レコーディング・セッションとは? わかりやすく解説

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レコーディング・セッション

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 05:16 UTC 版)

フリーホイーリン・ボブ・ディラン」の記事における「レコーディング・セッション」の解説

1961年11月ディランジョン・ハモンドプロデュースのもと20歳デビュー・アルバム録音し12月、西4番ストリート借りていたアパート恋人スーズ・ロトロ一緒に暮らし始める。1962年1月音楽出版社リーズ・ミュージック・パブリッシング社の子会社であるダッチェス・ミュージック社と契約2月、トピカル・ソングを紹介する雑誌ブロードサイド』誌が創刊された。こうした中でディラン多く自作曲作り始める。 レコーディングは、ニューヨークのコロムビア・レコーディング・スタジオにて1962年4月から1963年4月までの1年間渡り数回セッション断続的に行われたアルバムには当初『ボブ・ディランズ・ブルース』の仮タイトルつけられていた。 1962年4月24日録音 サリー・ギャル - Sally Gal ランブリング・ギャンブリング・ウィリー - Rambling Gambling Willie ザ・デス・オブ・エメット・ティル - The Death Of Emmett Till トーキン・ジョン・バーチ・パラノイド・ブルース - Talkin' John Birch Paranoid Blues、他 1962年4月25日録音 レット・ミー・ダイ・イン・マイ・フットステップス - Let Me Die in My Footsteps トーキン・ハヴァ・ナギラ・ブルース - Talkin' Hava Negeilah Blues ベイビー、プリーズ・ドント・ゴー - Baby, Please Don't Go トーキン・ベア・マウンテン・ピクニック・マサカー・ブルース - Talkin' Bear Mountain Picnic Massacre Blues、他 6月、ロトロが留学のためにイタリアペルージャ出発1962年7月9日録音 ベイビー、アイム・イン・ザ・ムード・フォー・ユー - Baby, I'm in the Mood for You 風に吹かれて - Blowin' in the Wind クイット・ユア・ロウ・ダウン・ウェイズ - Quit Your Low Down Ways ワン・モア・チャンス - Honey, Just Allow Me One More Chance ダウン・ザ・ハイウェイ - Down the Highway ウォリッド・ブルーズ - Worried Blues、他 7月13日音楽出版社のウィットマーク社と正式に契約9月22日、オールスター・フーテナニーの一員としてカーネギー・ホール初出演し「はげしい雨が降る」他を演奏1962年10月26日録音 ギターのブルース・ラングホーン、ベースのレナード・ギャスキン、ドラムスのハーブ・ラヴェルらのバック・バンド導入した初めてのレコーディングコリーナ、コリーナ - Corrina, Corrina (アルバム・バージョン)、他 1962年11月録音 ゴチャマゼの混乱 - Mixed Up Confusion、他 1962年11月14日録音 くよくよするなよ - Don't Think Twice, It's All Right コリーナ、コリーナ - Corrina, Corrina (シングル・バージョン) キングスポート・タウン - Kingsport Town、他 1962年12月6日録音 ヒーロー・ブルース - Hero Blues ワッチャ・ゴナ・ドゥ? - Whatcha Gonna Do オックスフォード・タウン - Oxford Town アイ・シャル・ビー・フリー - I Shall Be Free はげしい雨が降る - A Hard Rain's a-Gonna Fall、他 12月中旬イギリステレビ・ディレクター、フィリップ・サヴィールに誘われBBCテレビドラマ『マッドハウス・オン・カッスル・ストリート』に出演するためディランロンドン渡りドラマの中で「風に吹かれて」他を演奏。またフォーク・クラブの「トゥルバドール」やパブ訪れマーティン・カーシーやボブ・ダヴェンポートらロンドンフォークシンガー達とも交流を持つ。1963年1月イタリアでツアー中だったオデッタとそれに同行していたアルバート・グロスマンに合流するため、ディランイギリスからローマに渡る。恋人のロトロと連絡取れるのではないか期待していたが、知らない間にロトロはイタリア発ちニューヨーク戻ってしまっていた。ロンドン引き返して再びマーティン・カーシーらと会い1月16日ニューヨークに戻る。 ディランとロトロは再び一緒に暮らし始め2月ジャケット撮影1963年4月24日録音 ハモンドからトム・ウィルソンプロデューサー交代北国の少女 - Girl from the North Country 戦争親玉 - Masters of War ウォールズ・オブ・レッド・ウィング - Walls of Red Wing 第3次世界大戦を語るブルース - Talking World War III Blues ボブ・ディランの夢 - Bob Dylan's Dream アルバムプロモーションテスト盤は、12月までのセッション録音された「レット・ミー・ダイ・イン・マイ・フットステップス」、「ランブリング・ギャンブリング・ウィリー」、「トーキン・ジョン・バーチ・パラノイド・ブルース」等の4曲を含み構成されていた。5月12日ディラン人気番組エド・サリヴァン・ショー』への出演が決まるが、テレビ局幹部が「ジョン・バーチ」の歌詞難色示し演奏内容変更するよう申し入れたためディラン決裂しディラン出演そのもの拒否した。この件の後、アルバムは同曲を含む4曲を4月セッションのものに差し替えて正式にリリースされている。4月セッション次のサード・アルバムのためであるとも考えられているが、『エド・サリヴァン・ショー』の件の前から曲を差し替えることは決定していた可能性もあり、そのために4月セッション開かれたともみられている。

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レコーディング・セッション

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 23:14 UTC 版)

ボブ・ディラン (アルバム)」の記事における「レコーディング・セッション」の解説

1961年、ニューヨーク・グリニッジ・ヴィレッジのフォーク・リバイバルムーブメントの中、コロムビア・レコードプロデューサーであったジョン・ハモンドはフォーク・アーティストを探していた。9月そのうち一人であった女性シンガーのキャロリン・ヘスターのアルバムレコーディングで、ディランヘスターからハーモニカ演奏依頼される準備のため、ディランヘスター当時結婚していたリチャード・ファリーニャ2人アパートメント訪れ、そこで初めハモンドと会う。ディランギターハーモニカ演奏しヘスターバック歌ったが、ハモンドが特別の関心払っているとは思わなかった。しかしその演奏見たハモンドは、この時からディラン気に入っていた。 9月26日、グリーンブライアー・ボーイズの前座としてこの日から2週間予定でフォーク・クラブ「ガーディス・フォーク・シティ」に出演していたディランは、取材に来た音楽ジャーナリストのロバート・シェルトンのインタビュー答え9月29日ニューヨーク・タイムズ紙ディラン賞賛するシェルトン記事掲載された。9月30日ヘスターとのレコーディング・セッションが行われ、順調に録音終えた帰り際ディランハモンドにコントロール・ブースへ呼ばれて自分レコード出そう聞かされるディラン自分記事をみんなに見せて回っていたが、ハモンドもこの日の朝に読み記事功を奏していた。 10月、正式契約前にニューヨークを語る」などを歌ったデモが行われたとみられている。ハモンドオフィス契約書サインをしたディランはある写真気づく。それはブルース・ギター奏者シンガージープと名のる男の写真で、以前ディランジープ実家訪ね、そこにあった素晴らしいレコード・コレクションを聴いたことがあった。実はこのジープハモンド息子ジョン・ハモンド・ジュニアだった。ハモンド息子からもディランのことを聞いていたのだったレコーディングジョン・ハモンドプロデュースのもと、11月20日22日ニュー・ヨークのコロムビア・レコーディング・スタジオで行われたかかったコストは$402だったと伝えられている。いずれかセッションには、当時恋人だったスーズ・ロトロ立ち会っていた。 1961年11月20日録音 彼女はよくないよ - You're No Good 死をみつめて - Fixin' to Die ヒー・ウォズ・ア・フレンド・オブ・マイン - He Was a Friend of Mine 朝日のあたる家 - House of the Risin' Sun ニューヨークを語る - Talkin' New York ウディ捧げる歌 - Song to Woody 連れてってよ - Baby, Let Me Follow You Down 死にかけて - In My Time of Dyin' 1961年11月22日録音 マン・オン・ザ・ストリート - Man on the Street Ramblin' Blues("(As I Go) Ramblin' Round"とも、作詞・作曲: ウディ・ガスリー) いつも悲しむ男 - Man of Constant Sorrow プリティ・ペギー・オウ - Pretty Peggy-O 僕の墓をきれいにして - See That My Grave Is Kept Clean ゴスペル・プラウ - Gospel Plow ハイウェイ51 - Highway 51 Blues 貨物列車ブルース - Freight Train Blues ハウス・カーペンター - House Carpenter 自身初レコーディングディランにとって難し作業だった。各曲あまり多くテイクが録られず、別テイクを録りたいかハモンド聞かれると、ディランは「ノーと言いました。同じ曲を続けて2度歌う自分の姿は想像できない。そんな恐ろしいこと。」と述べている。 現在アウトテイクのうち「ヒー・ウォズ・ア・フレンド・オブ・マイン」「マン・オン・ザ・ストリート」「ハウス・カーペンター」の3曲が、『ブートレッグ・シリーズ第1〜3集』(1991年)に収録されている。「朝日のあたる家」は、1964年プロデューサートム・ウィルソンによりオーバーダブ加えられたオルタネイト・ミックスが Highway 61 Interactive CD-ROM1995年)に収録されている。 ジャケット写真は、写っているアコースティック・ギターの弦の太さからみるに、裏返し写真である。

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レコーディング・セッション

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 18:11 UTC 版)

ザ・ウォール」の記事における「レコーディング・セッション」の解説

アルバム制作1978年7月よりイギリス・ロンドンにあるバンド所有するブリタニア・ロウ・スタジオにて開始された。ロジャー・ウォーターズは、プロジェクトの規模大きさ複雑さ、そしてデヴィッド・ギルモアとの軋轢考慮して外部から協力者を仰ぐことを考えたその結果アリス・クーパーキッスなどを手掛けたボブ・エズリン招かれた。当時ウォーターズ結婚間もないキャロラインエズリン秘書務めた事があり、エズリン招聘キャロライン推薦よるものであった。 ブリタニア・ロウ・スタジオにてエズリンギルモアとともにウォーターズデモテープ分析するなどの作業当たっていたが、レコーディング途中でイギリスを去ることになった。ノートン・ウォーバーグの件で財政難に陥って税金対策講じざるを得なくなったためである(このためブリタニア・ロウ・スタジオでレコーディング作業されたことは公表されていない)。アルバムレコーディングは、フランスのスーパーベア、ロサンゼルスのプロデューサーズ・ワークショップ、ニューヨークCBSスタジオで録音された。 シングルリリースもされた「アナザー・ブリック・イン・ザ・ウォール (パート2) 」では、歌詞の「教育なんかいらない」という一節説得性を持たせるために、ウォーターズエズリンはその一節実際に子供歌わせるというアイデア思いついた。歌っているのは、エズリンからの指示受けたニック・グリフィスがブリタニア・ロウ・スタジオのすぐ近くにある小学校音楽教師掛け合って参加してもらった4年生23名によるものである。 レコーディング終盤迎えた1979年秋、リチャード・ライトウォーターズ圧力によって解雇されるという事件が起きる。『ザ・ウォール』プロジェクトではほとんど創作活動を行わなかったことや、同年の夏にギリシャ家族療養行きレコーディング活動戻ろうとしなかったことが逆鱗触れウォーターズ他のメンバー対しライト解雇同意しなければ『ザ・ウォール』プロジェクト中止する」と迫った当時財政難に陥っていたことから他のメンバーウォーターズ要求応じざるを得ずライトバンドのメンバーから正式に外されることになったライトこの後雇われミュージシャン」としてバンド同行し、「ザ・ウォール」のコンサートツアーも全公演こなした

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レコーディング・セッション

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/20 15:01 UTC 版)

ミリオン・ダラー・カルテット」の記事における「レコーディング・セッション」の解説

このジャム・セッションは全くの偶然から始まった。『ブルー・スエード・シューズ』ですでに成功していたカール・パーキンス兄弟クレイトンジェイおよびドラム奏者W・S・ホランドと共に古いブルース曲『マッチボックス』の改訂版収録のためにスタジオ来ていた。サン・レコードオーナーサム・フィリップスはこのロカビリーの薄い楽器編成重厚にしたがっており、メンフィス以外で知られていない新人ジェリー・リー・ルイスピアノ奏者としてパーキンスセッションに連れてきた。昼過ぎ、まだ21歳であったエルヴィス・プレスリーガールフレンドのマリリン・エヴァンズと共にスタジオ立ち寄ったコントロール・ルームフィリップス軽く話した後、エルヴィスパーキンスセッション再生聴き意見言った。そして彼はスタジオ入っていき、しばらくしてジャム・セッション始まった。このセッション最中、カントリー・チャートでいくつかヒット曲生み出していたジョニー・キャッシュ現れた(キャッシュ自伝Cash 』で、スタジオ最初に到着していたキャッシュパーキンスセッション聴きたかったのだ、と記した)。この日、技術担当したジャック・クレメントは後に「これを録音しないのはもったいない」と独り言言って録音開始した思い返した。何曲か演奏した後、エルヴィスエヴァンズはジェリー・リーがピアノ演奏している間にこっそり抜け出したキャッシュ自伝Cash 』の中で「もう誰もジェリー・リーのピアノにも合わせなかったし、エルヴィス追いもしなかった」と記したセッション最中フィリップス地元紙『Memphis Press-Scimitar 』に電話をし、エンターテイメント記事担当ボブ・ジョンソンUPI通信社の代表Leo Soroca と写真家伴ってスタジオにやって来た。セッションについてのジョンソンによる翌日記事には『ミリオン・ダラー・カルテット』との見出しがついた。この記事にはプレスリーピアノ演奏し、その周りルイスパーキンスキャッシュ取り囲む写真掲載された。なおトリミングされていない原版写真にはピアノの上座ったエヴァンズ写っている。

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