全日本プロレス主戦時代
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「スティーブ・ウィリアムス」の記事における「全日本プロレス主戦時代」の解説
1990年2月に全日本プロレスに参戦。以降は全日本を日本での主戦場とし、最強外国人の一角として日本人選手の前に立ちはだかった。テリー・ゴディとのタッグは、ゴディの異名「人間魚雷」とウィリアムスの異名「殺人医師」を合成して殺人魚雷と呼ばれた。このタッグで1990年と1991年の2年連続で世界最強タッグ決定リーグ戦に優勝するなど目覚しい活躍を見せた。 本国アメリカでもゴディとのコンビで1992年7月5日にスタイナー・ブラザーズ(リック&スコット・スタイナー)を破りWCW世界タッグ王座を、1週間後の7月12日にはトーナメント決勝でバリー・ウインダム&ダスティン・ローデスを破り復活版NWA世界タッグ王座を獲得、二冠王となり両タッグ王座の統一を果たした。テリー・ゴディのWCW退団後はスタニング・スティーブ・オースチンとタッグを組んだ時もあった。 ウィリアムスがシングル戦線に名乗りを上げたのは1993年夏、パートナーのゴディが内臓疾患により長期欠場し始めた頃からである。9月に三沢光晴の三冠ヘビー級王座に挑戦するはずだったゴディの欠場により、ウィリアムスと小橋健太の間で三冠挑戦者決定戦が行われ、ウィリアムスが勝利。この試合でウィリアムスが放った急角度のバックドロップを、全日本プロレス中継で実況の佐藤啓アナウンサーは「バックドロップドライバー」と表現した。ゴディが三冠王者となった1990年を頂点に年々陰りが見えていたのに対し、それまでタッグ屋と見られていたウィリアムスのシングルプレーヤーとしての飛躍がこの小橋との一戦から始まる。 三沢には敗れたものの、翌年の1994年、チャンピオン・カーニバル準優勝の実績を残し、7月に再び三沢に挑戦。2年間にわたり王座を保持していた三沢を破り、遂に第11代三冠ヘビー級チャンピオンとなった。1回の王座防衛後、10月に川田利明に敗れ王座からは陥落。 1995年、チャンピオン・カーニバル直前に「家庭の事情」という名目で来日キャンセル。しかし実際は鎮痛剤の大量保持による入国禁止で、当時はこの事情は伏せられていたが、1997年春にハルシオンの大量保持で書類送検された際に公表された。1996年、チャンピオン・カーニバルで1年ぶりの復帰を果たし、準優勝に輝いたが、技のキレがなくなったことを三沢に指摘されたり、パンチを多用し始めたことが批判の対象となった。小橋健太、ジョニー・エース、パトリオットがGETを結成すると、対抗してゲーリー・オブライト、ザ・ラクロスとともにTOP(トライアングル・オブ・パワー)を結成。
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