全日本プロレス入門
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高校卒業後の1981年3月27日、全日本プロレスに入団。同年8月21日に浦和競馬場正門前駐車場で行われた越中詩郎戦でデビューした。入門から5か月でのデビューは全日本プロレス史上最速であった。1983年にはルー・テーズ杯争奪リーグ戦に出場して決勝に進出し、越中に敗れて優勝はならなかったものの、この試合の特別レフェリーを務めたルー・テーズは「日本で見た若手選手の試合のベストバウトじゃないか」とこの試合を高く評価した。三沢の1年前に入団したターザン後藤によると、三沢は受身を覚えるのが早く、瞬く間に自身と同じレベルに達したといい、またコーチ役だった百田光雄によると、三沢はあらゆる種類の受け身を1回教えれば大体覚えたという。冬木弘道によると三沢は当時から天才タイプで、「(三沢は)誰かから『あれやってみろ』と言われたこと」がすぐにできたといい、頭の中でイメージした動きができる理想的なレスラーだと評している。ジャイアント馬場は、練習において受け身の音を聞いただけで三沢が受け身をとったことがわかったとされている。 もともと全日本プロレスではジャイアント馬場以下、ジャンボ鶴田、タイガー戸口、天龍源一郎、ロッキー羽田、桜田一男などの大型レスラーが重視される傾向にあったが、若手レスラーの指導に当たっていた佐藤昭雄の後押しを受けて頭角を現すようになる。ちなみに、当時の全日本プロレス練習生の月給は5万円であったが、三沢だけは特別に7万円貰っていた。
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