックは3ヶ月程で、次の大物を呼ぶまで繋ぎ役でしかなかった。 なお、カブキと名乗るレスラーはアメリカでは1970年代初頭にも存在していたが(正体はトーキョー・トムとしても活動していたフィリピン系のレイ・ウルバノ)、後の活躍によりこのリングネームは米良の代名詞となる(初代の「ザ・カブキ」と米良は1972年ごろ、デトロイトでタッグを組んだことがあるという)。また、ペイントレスラーの元祖とされているが、カブキ以前にもペイントを施して試合を行うレスラーはいた。しかし、コンスタントにペイントレスラーとして活動し、流行のきっかけを作ったのはカブキであり、かつてのパートナーであるマサ斎藤はワールドプロレスリング解説時に「僕も昔、顔に塗ってこういうスタイルでファイトしてました。外人には受けるんですよね。カブキ以前にもいたことはいるんですけどね。でもやっぱり彼が元祖ですよ」と語っている。 般若の面を付けた連獅子姿や鎖帷子に日本刀を携えた忍者スタイルなどをコスチュームに、ヌンチャクを操り毒霧を吹く東洋の怪奇派ヒールとして異色の悪党人気を博し、WCCWでは1981年にチャン・チュンこと桜田一男と組んでケビン・フォン・エリック&デビッド・フォン・エリックからテキサス版のNWA世界タッグ王座を奪取。同年9月25日にはケリー・フォン・エリックを破りNWAアメリカン・ヘビー級王座を獲得している。 以降もWCCWを主戦場に、ビル・ワット主宰のMSWA、ジム・バーネット主宰のGCW、ジム・クロケット・ジュニア主宰のMACWなど各地の激戦区にも参戦して、アンドレ・ザ・ジャイアント、ブルーザー・ブロディ、ハーリー・レイス、ダスティ・ローデス、リック・フレアー、トミー・リッチら全米のトップスターと対戦。MSWAでは1981年10月にボブ・ループからルイジアナ・ヘビー級王座を奪取し、GCWではヒール時代のロディ・パイパーやジェイク・ロバーツとも共闘。 1982年12月25日にはGCWの本拠地アトランタのオムニ・コロシアムにてマスクド・スーパースター&スーパー・デストロイヤーをパートナーに、アンドレ、スタン・ハンセン、ティト・サンタナ組と6人タッグマッチで対戦した。WCCWでは1983年1月3日にアル・マドリルからTV王座を、1月14日にはバグジー・マグローからブラスナックル王座をそれぞれ奪取。MACWでは同年5月23日にジョー・ルダックを下してNWAミッドアトランティックTV王座を獲得、11月24日の『スターケード』第1回大会においてチャーリー・ブラウンに敗れるまで戴冠した。 その間の1983年2月、ジャイアント馬場から帰国命令が出たため、全日本プロレスに凱旋帰国。当時の全日本プロレスのブッカーだった佐藤昭雄の進言で、アメリカからの逆輸入の形でカブキのギミックのままリングに登場し、2月11日に後楽園ホールにてジム・デュランを破り帰国第一戦を飾る。以降、アメリカでの活躍もあって日本でもファンの支持を獲得。専門誌だけでなく一般誌にも取り上げられ、子供向けの印刷媒体にまで登場するなど、馬場やジャンボ鶴田にも引けを取らない人気を集めた。同年12月12日には蔵前国技館大会(『'83世界最強タッグ決定リーグ戦』最終戦)のセミファイナルにおいて、アメリカでも対戦していたフレアーの保持するNWA世界ヘビー級王座に挑戦した。 しかし本人にとっては、待遇面においては決して満足できる扱いではなかったという。「若手のコーチ役を請け負っているから」という理由で馬場が提示したギャラアップ額が「1試合100円増(後に500円)」だったというエピソードのほか、カブキの凱旋帰国シリーズがTV放映権料を除く興行収益で2月シリーズでは全日本プロレス設立以来初の黒字(馬場が欠場していたのにも関わらず)になったり、一般マスコミからのTV出演依頼が殺到したりしたため、馬場を含む先輩レスラー達の嫉妬を買ってしまい、配給会社から名指しで出演を依頼された映画『カランバ』のプロモーション(映画CMを真似て、腕にロープを巻き、ジープで引っ張ってどこまで耐えられるか、というイベント)においても、出演に関して直前までもめたことなどが明かされている。しかしながら、馬場はカブキの技能を高く評価し、若手選手に「カブキの試合をよく見ておけ」などと言っていたといわれ、カブキも「プロレスが一番巧いと思ったのも馬場さんだ」と回顧するなど、レスラーとしてはお互いを認め合っていた。 その後、ダラスのWCCWと全日本プロレスを行き来する形となり、1985年頃からは日本に定着しつつあったが、長州力率いるジャパンプロレスの参戦や、WCCWが新日本プロレスと提携したことなどもあって扱いはさらに悪くなり、一時期は造反してテリー・ゴディと共闘するなど外国人サイドに加わるが、ギャラはゴディに比べて格段に低かったと言われる[要出典]。以降、長州らの新日本復帰前後に全日本の正規軍に戻される形となり、天龍同盟との試合などで再度脚光を浴びたが、1990年7月30日に全日本プロレスを退団。この直前の7月19日『サマー・アクション・シリーズ』武生大会では、鶴田と組んでゴディ&スティーブ・ウィリアムスから世界タッグ王座を奪取していたが、防衛戦を行わないまま返上となった。これには理由があり、当時既にSWSへの移籍を極秘裏に成立させていたカブキは同じ全日本からの退団者の監視役として、1番最後に辞める事としていた。その間に相次ぐ選手離脱を防ぐ為、馬場社長が複数年契約を提示すると同時に締結した者には金を渡しており、カブキには世界タッグ王座への挑戦権もちらつかせてきた。長年冷や飯を食わされてきたカブキは報復の意を込めてあえてこれを承諾し、タッグ王座を獲得した翌々日に馬場へ辞表を突きつけた。その際、「だったら渡した金は返せ。」と言われた為、ギャラも返済している。
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