王道プロレスについて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/22 14:05 UTC 版)
「キングスロード」の記事における「王道プロレスについて」の解説
業界外からの批判の多くは、「ジャイアント馬場の王道プロレス復活」を信念に掲げているキングスロードの立ち上げの中心人物たちが、ジャイアント馬場の死後に全日本に入社しており、馬場と直接協働した経験がないことを根拠としている。代表の青木は武藤敬司と共に新日本プロレスから移籍していて、同じく共同経営者の高橋も最初に関わったのこそ全日本だが、すぐに大仁田厚と共にジャパン女子プロレスに移籍して、大仁田とFMWの立ち上げに参加。その後はJPWA→ディファ有明職員→2001年再び全日本と、各プロレス団体や関係先を渡り歩いた人物である。 宮本和志にしても、三沢社長時代に練習生として全日本に参加しているものの、練習の辛さから合宿を逃げ出している。また本人は旗揚げ前の週刊プロレスのインタビューで「馬場さんのプロレスは馬場さんにしか出来ないと思うから、ボクは四天王プロレスを目指す」と話しているが、馬場が現役時代行っていたアメリカンスタイルのプロレスと王道プロレスは全くの別物であり(四天王プロレスと王道プロレスはほぼ同意語である)、理解出来ずにいた。 キングスロードは2006年2月28日の第2戦を前に、公式サイトで「キングスロードという事務所は、実力はあるが活動機会の少ない選手に試合リングを提供するために立ち上げたものである。王道プロレスは馬場さんであるからこそ言える言葉であり、王道プロレスという言葉の濫用は控えたい。我々の様な段階で使ってはならないと考えている」という声明を発表。しかしこの声明は、団体名や当初発表された旗揚理念「馬場が築いた信頼と、王道プロレスに近づくべく旗揚げした」との整合性を欠いていることが指摘された。 キングスロードの活動停止に際して、旗揚げ戦に参戦した天龍は「しょっぱかったからねぇ。キングスロードなんて大きな名前をつけて、自分は青木に『こんな名前付けて大丈夫なのか?』と聞いたが『大丈夫です』と言われた。宮本も周りは被害者だとか不幸だとか言うかもしれないけれど、貰ったチャンスを自分で手放しただけ。まぁ歯痒いですよ」と語った。
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