キャリアの初期
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「パウリナ・クチャルスカ=ラインシュミット」の記事における「キャリアの初期」の解説
19世紀後半のロシア領ポーランド王国の法律では、ポーランド語教育やポーランド人民族運動が禁止されていたほか、女性は不利な立場に置かれていた。クチャルスカは1879年、友人のユゼファ・ボヤノフスカ(ポーランド語版)と協力してワルシャワ史上初の「女性のための科学読書室」を開設したが、当時それは非合法の施設とされた。クチャルスカは家計に余裕がなかったため、ジグムント・サルネツキ (Zygmunta Sarneckiego) 編集のワルシャワの保守系雑誌『エコー』に1881年に記事を投稿し、ジャーナリストとしてデビューする。1884年から1887年にかけて、文学者マリア・コノプニツカ(ポーランド語版、英語版)の主宰によるポーランド史上初のフェミニスト雑誌『シヴィット』(Świt、ポーランド語で「夜明け」の意)に記事が載る。1880年代半ばにはワルシャワ慈善協会の第3縫製室に女性組織を結成した。1880年代末ごろには右派系日刊紙『クーリエル・ヴァルシャフスキ(ポーランド語版)』と提携関係を結び、以降生涯にわたり寄稿した。 クチャルスカは1人の息子をもうけた。しかしパフツカによると、クチャルスカはスタニスワフが罹患していた性病に感染し、それが原因で片目を失明したとされ、このため1885年にスタニスワフと離婚した。幼い息子の養育はスタニスワフが行った。感染症による循環器系の健康障害が生じていたにも関わらず、クチャルスカは自らの家財を売却して得たお金で留学した。1885年から1887年にかけてはスイス・ジュネーブで、1887年から1889年にかけてはベルギー・ブリュッセルでそれぞれ自然科学を修めた。クチャルスカは留学中にポーランド移民のコミュニティでの生活を経験したほか、西ヨーロッパで実施されていたフェミニズム運動に参加するようになった。 そんな中で、ポーランドの作家でフェミニストのマリア・ローヴィ(ポーランド語版、英語版)と出会い、1889年6月25日から30日まで彼女の主催によりフランス・パリで開催された「女性の仕事と組織に関する国際会議」に「女性の仕事と組織」部門の副代表として出席した。クチャルスカはこの会議で、ポーランドの女性が政治的あるいは社会的にどのような状況に置かれているかをテーマに講演を行った。この会議には、ワルシャワの新女子工芸学校の校長、アレクサンドラ・コリンスカ (Aleksandra Korycińska) も参加していた。この会議はクチャルスカの後の活動に大きな影響を与えた。彼女はポーランドに帰国した後、より一層積極的にフェミニズム運動に参加するようになる。パリ滞在中にはヨーロッパの多くのフェミニストと知り合い、帰国後もドイツの作家アニータ・アウグスプルク(英語版、ドイツ語版)やリーナ・モルゲンシュテルン(英語版、ドイツ語版)のほかにフランスの作家マリア・ドレームらと文通を行った。
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