全日本プロレス入団後
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バスの中で吊革にもたれかかり疲れてうなだれるサラリーマンの姿を見て自分はああなれないと悟り、プロレスラーとして生きることを決意した。全日本プロレス入団へのきっかけとなったのはジャイアント馬場自らのスカウトによる。大学4年生時の7月のある日突然、当時専修大のレスリング部ヘッドコーチを務めていた松浪健四郎に「スーツを着て赤坂のキャピトル東急ホテルに来い」とだけ言われたとのことで、ホテルに馬場夫妻がいる事やスカウトの話である事はまったく知らなかったという。秋山自身がジャンボ鶴田のファンだったこと、あまり裕福でなかったにもかかわらず自身を大学に進学させてくれた親に金銭的な面で楽をさせたいという思いもあり、馬場本人からのスカウトに感動して全日本プロレスへ入団した。秋山が全日本プロレスへ入団することを知った専大OBの長州力は「何で秋山スカウトしなかったんだ?」と、同じく専大OBで当時新日本プロレスのスカウトも兼務していた馳浩に尋ね、「すいません、就職すると鈴木監督に聞いてました」と答えた所、「それはまともだ。口説き落とした馬場さんが凄い」と語っていた。 入団当初から「ジャンボ鶴田二世」として期待され、在学中の1992年2月3日に全日本プロレス入団会見に出席。他の格闘技からの転向組を除く新人選手の会見が行われるのは、鶴田以来19年ぶりのことであった。入門してからの練習で一番きつかったのは受け身であり、技を受けてはいけない競技であるレスリングの出身者であった秋山にとって、何百本も受け身を取ることはダメージで息が詰まる程の負担であった。 1992年9月17日、後楽園ホールのセミファイナル(45分1本勝負)・小橋健太戦でデビュー。他の若手は地方でひっそりと初リングを踏むことがほとんどであった中、異例の厚遇であった。同年末の『'92世界最強タッグ決定リーグ戦』には病気療養中の鶴田の代役として出場を果たす(パートナーは田上明)。1993年1月にはエース候補の登竜門である七番勝負も組まれ、確実にトップ選手への階段を駆け足で登って行ったように見えたが、本人の中では”2年目のスランプ”であった。ようやく「できる」と感じるようになったのは1995年1月のアジアタッグ奪取前後であった。同期の大森隆男や、三沢光晴とのタッグでタイトルを獲得し、また小橋とのタッグチーム「バーニング」で活躍するなど、団体の看板レスラーの一人に成長する。 王道プロレス時代の全日本に於いて、プロレス四天王と並ぶ五強と呼ばれた。
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