四天王プロレスとは? わかりやすく解説

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四天王プロレス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/11 13:18 UTC 版)

四天王プロレス(してんのうプロレス)は、1990年代に日本のプロレス団体全日本プロレスに所属するプロレス四天王と呼ばれたプロレスラーの三沢光晴川田利明田上明小橋健太が中心となって行った試合スタイル。

リングアウトや反則などプロレスが持つ不透明な要素を排除してピンフォールによる決着のみを目指し、相手を立ち上がれない状態に追い込むために脳天から垂直に落下させる技や高角度でリングから場外に落とす技を多く繰り出した。四天王プロレスは全日本プロレスが興行の目玉であった鶴龍対決[† 1]を失った状況下で成立し、プロレスファンからの熱狂的な支持を集めた。その影響はプロレス界全体に及び、多くの団体が試合において危険な技を応酬させるようになったともいわれ功罪がある[1]

誕生とその経緯

四天王プロレスと呼ばれる試合スタイルが初めて行われたのは、1993年7月29日日本武道館三沢光晴川田利明が対戦した全日本プロレス三冠ヘビー級王座タイトルマッチであったといわれる[2]。この試合で三沢は、川田を立て続けに4回スープレックスで投げてから[† 2]ピンフォールによる勝利を収めた[2]

当時の全日本プロレスでは天龍源一郎が退団し、さらにジャンボ鶴田が内臓疾患により第一線を退いたことにより、三沢が実質的なエースとなっていた[3]。全日本プロレスでレフェリーを務めた和田京平によると、この時期に社長のジャイアント馬場はプロレスの理想像を追求し、三沢に川田、小橋健太田上明を加えた超世代軍と呼ばれる若手レスラーに、自らの理想とする試合形式、すなわち凶器攻撃、流血、リングアウト・反則・ギブアップによる決着のない、ピンフォールによってのみ決着するスタイルをとるよう要求した。その結果、三沢らは3カウントが入る寸前でフォールを返しながら頭部から相手を落とす大技を繰り出し続け、相手を「もう立てない」という状態に追い込んでピンフォール勝ちを収めるという筋立てで試合を行うことを余儀なくされた[4]1993年に川田が超世代軍を離脱すると三沢たちはプロレス四天王(後に秋山準が加わり「五強」)と呼ばれるようになった[5][6][7]。プロレス四天王が行う「限界を超えるような技の攻防戦」は四天王プロレスとして認知され[2]、プロレスファンから熱狂的な支持を集めた[8]

週刊ゴング元編集長の小佐野景浩は、ジャイアント馬場によってリングアウトや反則による決着ばかりでなく舌戦によって注目を集めることも禁止されたため、試合のレベルを高めていかざるを得なかったのだと指摘している[9]。プロレスラーの渕正信は、「鶴龍対決[† 1]を超える」という目標を達成するためには四天王プロレスのようなスタイルをとるしかなかったと述べている[10]。プロレスラーの垣原賢人は、トップの人数が少なくライバル団体の新日本プロレスに比べ話題性に乏しい全日本プロレスにとって、試合内容を高めることが唯一の対抗手段であったと述べている[11]。相手を頭部から落とす大技はリング上だけでなく、エプロンから場外めがけて放たれることもあった[12]

進化と波及

1990年2月から全日本プロレスに参戦し、パートナーのテリー・ゴディと共にタッグ屋のイメージが強かったスティーブ・ウィリアムスが、1993年夏、ゴディの疾患による長期欠場をきっかけにシングル・三冠戦線に参入。それまでフィニッシャーとしていたオクラホマ・スタンピードに代わり「デンジャラス・バックドロップ(殺人バックドロップ)」と呼ばれる相手を後頭部から急な角度で落とすバックドロップをフィニッシャーとして使い始めると、三沢らはそれに対応する形で受け身の技術を進化させ、四天王プロレスで用いられる技はますます高度なものとなっていった。四天王プロレスは他のプロレス団体にも影響を及ぼし、プロレス界全体で技の過激化が進んだ[13]。小佐野景浩によると、プロレスラーはこのようなスタイルのプロレスが肉体に与えるダメージを認識しながらも、「そこまでやらなければお客さんが納得しない」という理由で過激化の流れを止めることができなかった[14]。四天王プロレス以降、それまで地味な技しか行われなかった前座の試合でも大技がみられるようになった[15]。こうした現象について、「四天王プロレスの誕生によって"大技の連発、頭から落とすプロレスが主流になってしまった"」と批判する者もいる[16]。これについてザ・グレート・カブキは、「受け身を完全に自分のものにした上で、お互いに相手の攻めと受け身の技術を信頼しているからこそ成り立った」四天王プロレスと、四天王プロレスより後の、相手の受け身の技術を考慮に入れない「自分がカッコよく思われればいいなあ」という自己満足からくる危険なプロレスとは全く違うと述べている[17]。渕正信も、四天王プロレスとは互いの技術に対する信頼感と「不透明な試合は絶対にやらない」というファンからの信頼を基底とする、「一つの技を大切にして、観客の喜びとか昂揚感とか様々な感情を呼び起こすプロレス」であって、四天王プロレスを構成する要素の一つに過ぎない「頭から落とす大技」の一言で片づけられるのは心外だと述べている[18]

終焉

1990年代半ば頃になると三沢たちプロレス四天王にも次第にダメージが蓄積し、「こんな試合をやっていたらいつ体が駄目になるかわからない」と口にするようになった[19]。力任せに相手を投げる外国人レスラーとの試合は特に厳しいものであったが、シリーズあたりのプロレス四天王のギャランティーは外国人レスラーよりも低く、三沢らは報酬が不当に低いのではないかという不満を覚えるようになった[20]。全日本所属のプロレスラーの間にはジャイアント馬場の夫人である馬場元子に対する不満もくすぶっており、やがて所属プロレスラーの大量離脱と三沢によるプロレスリング・ノア旗揚げへと繋がった[21]。1990年代後半に三沢が全日本プロレスにおける試合の運営を取り仕切るようになるとピンフォールによってのみ決着するスタイルは崩れ、リングアウトやギブアップで決着する試合が出るようになった[22]。さらに三沢はジャイアント馬場が禁じた、舌戦などリング外での話題作りも容認した[23]。小佐野景浩は、四天王プロレスを終わらせたのは三沢であり、その動機には「俺がやるわけじゃないから」と言って過酷なプロレスをするよう仕向けたジャイアント馬場や馬場元子に対する意地があったと指摘している[23]

ノア旗揚げ後

2000年6月13日、三沢は50余名の選手・社員と共に全日本プロレスを退団。プロレスリング・ノアを旗揚げした。この大量離脱に川田利明は従わなかったが、ノア旗揚げ後も三沢、田上、小橋、秋山らを中心として、GHCヘビー級王座をめぐり四天王プロレスと全く変わりない過激なレスリングを展開した。かつて四天王プロレスにおいてチャンピオンカーニバルが選手に大きな負担を与えたため、ヘビー級のシングルリーグ戦は開催しない方針を定めるなど、全日本プロレス時代に比べ頻度は減少したものの、コーナートップから場外へ落とすなど、試合はさらに過激化を遂げた。ノア旗揚げの時点で三沢、小橋はそれぞれ首や膝に深刻な障害を抱えており、小橋は治療のため長期欠場を繰り返している。一方の三沢は社長業の傍ら選手業も一切休むことはなかったが、首に関節ねずみを発症するなど、日常生活に支障をきたすまでであったとされる。

三沢光晴の死

2009年6月13日、三沢は試合でバックドロップを受けた際に頸髄離断を発症して死亡した。

小佐野景浩や日本の複数のプロレス団体でリングドクターを務める林督元によると、技自体は危険なものではなく受け身もとれており、三沢の死は事故であった[24]が、プロレス関係者やファンの中からは過激な試合を繰り返したことで蓄積したダメージによって引き起こされたものであり[25]、「頭から落とす四天王プロレスの帰着点」であると捉える者が少なからず現れた[26]

また、元プロレスラーの前田日明は上記の三沢の死を受けて「危険な技の応酬を年間百試合以上繰り返す内に、選手もレフェリーも技に対する危機意識が薄れてしまった」「プロレスにおけるストーリー的要素(アングルギミック)を構築出来る選手が少なくなり、観客を満足させるために危険な技を繰り出すしか無い」といった現代のプロレスが抱える問題点を指摘し、「これから(三沢の事故死以降)も同じような事故は起こりうる」と警鐘を鳴らしている[27]

脚注

注釈

出典

  1. ^ 現場責任者・渕正信が語る四天王プロレスの深層”. Sportsnavi (2009年9月29日). 2018年10月31日閲覧。
  2. ^ a b c d Gスピリッツ20、8頁。
  3. ^ 泉2010、16-18頁。
  4. ^ 和田2004、200-201・208-209頁。
  5. ^ 日刊スポーツ追悼特集号、9面
  6. ^ 三沢2000、103頁。
  7. ^ Gスピリッツ13、11頁。
  8. ^ 泉2010、18-19頁。
  9. ^ 小佐野2006、91-92頁。
  10. ^ Gスピリッツ13、13頁。
  11. ^ 泉2010、41頁。
  12. ^ 泉2010、19・38頁。
  13. ^ 泉2010、44-45・47頁。
  14. ^ 泉2010、45頁。
  15. ^ 泉2010、48-49頁。
  16. ^ Gスピリッツ13、12頁。
  17. ^ Gスピリッツ13、38-39頁。
  18. ^ Gスピリッツ13、12-13頁。
  19. ^ 和田2004、218頁。
  20. ^ 和田2004、219-222頁。
  21. ^ 和田2004、222-225頁。
  22. ^ Gスピリッツ20、48頁。
  23. ^ a b Gスピリッツ20、55頁。
  24. ^ 泉2010、27-28頁。
  25. ^ 泉2010、44頁。
  26. ^ Gスピリッツ13、6頁。
  27. ^ 前田日明から見た「三沢光晴の死、そしてプロレスの未来」 日刊サイゾー 2009年6月25日

参考文献

関連項目


プロレス四天王

(四天王プロレス から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/15 04:57 UTC 版)

プロレス四天王(プロレスしてんのう)はプロレスにおいては、かつての全日本プロレスに入門しジャイアント馬場の愛弟子であった三沢光晴川田利明小橋建太田上明の4人を指す。 後に秋山準を加え、五強とも称された。彼らは「馬場の遺産」とも時に呼ばれる。

彼らの前後にもファンやメディアから“四天王”として高く評価されていたり、ユニットとして“四天王”を名乗るレスラーが存在する(後述)。

詳細

成立過程としては、1980年代後半の馬場の第一線からの撤退、1990年天龍源一郎らの退団によりピンチとなった全日本プロレスが、リング上の攻防の激しさを売りにしたことから始まっている。

当初はエースであるジャンボ鶴田スタン・ハンセンら外国人レスラーが、彼らの厚き壁となっていたが、鶴田の長期療養によりスター不在となり、超世代軍を中心とした若手世代同士をメインイベントで戦わせる、全日本では新しい試みとなった。それまでは馬場のプロモーターとしての優れた働きから、「日本人vs外国人」の図式がメインであったが、1980年代にWWFレッスルマニアを成功させたことを皮切りにアメリカンプロレスはテレビ主導の興行形態となり、大物外国人レスラーの招聘が困難になり日本人同士による対戦を主体とする必然性が迫られたこともまた四天王プロレスの契機となっている。

脳天から叩き落とす危険な技の応酬のスタートは1993年スティーブ・ウィリアムスの小橋との三冠挑戦者決定戦での殺人バックドロップがきっかけであるとされる。四天王プロレスの特徴として、30分を越す試合時間、カウント2.9連続の攻防、ハードヒットする打撃、脳天直下式・高角度式の投げ技の多用、そうした大技を食らっても意識朦朧ながらすぐさま立ち上がり、相手に一撃食らわせてからダブルKO状態となる、などの試合形式は、従来のプロレス手法を覆すものであり、日本武道館を初めとする首都圏でのビッグマッチは毎回のように超満員の観客が詰め掛けた。彼らの活躍やファイトスタイルは話題を呼び、全日本が最も繁栄・全盛となった時期であるといわれる。また、そのスタイルは、「四天王プロレス」と称され、プロレス界全般にも多大な影響を与えた。

そうした試合スタイルであったため、ルー・テーズからタフマンコンテストと比喩されたほか[1]、グラウンドレスリングの欠如、技のインフレ・過激化、焼き畑農業等と国内外から批判されることもあった。その過剰な攻防のエスカレートを危惧し、安易に四天王プロレスを賛美する観衆、そして安易に四天王プロレスの真似事をする他団体をいさめる論評も散見された(他団体で複数の死者が出てくる時期にあたる)。ただし練習生時代に徹底的に受身を叩き込まれる全日本の選手だからなせる業、また実力が拮抗している者同士だからこそ成立しうる試合スタイルであるとする評価もある。

プロレス四天王は4人とも実力は拮抗していたが、その中でも川田、田上、小橋が特に象徴的存在としてライバル視した選手が三沢光晴であり、三沢は1996年5月24日・札幌中島体育センター大会で田上にシングル戦でフォール負けを喫するまで、他の3選手にシングル戦でフォール負けを喫することはなかった。

レスラーとしてのタイプはそれぞれ異なるが、所属組織が分断されてしまった現在も、馬場の「王道プロレス」「純プロレス」の部分はそれぞれに継承されている。分裂以降のノアでは全日に残留した川田の代わりに、かつて「五強」とされた秋山を加えて「プロレス四天王」とする場合もある。また、ノア旗揚げ後は低迷していた田上が2005年GHCヘビー級王座を獲得するまで、三沢、小橋、秋山に高山善廣を加えて新四天王とする向きも一部であった。

三沢は2009年に試合中の事故により死去、小橋は怪我による長期離脱を経て2013年5月に引退、田上は三沢の死後にノアの社長に就いて以降は最前線からは完全に退き、2013年12月に引退した。2023年現在の時点で引退を表明していないのは川田ただ一人であるが、その川田も2010年後半から10年以上レスラーとしての活動は休業の状態が続いている。

1992年に鶴田が肝炎で戦線離脱し、この4人が全日のエースになり四天王と呼ばれるようになって以降、この4人をシングルですべて倒したのはスタン・ハンセンスティーブ・ウィリアムスベイダーのみであり、日本人選手は一人もいない。

闘魂三銃士との関係

馬場と猪木が袂を分かった後に「馬場vs猪木」の対戦が実現しなかったことからも、プロレスファンからは双方間によるより多くの対戦が待ち望まれた。彼らの対決は、

  1. 川田については、蝶野正洋とのタッグ戦が2000年、2001年に、シングル戦が2005年に、武藤敬司とのシングル戦および多くのタッグ戦が2001年以降に、橋本真也とのタッグ戦が2003年に、シングル戦が2004年に実現
  2. 三沢については、橋本とのタッグ戦が2001年に、蝶野とのシングル戦が2002年に、武藤とのタッグ戦が2004年に実現
  3. 田上については、蝶野とのタッグ戦が2003年に実現、
  4. 小橋については、蝶野とのタッグ戦およびシングル戦が2003年に実現。武藤とのタッグ戦が2009年に実現。

従って、四天王の中で闘魂三銃士全員とシングル戦を行った経験があるのが、川田だけ(対武藤3勝2敗1分、対蝶野1敗、対橋本1勝)で、蝶野は唯一、田上とのシングル戦はなく(対三沢1分、対川田1勝、対小橋1敗)、タッグで交わっていることになる。小橋に関しては、橋本とはリング上で接点はなかったが、2003年週刊プロレス主催のトークショーで時間帯が違ったものの、同日開催されたこともあり、別室で記念撮影に応じている。

また、三沢と武藤、三沢と蝶野、川田と武藤、川田と橋本、田上と武藤による四天王と三銃士のタッグ結成が実現。小橋、武藤、蝶野による夢のトリオも実現した。

蝶野は四天王について「所属団体こそ違うけどかけがえのない同士だと思ってる。同じ時代を生きたという意味でね」と週刊プロレスでのインタビューで語っている。

昭和期のプロレス四天王

1960年代後半、日本プロレスのトップ選手であったジャイアント馬場アントニオ猪木大木金太郎吉村道明が、「日本プロレス四天王」「日プロ四天王」と呼ばれていた。

新日本プロレスの四天王

2000年代後半頃から新日本プロレスのタイトルマッチ常連選手である棚橋弘至中邑真輔真壁刀義後藤洋央紀の四人。 元々2002年頃から棚橋、中邑、柴田勝頼の三人が「新・闘魂三銃士」として売り出されたがあまり定着しないまま柴田が退団し、後に天山広吉追放後のG・B・Hリーダーとして新日本の内外で暴れ回る真壁、2008年G1 CLIMAXで初出場・初優勝を果たし注目を集めた後藤を加えた四人が「四天王」と呼ばれるようになり、徐々に定着している。ポスターや会場タペストリーもこの4人が飾る事が多かったが、2012年に入りオカダ・カズチカがIWGP初挑戦・初戴冠を皮切りに急激に頭角を現した事により、この年の下半期より後藤に変わってオカダがラインナップされることに。但し、これをもって四天王と呼ばれる事はほぼ無い。 それからしばらくは棚橋、中邑、オカダを3トップとしているが新日本内外で「もう一人は誰か?」という議論が起こっており、後藤、内藤哲也飯伏幸太AJスタイルズ等候補は多いものの定着はしていない。

2016年に中邑が新日本を退団すると内藤が急成長してIWGPヘビー級王座を奪取。またWWEへ移籍したAJに変わりケニー・オメガが頭角をあらわしG1 CLIMAXを初優勝した。ここから棚橋(本隊)、オカダ(CHAOS)、内藤(ロス・インゴベルナブレス・デ・ハポン)、オメガ(BULLET CLUB - The Elite)の各ユニットのリーダー格4人が四天王に値する。

外敵四天王(新日本プロレス)

2004年頃から新日本プロレスに参戦し、G1 CLIMAXIWGPタイトルマッチ等の主要な試合で新日本本隊の脅威となった、天龍源一郎(フリー)、高山善廣(高山堂)、鈴木みのるパンクラス、全日本プロレス)、佐々木健介健介オフィス)の四人。

ノア四天王

三沢が中心となって旗揚げされたプロレスリング・ノアに所属する中嶋勝彦潮崎豪拳王清宮海斗の4人を2021年頃より「ノア四天王」と呼ぶようになった[2]

脚注

  1. ^ アメリカで行われていた非合法の賭けボクシングのこと。ファイトマネー目当てに素人が出場して死亡するケースが多かったため社会問題化した。
  2. ^ “潮崎豪、中嶋勝彦へ挑む理由…「挑戦しないとアイ・アム・ノアを言う資格はない」…ノア1・1日本武道館決戦インタビュー【6】”. スポーツ報知. (2021年12月28日). https://hochi.news/articles/20211225-OHT1T51093.html?page=1 2023年7月15日閲覧。 

関連項目


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