全日本プロレスの社長に就任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 09:48 UTC 版)
「三沢光晴」の記事における「全日本プロレスの社長に就任」の解説
全日本プロレスではジャイアント馬場の妻である馬場元子が会社の運営について大きな発言権を有し、試合会場での実務や対戦カードにまで口出しする状況が続いていた。仲田龍によると、1996年に三沢は元子に反発を覚えるレスラーや社員を代表する形で、元子本人に「周囲の人間の声に耳を傾けた方がよい」という内容の忠告をしたことがあったという。これがきっかけで三沢は元子と対立するようになり、1998年には馬場に対して所属レスラーを代表する形で「元子さんには現場を退いてもらえないでしょうか」と直談判するなど、対立を深めていった。 1999年に馬場が死去すると、マッチメイクなど現場における権限を譲り受けていた三沢はレスラーの支持を受けて後継の社長に就任した。ただし、馬場の死後約3カ月間もの間紛糾した末の人事であった。三沢は就任時に「いいものは採り入れて、今までとは違う新しい風を吹き入れてやっていきたい」と抱負を語ったものの、株式は三沢ではなく元子が保有しており、何をするにも自分に断りを入れるように要求する元子の前に思うように会社を運営することができなかった。 三沢がマッチメイクの権限を所有するようになってからはピンフォールによってのみ決着するスタイルは崩れ、リングアウトやギブアップで決着する試合が出るようになったものの、三沢は1998年に当時秋山準と組んでいたタッグを解体して前座での出場が多かった小川良成とタッグを結成して世界タッグ王座を獲得、また中堅に埋もれていた大森隆男が主張を始め、フリーとして全日本に参戦していた高山善廣とタッグを結成してアジアタッグ王座を獲得、さらに四天王の戦いに秋山準が絡むようになり、こうした全日本の変化をマスコミは「三沢革命」と称した。しかし、和田京平によると元子は三沢が決めたマッチメイクに対して必ず反対意見を出し、また仲田龍によると、三沢には馬場の運営方針を100%受け継ぐことが要求され、新たな試みを行うことは一切禁じられたという。三沢は会社の経費削減についても考えなければならず、巡業の際の移動手段や宿泊先なども変更を検討していたが、元子はこのようなことに関しても「馬場全日本の伝統を崩す行為」と捉えていたことで、三沢は会社の収支を考えなければならない一方で、「馬場全日本」の伝統とも向かい合わなければならない板挟みとなっていた。 三沢はこうした環境を経験したことで、ノア旗揚げ後に上梓した自伝「船出」において、「オレのやろうとすることが、尊敬する馬場さんが作り上げたプロレスを汚すと言われ、更に全日本らしくないと非難されるなら、俺の方から身を引く」と全日本退団を決意する原因になったと述懐している。さらに三沢は経営に関する不透明な部分を目にするうちに全日本に対する不信感が募り、その結果プロレスそのものに対して愛想が尽きかねない心境になり、そうなる前に退団した方がいいと思うようになったとも述べている。
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