全日本プロレスへの引き抜き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 08:21 UTC 版)
「スタン・ハンセン」の記事における「全日本プロレスへの引き抜き」の解説
1981年5月にアブドーラ・ザ・ブッチャーを新日本プロレスに引き抜かれた全日本プロレスと『全日本プロレス中継』の放映局であった日本テレビは、新日本プロレス「第4回MSGシリーズ」開催中に、新日本プロレスの外国人選手を引き抜くという報復工作を行うことを決定した。馬場と『全日本プロレス中継』のプロデューサーであった原章は、直ちにハンセンを引き抜くべくテキサス州ダラスへ向かった(馬場と原はハンセンの他にも、シンの引き抜き工作も同時に開始し、カナダ・オンタリオ州トロントにも向かっている)。同年6月にテリー・ファンクの仲介によってダラスにて馬場と会談を持ち、新日本プロレスから全日本プロレスへの移籍を確約。12月初旬の段階で馬場夫妻とブッカーのザ・ファンクス以外には、竹内宏介などごく限られた関係者しか知らされておらず、そのためブロディは、長くファンクスに対し不信感を持つこととなった。和田京平によれば当初はホーガンを引き抜く予定であり、ホーガンは一度は全日本移籍を快諾したが、最終的にホーガンは新日本残留を決意したために(この件に関してテリーは激怒し、ディック・スレーターを引き連れてホーガンが宿泊していた新宿のホテルへ乗り込んだ)、引き抜きのターゲットをハンセンに変更したという。 新日本プロレス「第2回MSGタッグ・リーグ戦」の全日程が終了した2日後である、同年12月12日の全日本プロレス「'81世界最強タッグ決定リーグ戦」横須賀大会にブロディを激励するために現れ、ブロディに対してハンセン本人が直接状況説明をしたと同時に、ハンセンは「明日にはアメリカへ帰る」とコメントしていたが(後のハンセンの自伝で、横須賀大会の前に名古屋でブロディと会って会話をしていたことを告白している)、翌12月13日の蔵前国技館で行われた「'81世界最強タッグ決定リーグ戦」最終戦にブルーザー・ブロディ&ジミー・スヌーカ組のセコンドとして全日本プロレスに登場。試合中に場外でテリーにラリアットを放ってKOしたことで会場は騒然となり、試合後もファンクスに暴行を加え続けたため馬場が駆けつけ、ハンセンを脳天チョップで流血させるなどの乱闘を演じた。 ハンセンの移籍は秘密裏に行われており、ファンばかりでなく、当時の関係者をも大いに驚かせた。和田は「'81世界最強タッグ決定リーグ戦」最終戦当日、控室にいたハンセンを見つけて「仲がいいから遊びに来たのかな」と最初は思っていたが、ブロディ&スヌーカの入場の際には「えっ?なんでハンセンがいるんだ?」と驚いていた他、ハンセンがテリーにラリアットを放った時点で、ハンセンが全日本に移籍する事が分かったという。『全日本プロレス中継』のプロデューサーであった原は、当時のことを「全日本旗揚げ当時の外国人招聘ルートの開拓のようなものだった」と壊述している(当時、全日本と新日本は主力外国人選手の引き抜き合戦の最中にあり、ハンセンの電撃参戦は最大の事件として記憶されている。坂口は、「第2回MSGタッグ・リーグ戦」「'81世界最強タッグ決定リーグ戦」終了後に『別冊ゴング』1982年1月号と『月刊プロレス』1982年2月号を読んで、全日本による引き抜き工作がすでに行われていたことをようやく知ったという。ブッチャーを全日本から引き抜いて先に戦争を仕掛けた側の新日本は、ハンセンを引き抜き返されたことで馬場に休戦を申し入れるなど、ハンセンの移籍が両団体の戦争に終止符を打った形となった)。
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