全日本プロレス主戦時代とは? わかりやすく解説

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全日本プロレス主戦時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 05:06 UTC 版)

スティーブ・ウィリアムス」の記事における「全日本プロレス主戦時代」の解説

1990年2月全日本プロレス参戦以降全日本日本での主戦場とし、最強外国人一角として日本人選手前に立ちはだかったテリー・ゴディとのタッグは、ゴディの異名人間魚雷」とウィリアムス異名殺人医師」を合成して殺人魚雷呼ばれた。このタッグ1990年1991年2年連続世界最強タッグ決定リーグ戦優勝するなど目覚しい活躍見せた本国アメリカでもゴディとのコンビ1992年7月5日スタイナー・ブラザーズリック&スコット・スタイナー)を破りWCW世界タッグ王座を、1週間後7月12日にはトーナメント決勝バリー・ウインダム&ダスティン・ローデス破り復活版NWA世界タッグ王座獲得二冠王となり両タッグ王座統一果たしたテリー・ゴディWCW退団後はスタニング・スティーブ・オースチンとタッグ組んだ時もあった。 ウィリアムスシングル戦線名乗りを上げたのは1993年夏、パートナーのゴディが内臓疾患により長期欠場始めた頃からである。9月三沢光晴三冠ヘビー級王座挑戦するはずだったゴディの欠場により、ウィリアムス小橋健太の間で三冠挑戦者決定戦が行われ、ウィリアムス勝利。この試合ウィリアムス放った急角度バックドロップを、全日本プロレス中継実況佐藤啓アナウンサーは「バックドロップドライバー」と表現した。ゴディが三冠王者となった1990年頂点年々陰り見えていたのに対しそれまでタッグ屋と見られていたウィリアムスシングルプレーヤーとしての飛躍がこの小橋との一戦から始まる。 三沢には敗れたものの、翌年1994年チャンピオン・カーニバル準優勝実績残し7月に再び三沢挑戦2年間にわたり王座保持していた三沢破り遂に11三冠ヘビー級チャンピオンとなった1回王座防衛後、10月川田利明敗れ王座からは陥落1995年チャンピオン・カーニバル直前に「家庭の事情」という名目来日キャンセル。しかし実際鎮痛剤大量保持による入国禁止で、当時はこの事情伏せられていたが、1997年春にハルシオン大量保持書類送検された際に公表された。1996年チャンピオン・カーニバル1年ぶりの復帰果たし準優勝輝いたが、技のキレなくなったことを三沢指摘されたり、パンチ多用し始めたことが批判対象となった小橋健太ジョニー・エースパトリオットGET結成すると、対抗してゲーリー・オブライトザ・ラクロスとともにTOPトライアングル・オブ・パワー)を結成

※この「全日本プロレス主戦時代」の解説は、「スティーブ・ウィリアムス」の解説の一部です。
「全日本プロレス主戦時代」を含む「スティーブ・ウィリアムス」の記事については、「スティーブ・ウィリアムス」の概要を参照ください。

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