ザ・グレート・カブキ以前
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「ザ・グレート・カブキ」の記事における「ザ・グレート・カブキ以前」の解説
生まれは宮崎県だが、中学2年生のときに愛知県知立市に移住。学生時代は水泳選手として活躍したほか、柔道にも打ち込んでいた。 1964年、日本プロレスに入団。同年10月31日、宮城県石巻市の石巻市立石巻小学校特設リングにおいて、山本小鉄を相手にデビュー。本名の米良明久を名乗っていたが、程なくして高千穂 明久(たかちほ あきひさ / 出身地にちなんで先輩レスラーの芳の里が「高千穂」と名付けた)のリングネームを与えられた。 1970年9月、アメリカ遠征に出発。初期は日系移民の多いロサンゼルス地区にて、タカチホ(Takachiho)としてベビーフェイスのポジションで活動していたが、1971年2月のデトロイト地区への転戦を機に、師匠格の芳の里にあやかったヨシノ・サト(Yoshino Sato)と名乗ってヒールに転向。日系アメリカ人のミツ荒川のパートナーとなり、同じ五大湖エリアのNWFにも進出、1972年1月19日にドミニク・デヌーチ&トニー・パリシを破ってNWF世界タッグ王座を獲得している。 1972年9月、日本プロレス崩壊の危機に際し帰国。坂口征二と組んで『NWAタッグ・リーグ戦』の第3回大会に出場し、決勝戦でラリー・ハミルトン&ジョー・ハミルトンを破って優勝を果たす。翌1973年3月8日、ジョニー・バレンタインを下しUNヘビー級王座を獲得(この試合は、NETテレビの『NET日本プロレス中継』における最後の放映試合でもあった)。4月19日にはキラー・カール・クラップを下して初防衛に成功したが、同月に日本プロレスが崩壊し、王座を返上して全日本プロレスへと移籍(正式には1976年3月31日までは、日本テレビと3年契約を結んだ上、全日本へ派遣されていた。同年4月1日付で全日本正式所属選手となる)。 同年10月、ヒト・トージョー(Hito Tojo)のリングネームでヒロ・トージョーことサムソン・クツワダと共にオーストラリア遠征に出発。ヒロ&ヒトの「トージョー・ブラザーズ」を結成し、マーク・ルーイン&スパイロス・アリオンからNWA豪亜タッグ王座を奪取した。 全日本マットでもクツワダとの「豪州遠征コンビ」で活動し、1976年10月21日にジェリー・オーツ&テッド・オーツを破りアジアタッグ王座を獲得。以降、覆面タッグチームのザ・クルセーダーズ(ビリー・レッド・ライオン&デューイ・ロバートソン)やグレート小鹿&大熊元司の極道コンビを相手に2度の防衛戦を行い、1977年6月16日に極道コンビに敗れるまで戴冠した。同年12月には国際プロレスのマイティ井上をパートナーに『世界オープンタッグ選手権』に出場している。また、1977年の韓国遠征ではスーパーX(Super X)なる覆面レスラーに変身、5月22日の仁川市大会において、大木金太郎(キム・イル)が保持していたインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦した。 その後は全日本プロレスを離れてアメリカ・マットを主戦場とするようになり、ミスター・サト(Mr. Sato)またはタカチホのリングネームで南部や中西部などNWAの主要テリトリーを日本人ヒールとして転戦。フロリダではミスター・サイトーとタッグチームを組み、1978年3月にペドロ・モラレス&ロッキー・ジョンソンからNWAフロリダ・タッグ王座を奪取、ジャック・ブリスコ&ジェリー・ブリスコの兄弟チームともタイトルを争った。1980年はセントラル・ステーツ地区にて、4月17日にパク・ソンと組んでボブ・ブラウン&ディック・マードックを破りNWAセントラル・ステーツ・タッグ王座を獲得、6月18日にブラウン&パット・オコーナーに奪還されるも、3日後の6月21日にはキラー・カール・コックスとのコンビで王座に返り咲いた。
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