スタイルとテーマ
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「トーマス・ナスト」の記事における「スタイルとテーマ」の解説
ナストの作品は、メインとなる漫画に入り組んだサブストーリーをもたせる補足説明や「こま」が描かれていることが多かった。日曜版の特集記事は単に娯楽を提供するだけでなく、社会的大義も前面に押し出された。1870年以降のナストは、柱となるイメージの力強さが際立つ、よりシンプルな漫画の構成を好んだ。ナストの似顔絵は写真をベースに描かれていた。 キャリアの早い段階では、職員の彫版工により刻まれる木ブロックに色調のレンダリングを描くために、印刷用ブロックにブラシや水墨画の技術を用いた。ナストの成熟したスタイルを特徴づけた大胆なクロスハッチングは、1869年6月26日の漫画から始まった手法の変化から生じた。ナストは自分の書いた線により彫版工が進められるように鉛筆を使い木ブロックに描いた。この変化はイギリスのイラストレーター、ジョン・テニエルの作品の影響を受けたものであった。 ナストが繰り返し描いたテーマは、人種差別主義と反カトリックである。ナストはランダウのサンクト・マリア・カトリック教会でカトリックの洗礼を受け、ニューヨークで一時カトリックの教育を受けていた。いつナストがプロテスタンティズムに改宗したのかははっきりしないが、1861年の結婚の時に起きた可能性が高い(家族はモリスタウンのサン・ピエトロで監督教会員を実践していた)。カトリック教会がアメリカの価値観に脅威であると考えていた。ナストの伝記を書いたFiona Deans Halloranによると、ナストは「カトリックの考えが公の教育に浸食していくことに強く反対していた」と述べている。タマニー・ホールが教区のカトリックの学校を援助する新たな税金を提案したとき、怒りを覚えた。残忍な1871年の漫画"The American River Ganges"で、ローマの指導を受けたカトリックの司教をアメリカの学校の子供たちを攻撃するワニとして描き、アイルランドの政治家は子どもたちが逃げるのを妨げている。民主政治への恐怖としての宗教教育に対する国民の支持を描いた。ローマにおける権威主義的な教皇制、無知のアイルランド系アメリカ人、タマニー・ホールの腐敗した政治家たちが作品中で目立つ存在となっている。宗教と民族の相違を緩和する無宗派の公教育を支持した。しかし、1871年にナストとHarper's Weeklyは共和党が支配するロングアイランドの教育委員会を支援し、ジェームス王訳聖書の教えを聞くように学生に要求している。自身の教育漫画は、共和主義者や無所属者の間で反カトリック・反アイリッシュの熱狂を呼び起こそうとした。 ナストは彼らを暴力的な酔っ払いと描くことで反アイリッシュの感情を表現した。アイルランド人を集団暴行、マシーン政治、政界のボスによる移民の搾取の象徴としてアイルランド人を使った。ナストがアイルランド人の暴力を強調するのには、若いころに目撃したシーンによるものであるかもしれない。子どもの頃は体が小さく、いじめを経験した。育った地域では、アイルランド人の黒人アメリカ人に対する暴力が日常的に行われていた。 1863年、ニューヨーク徴兵暴動でアイルランドからの移民で主に構成された集団が黒人の孤児院を全焼させるのを目撃している。これらの経験は彼の黒人アメリカ人への同情と、「残忍で制御不能なアイルランドの凶悪犯と近くしたものに対する反感」を説明できるかもしれない。 彼の政治漫画は、通常は、アメリカのインディアンや中国系アメリカ人を支持していた。奴隷制の廃止を主張し、人種差別に反対し、クー・クラックス・クランによる暴力を嘆いていた。彼の有名な漫画の1つ『奴隷より悪い』は放火され破壊された校舎から死んだ子を抱え落胆する黒人家族と、南部のレコンストラクション時の準軍事的反乱集団であるクー・クラックス・クランとホワイトリーグの2人が黒人アメリカ人に対する相互破壊的な仕事で手を組んでいる様子が描かれている。 ナストは少数派を擁護していたにもかかわらず、Morton Kellerはナストは後期に「黒人への人種差別のステレオタイプが現れ始め、それはアイルランド人に対するものに匹敵した」と書いている。 政治的目的のためにシェイクスピアからの場面を現代化する手法をアメリカの漫画に導入した。
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「チャールズ・チャップリン」の記事における「スタイルとテーマ」の解説
チャップリンのコメディ・スタイルは、スラップスティック(ドタバタ)と広く定義されているが、それは抑制された知的なものと見なされている。映画史家のフィリップ・ケンプは、そのスタイルを「巧みでバレエのようにフィジカルなコメディと、よく考えられたシチュエーション・コメディ」を組み合わせたものと考えている。チャップリンはギャグのテンポを遅くし、シーンからシーンへ素早く移動するのではなく、各シーンで可能な限りのギャグを使い尽くしてから次のシーンに移り、感情表現に重きを置く性格喜劇的なタッチにすることで、従来のスラップスティック・コメディとは異なるスタイルを見せた。ロビンソンは、チャップリンのギャグは滑稽な出来事自体からではなく、それに対するチャップリンの態度から生み出されていると指摘している。例えば、小さな放浪者が木にぶつかる時、ユーモアは衝突そのものではなく、反射的に帽子をとり木に向かって詫びることから起きている。チャップリンの伝記作家ダン・カミンは、チャップリンの他のコメディ・スタイルの重要な特徴として、「風変わりな癖」と「ドタバタの最中での真面目な行動」を指摘している。 チャップリンのサイレント映画は通常、小さな放浪者が貧困の中で生活し、しばしば悲惨な目にあうが、必死に努力して紳士として見られるように振舞う姿が描かれている。小さな放浪者はどんな困難に見舞われても、いつも親切で明るいままである。大野裕之は、小さな放浪者には「イノセントな性格」があると指摘している。小さな放浪者は権威的な存在に抵抗するが、大野はこうした特徴から、チャップリンを社会的弱者や大衆を象徴する存在と見なし、そのために大衆観客の共感を得たと指摘している。また、小さな放浪者は冒険や恋を夢見るが、現実で成就することはない。いくつかの作品では、小さな放浪者が再び夢を求めて放浪し続けるために、背を向けて一人で去って行く姿がラストシーンで描かれている。 悲劇がかえって笑いの精神を刺激してくれるのである…笑いとは、すなわち反抗精神であるということである。私たちは、自然の威力というものの前に立って、自分の無力ぶりを笑うよりほかにない-笑わなければ気が違ってしまうだろう。 チャールズ・チャップリン、悲劇的な題材からコメディを作る理由について ペーソスの導入は、チャップリン映画のよく知られた特徴である。大野は、チャプリン映画の特色を「笑いだけでなく涙の要素も入れた物語」と指摘している。ルービッシュは、チャップリン映画の感傷性を作る要素として「個人的な失敗、社会の狭窄、経済的損害」を特定している。『担へ銃』『黄金狂時代』などでは、悲劇的な状況を題材にコメディを作っている。このスタイルの原点となったのは、チャップリンが幼少時代に見た屠殺場から羊が逃げ出したエピソードである。チャップリンは羊が無茶苦茶に走り回り、通りが大騒ぎになる光景を見て笑ってばかりいたが、やがて羊が捕まり屠殺場に連れ戻されると、母に泣きながら「あの羊、みんな殺されるよ!」と訴えた。チャップリンはこのエピソードが喜劇と悲劇を結合する作風の基調になったと述べている。 社会批評は、チャップリン映画の特徴的なテーマである。チャップリンはキャリアの初期から社会的弱者を同情的に描き、貧しい人々の窮状を描いてきた。また、『チャップリンの移民』では移民、『チャップリンの勇敢』では麻薬中毒、『キッド』では非摘出子を描くなど、社会的に物議を醸す題材を扱うこともあった。その後、チャップリンは経済学に強い関心を持ち、その見解を公表する義務を感じるようになると、映画に明白な政治的メッセージを取り入れ始めた。『モダン・タイムス』では過酷な状況にある工場労働者を描き、『独裁者』ではヒトラーとムッソリーニをパロディ化し、ナショナリズムに反対する演説をラストシーンに挿入した。『殺人狂時代』では戦争と資本主義を批判し、『ニューヨークの王様』ではマッカーシズムを攻撃した。 チャップリン映画のいくつかには、自伝的要素が取り入れられている。『キッド』は幼少時代に孤児院に送られた時のトラウマを反映していると考えられている。『ライムライト』の主人公は舞台芸人だった両親の人生から多くの要素を取り入れており、『ニューヨークの王様』はアメリカを追放された経験が関係している。映画に登場するストーリート・シーンは、チャップリンが育ったロンドンのケニントンの街と類似している。チャップリンの伝記作家スティーヴン・M・ワイスマン(英語版)は、チャップリンと精神病を患った母親との関係が、チャップリン映画に登場するヒロインと、彼女たちを救いたいという小さな放浪者の願望に反映されていると指摘している。 映画史家のジェラルド・マスト(英語版)は、チャップリン映画の構造に関して、密接に順序付けられたストーリーではなく、同じテーマと設定で結び付けられたスケッチで構成されていると見なしている。視覚的にはシンプルで、固定カメラで撮影したシーンが多く、その映像は舞台上で演じているように見えた。『ライムライト』の美術監督ウジェーヌ・ルーリエ(英語版)によると、チャップリンは撮影時に芸術的な映像を作ることは考えず、カメラに俳優の演技を収めることを第一に考えていたという。チャップリンは自伝で「単純なアプローチ、それが結局いちばんよい…特別な技法はただ演出のスピード感をなくすだけで、退屈で、しかも不愉快である。カメラ操作はもっぱら俳優の動きを楽にするような演出に基づいて決定される…カメラがのさばり出してはいけない」と述べている。こうしたアプローチは、1940年代以降に時代遅れであると批判された。映画学者のドナルド・マカフリーは、それはチャップリンがメディアとしての映画を完全に理解していなかったことを示していると考えているが、カミンはチャップリンが「映画的なシーンを考案し、演出する才能」を持っていたら、スクリーン上で十分に笑わせることはできなかっただろうと述べている。
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「ハリー・ポッターと賢者の石」の記事における「スタイルとテーマ」の解説
「:en:Harry Potter influences and analogues」も参照 米国の児童文学学者であるフィリップ・ネルは、ローリングが12才の時からとても尊敬していたジェイン・オースティンの影響を強調した。どちらの小説家も再読を強く勧めている。なぜならば、取るに足らないことに見える一つ一つが物語のかなり後の重要な出来事や登場人物の伏線となっているからである。たとえば、シリウス・ブラックは「ハリー・ポッターと賢者の石」の冒頭で簡単に触れられているが、3巻から5巻では主要な登場人物になっている。オースティンのヒロインのように、ハリーは本の終わりに自分の考えを見直さなければならないことがよくある。「ハリー・ポッター」の本の中のいくつかの社会的行動は、手紙をみんなで読んで盛り上がるなど、オースティンを連想させる。どちらの作家も社会的行動を風刺し、登場人物に人柄を表す名前をつけている。しかしネルの意見では、ローリングのユーモアは大きくカリカチュアに基づいており、彼女が考案した名前はチャールズ・ディケンズの物語に見られるようなものであるという:13–15。またホリンズ大学英語教授であるアマンダ・コックレルは、それらの多くは古代ローマ神話から18世紀のドイツ文学に至るまでの引喩によって、それらの持ち主の特徴を表現していると指摘した。「ナルニア国ものがたり」シリーズの作者であるC・S・ルイスのように、ローリングは児童向けの物語と大人向けの物語の間に厳密な区別はないと考えている。ネルもまた、多くの優れた児童文学作家のように、ローリングはファンタジー、ヤング・アダルト小説、寄宿学校の物語、教養小説やその他多くの文学のジャンルを組み合わせていると指摘した:51–52。 一部の批評家は「賢者の石」を1990年に亡くなったロアルド・ダールの物語と比較した。1970年代以降、多くの作家が彼の後継者としてもてはやされたが、子供たちからの人気は彼に及ばず、「賢者の石」が発売直後に行われた調査では、もっとも人気のある児童書10冊の内で、1位の作品を含み7冊がダールの作品だった。1990年代後半に人気を博したその他の児童文学作家はアメリカのR・L・スタインだけだった。「賢者の石」の物語のいくつかの要素はダールの物語の一部と共通点がある。たとえば、「おばけ桃の冒険」の主人公は両親を失い、ハリーを召使いのように扱っていたダーズリー夫妻に似た太っちょと痩せっぽちの不愉快な二人の叔母と住まなければならなかった。しかしハリー・ポッターは、子供のままで大人の責任を負うことのできる、独特の作品だった。 図書館員のNancy Knappとマーケティング学教授のStephen Brownは、特にダイアゴン横丁のような店の場面の描写が生き生きとして細かいと指摘した。Tad Brennanは、ローリングの文章はホメーロスの文章「速く、明白、かつ単刀直入な表現」に似ていると論評した。スティーヴン・キングは「イギリスのファンタジー作家ならではの一種の遊び心のあるディティール」と称賛し、ローリングが笑いを楽しんだあと、素早く前に進んでいくから、それらは機能していると結論付けた。 サセックス大学の名誉上級講師であるニコラス・タッカーは初期の「ハリー・ポッター」についてヴィクトリア朝やエドワード朝の児童文学を彷彿とさせるものと述べている。ホグワーツは旧式の寄宿学校であり、教師は生徒を名字で礼儀正しく呼びかけ、自分に関連する寮の評判をとても気にしていた。ダーズリー家を始め、登場人物の性格は外見にはっきりと表れており、アーガス・フィルチの飼い猫ミセス・ノリスなど、不道徳あるいは悪意のある登場人物は改心するのではなく打ち砕かれるものだった。また主人公は、虐待された孤児だが本当の居場所を見つけ、カリスマ性がありスポーツが得意で、弱者を思いやり守る心をもっていた。その他一部の解説者は、この本は多くの社会的固定観念を含む高度に階層化された社会を表現していると述べた。しかしKarin Westermanは1990年代のイギリスとの類似性について示している。崩壊しつつあるがその権力と地位を支持する人々によって守られていた階級制度、ホグワーツの生徒の多民族構成、様々な知的種族間の人種的緊張、および校内のいじめなど。 Susan Hallは、魔法省の役人の行動は法、説明責任または法的な異議申し立てにより拘束されないということから、この本には法の支配がないと書いた。これはヴォルデモートに彼の考える恐ろしい秩序を提供する機会を与える。この副作用として、高度に統制されたマグルの世界で育てられたハリーとハーマイオニーは、魔法使いには馴染みのない方法で考えることで解決策を見つける。たとえばハーマイオニーは、賢者の石を見つける上で障害の一つは魔法の力ではなく論理の問題であることと、ほとんどの魔法使いにはそれを解決する見込みがないことを指摘する。。 極端に型にはまり、身分にこだわり、実利主義的なダーズリー家の不愉快な特徴づけは、結婚した異性愛カップルを「好ましい規範」として扱う、1990年代初頭の英国政府の家族政策に対する、シングル・マザーであるローリングの反発である、とネルは示唆した。大人や子供の魔法使いとハリーの関係は愛情と忠義に基づいている。このことは、シリーズを通して彼が一時的にウィーズリー一家の一員になるときはいつでも幸せでいることや、最初はルビウス・ハグリッドを、後にリーマス・ルーピンやシリウス・ブラックを彼の父親代わりのように扱うことに反映されている:13–15, 47–48。
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ボウイはこの時期、後に「ベルリン三部作」と呼ばれる作品群に取り掛かっていたが、本作はその1作目『ロウ』に先行してほぼ同じメンバー、スタッフ、スタジオで制作されたため「『イディオット』はボウイのベルリン時代の非公式な始まり」と呼ばれてきた。 音楽スタイルでは、ザ・ストゥージズで志向していたギターリフを基調としたハードなロックンロールスタイルから離れ、クラフトワーク等のドイツのミュージシャンの電子音楽を引用し、全く異なったスタイルの確立に成功している。 イギー自身は本作の音楽スタイルをリリース当時、「ジェームス・ブラウンとクラフトワークの出会い」と表現し、全体のテーマを「自由なアルバム」と評している。デヴィッド・ボウイの伝記作者デヴィッド・バックリーは本作を「ファンキーで、無機質な地獄のような」アルバムと評した。 1981年、NMEの編集者ロイ・カー(英語版)とチャールズ・シャー・マレー(英語版)は本作のエレクトロニック・サウンドは『ロウ』で開発されたものを引用していると指摘している。 2000年にはニコラス・ペッグ(英語版)はこのアルバムを「『ステーション・トゥ・ステーション』と『ロウ』を繋ぐ踏み石」と表現している。
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『血染めの部屋』はばらばらの物語を集めたものというよりは、フェミニズムや変身というより大きな共通のテーマにもとづく物語を取り上げた短編集として扱われている。マーガレット・アトウッドは、特にカーターの執筆スタイルは陰気な散文で覆われた「ぞっとする」絵を提示していると述べている。「アーネスト・ヘミングウェイのきれいで光の良く当たる場所や、オーウェルの1枚の窓ガラスのような飾り気のない散文のような執筆スタイルは彼女には向かない。彼女はそれよりも汚らしく、隅っこにかじられた骨があったり、助言を求めないほうがいいほこみまみれの鏡が置かれている大いに不気味な場所を好む」と述べている。この短編集には、陰気な塔やくすんだ情景へのカーターのこだわりが表れている。カーターは、特にゴシックホラーやエドガー・アラン・ポーのファンであることを自ら認めており、また彼女はゴシック小説の古典性を呼び起こすために近親相姦や人食いといった要素を自身の作品の中に含めている。
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「ラスト・フォー・ライフ」の記事における「スタイルとテーマ」の解説
本作は一般的にボウイの影響下にあるとされている前作『イディオット』よりもイギーに主導権が移ったと考えられており、実験的なテイストは薄まり、よりロックンロール的なテイストが前面に出た形になっている。 これはソングライティングの体制に変化があったことも大きく、バックバンドのメンバーが一通り作曲に関わっているため、前作のダークなトーンも一部継承しつつ、バラエティに富む楽曲が揃う結果となった。 前作のダークなトーン、テーマを継承した曲としては「ザ・パッセンジャー」、ヘロインの乱用を扱った「トゥナイト」や「ターン・ブルー」が挙げられる。 「ザ・パッセンジャー」は、作曲を担当したリッキー・ガードナーが「レイドバックして、跳ね回るようなグルーヴ」と表現した、コールアンドレスポンスの軽快なトラックである。この歌詞ははジム・モリソンの詩「神—視覚についてのノート」に触発されたものとされているが、加えてイギーの当時のガールフレンド、エスター・フリードマンによるとベルリンのSバーンへの賛歌でもあるという。また、この歌詞は「新しい潮流や他者のセンスを貪欲に吸収するボウイの文化的吸血鬼主義に対するイギーのコメント」とも解釈されている。 7分弱あるアルバム中最も長い「ターン・ブルー」は、イギーとボウイが薬物中毒に陥っていた1975年5月に行われて失敗に終わったレコーディング・セッションに遡る、長編の懺悔録と言える。原題は 「ムーヴィング・オン」でボウイ、イギー、ウォルター・レイシー、ウォーレン・ピース(英語版)によって作曲された。この曲だけオリジナルのレコード・スリーブに歌詞が掲載されていない。 これらの曲と対照的なのは「サクセス」や「ラスト・フォー・ライフ」のようなアップビートな曲で、後者はローリング・ストーン誌に「イギーが大衆に向けて生き残ったことを宣言する曲」と評されている。 イギーによると「ラスト・フォー・ライフ」でボウイが提供した有名なリフは、ベルリンの米軍放送網のジングルに触発されたものだという。カルロス・アロマーはこのリフについて「抗うことのできないリズムだった」と語っている。 アルバムの残りのトラックには、イギー単独で作曲した「シックスティーン」、ハード・ロック・ナンバー「サム・ウィアード・シン」、「ネオパンク」と評された「ネイバーフッド・スレット」、バンドよる即興ジャムから発展した曲に、イギーが当時の恋人エスター・フリードマンを連想させる歌詞を乗せた「フォール・イン・ラヴ・ウィズ・ミー」が含まれる。
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