レコーディング・セッション
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「フリーホイーリン・ボブ・ディラン」の記事における「レコーディング・セッション」の解説
1961年11月、ディランはジョン・ハモンドのプロデュースのもと20歳でデビュー・アルバムを録音し、12月、西4番ストリートに借りていたアパートで恋人のスーズ・ロトロと一緒に暮らし始める。1962年1月、音楽出版社リーズ・ミュージック・パブリッシング社の子会社であるダッチェス・ミュージック社と契約。2月、トピカル・ソングを紹介する雑誌『ブロードサイド』誌が創刊された。こうした中でディランは多くの自作曲を作り始める。 レコーディングは、ニューヨークのコロムビア・レコーディング・スタジオにて1962年4月から1963年4月までの1年間に渡り、数回のセッションが断続的に行われた。アルバムには当初『ボブ・ディランズ・ブルース』の仮タイトルがつけられていた。 1962年4月24日録音 サリー・ギャル - Sally Gal ランブリング・ギャンブリング・ウィリー - Rambling Gambling Willie ザ・デス・オブ・エメット・ティル - The Death Of Emmett Till トーキン・ジョン・バーチ・パラノイド・ブルース - Talkin' John Birch Paranoid Blues、他 1962年4月25日録音 レット・ミー・ダイ・イン・マイ・フットステップス - Let Me Die in My Footsteps トーキン・ハヴァ・ナギラ・ブルース - Talkin' Hava Negeilah Blues ベイビー、プリーズ・ドント・ゴー - Baby, Please Don't Go トーキン・ベア・マウンテン・ピクニック・マサカー・ブルース - Talkin' Bear Mountain Picnic Massacre Blues、他 6月、ロトロが留学のためにイタリアのペルージャに出発。 1962年7月9日録音 ベイビー、アイム・イン・ザ・ムード・フォー・ユー - Baby, I'm in the Mood for You 風に吹かれて - Blowin' in the Wind クイット・ユア・ロウ・ダウン・ウェイズ - Quit Your Low Down Ways ワン・モア・チャンス - Honey, Just Allow Me One More Chance ダウン・ザ・ハイウェイ - Down the Highway ウォリッド・ブルーズ - Worried Blues、他 7月13日、音楽出版社のウィットマーク社と正式に契約。9月22日、オールスター・フーテナニーの一員としてカーネギー・ホールに初出演し「はげしい雨が降る」他を演奏。 1962年10月26日録音 ギターのブルース・ラングホーン、ベースのレナード・ギャスキン、ドラムスのハーブ・ラヴェルらのバック・バンドを導入した初めてのレコーディング。 コリーナ、コリーナ - Corrina, Corrina (アルバム・バージョン)、他 1962年11月録音 ゴチャマゼの混乱 - Mixed Up Confusion、他 1962年11月14日録音 くよくよするなよ - Don't Think Twice, It's All Right コリーナ、コリーナ - Corrina, Corrina (シングル・バージョン) キングスポート・タウン - Kingsport Town、他 1962年12月6日録音 ヒーロー・ブルース - Hero Blues ワッチャ・ゴナ・ドゥ? - Whatcha Gonna Do オックスフォード・タウン - Oxford Town アイ・シャル・ビー・フリー - I Shall Be Free はげしい雨が降る - A Hard Rain's a-Gonna Fall、他 12月中旬、イギリスのテレビ・ディレクター、フィリップ・サヴィールに誘われBBCテレビのドラマ『マッドハウス・オン・カッスル・ストリート』に出演するためディランはロンドンに渡り、ドラマの中で「風に吹かれて」他を演奏。またフォーク・クラブの「トゥルバドール」やパブを訪れ、マーティン・カーシーやボブ・ダヴェンポートらロンドンのフォークシンガー達とも交流を持つ。1963年1月、イタリアでツアー中だったオデッタとそれに同行していたアルバート・グロスマンに合流するため、ディランはイギリスからローマに渡る。恋人のロトロと連絡が取れるのではないかと期待していたが、知らない間にロトロはイタリアを発ちニューヨークに戻ってしまっていた。ロンドンに引き返して再びマーティン・カーシーらと会い、1月16日、ニューヨークに戻る。 ディランとロトロは再び一緒に暮らし始め、2月、ジャケット撮影。 1963年4月24日録音 ハモンドからトム・ウィルソンにプロデューサーが交代。 北国の少女 - Girl from the North Country 戦争の親玉 - Masters of War ウォールズ・オブ・レッド・ウィング - Walls of Red Wing 第3次世界大戦を語るブルース - Talking World War III Blues ボブ・ディランの夢 - Bob Dylan's Dream アルバムのプロモーション用テスト盤は、12月までのセッションで録音された「レット・ミー・ダイ・イン・マイ・フットステップス」、「ランブリング・ギャンブリング・ウィリー」、「トーキン・ジョン・バーチ・パラノイド・ブルース」等の4曲を含み構成されていた。5月12日、ディランは人気番組『エド・サリヴァン・ショー』への出演が決まるが、テレビ局の幹部が「ジョン・バーチ」の歌詞に難色を示し、演奏内容を変更するよう申し入れたためディランと決裂し、ディランは出演そのものを拒否した。この件の後、アルバムは同曲を含む4曲を4月のセッションのものに差し替えて正式にリリースされている。4月のセッションは次のサード・アルバムのためであるとも考えられているが、『エド・サリヴァン・ショー』の件の前から曲を差し替えることは決定していた可能性もあり、そのために4月のセッションが開かれたともみられている。
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レコーディング・セッション
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「ボブ・ディラン (アルバム)」の記事における「レコーディング・セッション」の解説
1961年、ニューヨーク・グリニッジ・ヴィレッジのフォーク・リバイバルのムーブメントの中、コロムビア・レコードのプロデューサーであったジョン・ハモンドはフォーク・アーティストを探していた。9月、そのうちの一人であった女性シンガーのキャロリン・ヘスターのアルバムのレコーディングで、ディランはヘスターからハーモニカの演奏を依頼される。準備のため、ディランはヘスターと当時結婚していたリチャード・ファリーニャの2人のアパートメントを訪れ、そこで初めてハモンドと会う。ディランはギターとハーモニカを演奏しヘスターのバックで歌ったが、ハモンドが特別の関心を払っているとは思わなかった。しかしその演奏を見たハモンドは、この時からディランを気に入っていた。 9月26日、グリーンブライアー・ボーイズの前座としてこの日から2週間の予定でフォーク・クラブ「ガーディス・フォーク・シティ」に出演していたディランは、取材に来た音楽ジャーナリストのロバート・シェルトンのインタビューに答え、9月29日、ニューヨーク・タイムズ紙にディランを賞賛するシェルトンの記事が掲載された。9月30日、ヘスターとのレコーディング・セッションが行われ、順調に録音を終えた帰り際、ディランはハモンドにコントロール・ブースへ呼ばれて自分のレコードを出そうと聞かされる。ディランは自分の記事をみんなに見せて回っていたが、ハモンドもこの日の朝に読み、記事が功を奏していた。 10月、正式契約の前に「ニューヨークを語る」などを歌ったデモが行われたとみられている。ハモンドのオフィスで契約書にサインをしたディランはある写真に気づく。それはブルース・ギター奏者でシンガーのジープと名のる男の写真で、以前ディランはジープの実家を訪ね、そこにあった素晴らしいレコード・コレクションを聴いたことがあった。実はこのジープがハモンドの息子ジョン・ハモンド・ジュニアだった。ハモンドは息子からもディランのことを聞いていたのだった。 レコーディングはジョン・ハモンドのプロデュースのもと、11月20日と22日、ニュー・ヨークのコロムビア・レコーディング・スタジオで行われた。かかったコストは$402だったと伝えられている。いずれかのセッションには、当時恋人だったスーズ・ロトロも立ち会っていた。 1961年11月20日録音 彼女はよくないよ - You're No Good 死をみつめて - Fixin' to Die ヒー・ウォズ・ア・フレンド・オブ・マイン - He Was a Friend of Mine 朝日のあたる家 - House of the Risin' Sun ニューヨークを語る - Talkin' New York ウディに捧げる歌 - Song to Woody 連れてってよ - Baby, Let Me Follow You Down 死にかけて - In My Time of Dyin' 1961年11月22日録音 マン・オン・ザ・ストリート - Man on the Street Ramblin' Blues("(As I Go) Ramblin' Round"とも、作詞・作曲: ウディ・ガスリー) いつも悲しむ男 - Man of Constant Sorrow プリティ・ペギー・オウ - Pretty Peggy-O 僕の墓をきれいにして - See That My Grave Is Kept Clean ゴスペル・プラウ - Gospel Plow ハイウェイ51 - Highway 51 Blues 貨物列車のブルース - Freight Train Blues ハウス・カーペンター - House Carpenter 自身の初レコーディングはディランにとって難しい作業だった。各曲あまり多くのテイクが録られず、別テイクを録りたいかハモンドに聞かれると、ディランは「ノーと言いました。同じ曲を続けて2度歌う自分の姿は想像ができない。そんな恐ろしいこと。」と述べている。 現在アウトテイクのうち「ヒー・ウォズ・ア・フレンド・オブ・マイン」「マン・オン・ザ・ストリート」「ハウス・カーペンター」の3曲が、『ブートレッグ・シリーズ第1〜3集』(1991年)に収録されている。「朝日のあたる家」は、1964年にプロデューサーのトム・ウィルソンによりオーバーダブが加えられたオルタネイト・ミックスが Highway 61 Interactive CD-ROM (1995年)に収録されている。 ジャケット写真は、写っているアコースティック・ギターの弦の太さからみるに、裏返しの写真である。
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レコーディング・セッション
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「ザ・ウォール」の記事における「レコーディング・セッション」の解説
アルバム制作は1978年7月よりイギリス・ロンドンにあるバンドが所有するブリタニア・ロウ・スタジオにて開始された。ロジャー・ウォーターズは、プロジェクトの規模の大きさ、複雑さ、そしてデヴィッド・ギルモアとの軋轢も考慮して、外部から協力者を仰ぐことを考えた。その結果、アリス・クーパーやキッスなどを手掛けたボブ・エズリンが招かれた。当時のウォーターズの結婚間もない妻キャロラインがエズリンの秘書を務めた事があり、エズリンの招聘もキャロラインの推薦によるものであった。 ブリタニア・ロウ・スタジオにてエズリンはギルモアらとともにウォーターズのデモテープを分析するなどの作業に当たっていたが、レコーディング途中でイギリスを去ることになった。ノートン・ウォーバーグの件で財政難に陥って税金対策を講じざるを得なくなったためである(このためブリタニア・ロウ・スタジオでレコーディング作業されたことは公表されていない)。アルバムのレコーディングは、フランスのスーパーベア、ロサンゼルスのプロデューサーズ・ワークショップ、ニューヨークのCBSスタジオで録音された。 シングルリリースもされた「アナザー・ブリック・イン・ザ・ウォール (パート2) 」では、歌詞の「教育なんかいらない」という一節に説得性を持たせるために、ウォーターズとエズリンはその一節を実際に子供に歌わせるというアイデアを思いついた。歌っているのは、エズリンからの指示を受けたニック・グリフィスがブリタニア・ロウ・スタジオのすぐ近くにある小学校の音楽教師に掛け合って参加してもらった4年生23名によるものである。 レコーディングが終盤を迎えた1979年秋、リチャード・ライトがウォーターズの圧力によって解雇されるという事件が起きる。『ザ・ウォール』プロジェクトではほとんど創作活動を行わなかったことや、同年の夏にギリシャへ家族と療養へ行き、レコーディング活動へ戻ろうとしなかったことが逆鱗に触れ、ウォーターズは他のメンバーに対し「ライトの解雇に同意しなければ、『ザ・ウォール』プロジェクトを中止する」と迫った。当時財政難に陥っていたことから他のメンバーもウォーターズの要求に応じざるを得ず、ライトはバンドのメンバーから正式に外されることになった。ライトはこの後「雇われミュージシャン」としてバンドに同行し、「ザ・ウォール」のコンサートツアーも全公演こなした。
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レコーディング・セッション
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「ミリオン・ダラー・カルテット」の記事における「レコーディング・セッション」の解説
このジャム・セッションは全くの偶然から始まった。『ブルー・スエード・シューズ』ですでに成功していたカール・パーキンスが兄弟のクレイトン、ジェイおよびドラム奏者のW・S・ホランドと共に古いブルース曲『マッチボックス』の改訂版の収録のためにスタジオに来ていた。サン・レコードのオーナーのサム・フィリップスはこのロカビリーの薄い楽器編成を重厚にしたがっており、メンフィス以外で知られていない新人のジェリー・リー・ルイスをピアノ奏者としてパーキンスのセッションに連れてきた。昼過ぎ、まだ21歳であったエルヴィス・プレスリーがガールフレンドのマリリン・エヴァンズと共にスタジオに立ち寄った。 コントロール・ルームでフィリップスと軽く話した後、エルヴィスはパーキンスのセッションの再生を聴き、意見を言った。そして彼はスタジオに入っていき、しばらくしてジャム・セッションが始まった。このセッションの最中、カントリー・チャートでいくつかヒット曲を生み出していたジョニー・キャッシュが現れた(キャッシュは自伝『Cash 』で、スタジオに最初に到着していたキャッシュがパーキンスのセッションを聴きたかったのだ、と記した)。この日、技術を担当したジャック・クレメントは後に「これを録音しないのはもったいない」と独り言を言って録音を開始したと思い返した。何曲か演奏した後、エルヴィスとエヴァンズはジェリー・リーがピアノを演奏している間にこっそり抜け出した。キャッシュは自伝『Cash 』の中で「もう誰もジェリー・リーのピアノにも合わせなかったし、エルヴィスを追いもしなかった」と記した。 セッションの最中フィリップスは地元紙『Memphis Press-Scimitar 』に電話をし、エンターテイメント記事担当のボブ・ジョンソンがUPI通信社の代表Leo Soroca と写真家を伴ってスタジオにやって来た。セッションについてのジョンソンによる翌日の記事には『ミリオン・ダラー・カルテット』との見出しがついた。この記事にはプレスリーがピアノを演奏し、その周りをルイス、パーキンス、キャッシュが取り囲む写真が掲載された。なおトリミングされていない原版の写真にはピアノの上に座ったエヴァンズが写っている。
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