全日本プロレス入団後とは? わかりやすく解説

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全日本プロレス入団後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 21:51 UTC 版)

秋山準」の記事における「全日本プロレス入団後」の解説

バスの中で吊革にもたれかかり疲れてうなだれるサラリーマンの姿を見て自分はああなれない悟りプロレスラーとして生きること決意した全日本プロレス入団へのきっかけとなったのはジャイアント馬場自らのスカウトによる。大学4年生時7月ある日突然当時専修大レスリング部ヘッドコーチ務めていた松浪健四郎に「スーツ着て赤坂キャピトル東急ホテル来い」とだけ言われとのことで、ホテル馬場夫妻がいる事やスカウトの話である事はまった知らなかったという。秋山自身ジャンボ鶴田ファンだったこと、あまり裕福でなかったにかかわらず自身大学進学させてくれた親に金銭的な面で楽をさせたいという思いもあり、馬場本人からのスカウトに感動して全日本プロレス入団した秋山全日本プロレス入団することを知った専大OB長州力は「何で秋山スカウトしかったんだ?」と、同じく専大OB当時新日本プロレススカウト兼務していた馳浩尋ね、「すいません就職する鈴木監督聞いてました」と答えた所、「それはまともだ。口説き落とした馬場さんが凄い」と語っていた。 入団当初から「ジャンボ鶴田二世」として期待され在学中1992年2月3日全日本プロレス入団会見出席。他の格闘技からの転向組を除く新人選手会見が行われるのは、鶴田以来19年ぶりのことであった入門してからの練習で一番きつかったのは受け身であり、技を受けてはいけない競技であるレスリング出身者であった秋山にとって、何百本受け身を取ることはダメージ息が詰まる程の負担であった1992年9月17日後楽園ホールセミファイナル45分1本勝負)・小橋健太戦でデビュー。他の若手地方でひっそりと初リングを踏むことがほとんどであった中、異例厚遇であった同年末の『'92世界最強タッグ決定リーグ戦』には病気療養中の鶴田代役として出場を果たす(パートナー田上明)。1993年1月にはエース候補登竜門である七番勝負組まれ確実にトップ選手への階段駆け足で登って行ったように見えたが、本人の中では”2年目スランプであった。ようやく「できる」と感じようになったのは1995年1月アジアタッグ奪取前後であった同期大森隆男や、三沢光晴とのタッグタイトル獲得し、また小橋とのタッグチームバーニング」で活躍するなど、団体看板レスラー一人成長する王道プロレス時代全日本に於いてプロレス四天王と並ぶ五強と呼ばれた

※この「全日本プロレス入団後」の解説は、「秋山準」の解説の一部です。
「全日本プロレス入団後」を含む「秋山準」の記事については、「秋山準」の概要を参照ください。

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