芸能界デビュー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 16:51 UTC 版)
1995年春、ソニーのラジカセ「Dr.CHANGER」のCMの企画を持ってきたディレクターに見出され、石野卓球 プロデュースにより同年7月1日に「篠原ともえ+石野卓球」名義のシングル「チャイム」でデビュー。 1996年、フジテレビ『HEY!HEY!HEY!』でのダウンタウンへの機転の利いた傍若無人ぶりや レギュラー出演の『LOVE LOVE あいしてる』ゲストの楽屋襲撃コーナー「篠原ともえのプリプリプリティ!!」で人懐こいハイテンションなキャラクターで人気を得ると、数々のバラエティ番組に出演。 1997年3月1日石野卓球プロデュースによる最後のシングル「ウルトラリラックス」を発表。この年に東京都立八王子工業高等学校(現・東京都立八王子桑志高等学校)・応用デザイン科を卒業。高校の推薦により戸板女子短期大学・被服科に進学するが、裁縫技術を学ぶため翌年に文化女子大学短期大学部・服装学科を一般受験で編入し直した。 同年4-6月、ドラマ『FiVE』で連続ドラマ初出演。同年8月には映画『デボラがライバル』で銀幕デビュー。 1998年、初のバラードシングル「ココロノウサギ」を発表。エステティックサロン・たかの友梨のTVCMとして本人も出演している。前年からCMで共演していたユースケ・サンタマリアとのユニット「カロゴンズ」として2枚のシングルを発表。同年8月発表のアルバム『MEGAPHONE SPEAKS』からはセルフ・プロデュースのもと、作曲を始める。 1999年、20歳の誕生日記念の日本武道館ライブでは一階アリーナ席をステージにし「篠原ともえお誕生日会 IN しのドーム」と題し無料ライブを行った。
※この「芸能界デビュー」の解説は、「篠原ともえ」の解説の一部です。
「芸能界デビュー」を含む「篠原ともえ」の記事については、「篠原ともえ」の概要を参照ください。
芸能界デビュー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 06:37 UTC 版)
小学校3年生の頃より「劇団杉の子」に所属し、子役として活躍していた。初舞台は轟夕起子主演の舞台『人形の家』で、主人公・ノラの長男役。その他、婦人雑誌のモデルの活動などもしていたが、子役活動は約2年で辞める。中学生時代の部活は野球部でセカンドのレギュラー、高校生時代の部活はバスケットボール部。高校時代に出会った菅原進と仲良くなり、駒澤大学を中退後のしばらくの間、菅原進が結成したバンドビリーバンバンでコンガを叩いていたこともあった。 せんだは服部栄養専門学校に通いつつ、ムッシュ中野という芸名でビリーバンバンの付き人兼司会を務めることとなったが、その仕事が他のバンドにも広がり、アンドレカンドレ(井上陽水)、吉田拓郎などのコンサートの司会を務めた。 菅原進がボイストレーニングに通っていた浜口庫之助のつてで、世志凡太の運転手や世志が加わっていたフランキー堺のバンドの巡業に加わるなどの仕事を経て、ビリーバンバンのコンサートに出演していたせんだを見ていた上野修にスカウトされる形で、上野がディレクターを務めていた、坂本九がメインパーソナリティーを務めるラジオ番組『東芝ワイドワイドサンデー』(ニッポン放送)のレポーターの仕事を得ることとなった。
※この「芸能界デビュー」の解説は、「せんだみつお」の解説の一部です。
「芸能界デビュー」を含む「せんだみつお」の記事については、「せんだみつお」の概要を参照ください。
芸能界デビュー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/04 06:15 UTC 版)
2005年8月、湖南衛星テレビの歌番組超級女声(スーパーガールズ)で、全国の人気を集めて優勝。全国の視聴者の3,528,308票(携帯電話からの有償投票)を獲得し、一夜にして中国トップアイドルの座についた。フォーブス2005年中国著名人ランキングでは4位に選ばれている。 李宇春は一般投票で選ばれるアイドルとして中国で首位を走り、2005年 “超級女声”(スーパーガール)の音楽試合グランプリ優勝戦時、全国の3億5千万の視聴者の投票を獲得した。中国で最も社会への影響力があり、伝奇性のある女性歌手として、国内外の広範囲のメディアの注意を引き、2度『タイムズ』に載っている。“アジアの英雄”と誉められ、イギリスロイター通信、イギリス《Glamour》、ドイツ《Stern》は、称賛はさらに増えると、皆李宇春について報道している。
※この「芸能界デビュー」の解説は、「李宇春」の解説の一部です。
「芸能界デビュー」を含む「李宇春」の記事については、「李宇春」の概要を参照ください。
芸能界デビュー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 04:51 UTC 版)
1990年、講談社のミスマガジン・グランプリに選ばれて芸能界にデビュー。雑誌『DELUXEマガジンORE』の巻頭で、眼帯ブラと呼ばれたビキニ姿を披露。90cm・Fカップのバスト(当時)を武器に、"巨乳グラビアアイドルの草分け"として活躍。1992年、フジテレビ「F-PROMOTION」イメージガールを務め、人気レースクイーンとして注目される。 その後、テレビ・ラジオに進出。1992年『ギルガメッシュないと』の司会で初レギュラー(1993年まで)。1993年はテレビ・ラジオ合わせてレギュラーが週7本あった。1994年『ぷるぷる 天使的休日』で映画初主演、またフジテレビ系『ボクたちのドラマシリーズ・幕末高校生』でドラマ初主演を務めた。1996年から約10年間に渡りアース製薬「バスロマン」のCMに出演し、「Let's!バスロマン」のフレーズで一斉を風靡。 デビュー時から野田義治が社長を務めていたイエローキャブに所属していたが、2000年6月に個人事務所「ウエルメイド」を設立し、独立する。 2009年12月、38歳にしてヘアヌード写真集『Fumming』を発売した。 2014年3月、TBS系列『サンデージャポン』にて、7年ぶりにテレビ出演した。 2021年11月、15年振りとなる『バスロマン』のCMに出演することが発表され、動画サイトでメイキングやインタビューが公開された。
※この「芸能界デビュー」の解説は、「細川ふみえ」の解説の一部です。
「芸能界デビュー」を含む「細川ふみえ」の記事については、「細川ふみえ」の概要を参照ください。
芸能界デビュー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 22:52 UTC 版)
幼少期から藤沢市の安田バレエ教室でクラシックバレエを習う。 13歳だった1986年、本名の「高岡佐紀子」名義で雑誌『セブンティーン』のモデルとして芸能活動を開始。 14歳だった1987年5月4日、東京厚生年金会館で行われた「ミスマガジンアイドル夢工場'87」の最終審査に進出するも、落選。 同年、バレリーナになるつもりで海外留学の資金集めをどうするか考えていた所、靴メーカー「マドラス」主催の「第3回シンデレラ・コンテスト」を知り、優勝賞金500万円につられて深く考えずに応募。その回の出場者の中で最年少だったが優勝し、直後にCMデビューが前提のコンテストだったことを初めて知る。 1988年4月、「マドラス」のテレビCMで俳優・岡田眞澄と共演。同月30日、「高岡早紀」の芸名でCMソングの『真夜中のサブリナ』をリリースし、アイドル歌手としてもデビューした。同期デビューの歌手はWink、田中律子、西田ひかるら。 1989年10月7日公開の映画 『cfガール』にて女優デビュー。1990年には映画『バタアシ金魚』に出演した。 意図せず芸能界デビューすると次々に仕事が決まったことで、当初思っていたバレリーナになる夢は断念した。ただし、高校3年生になった頃に周りが進学や就職を考える中、高岡も「このままでいいのか?」と迷いが生まれたことが発端となり、93年頃に当時の事務所を辞めて数ヶ月間ロンドンに留学してバレエ教室と英会話スクールに通った。 堀越高等学校を卒業した1990年に、ハウスフルーツインゼリーのCMに出演。 1992年は写真集『WAOOOO!!』を出版する。
※この「芸能界デビュー」の解説は、「高岡早紀」の解説の一部です。
「芸能界デビュー」を含む「高岡早紀」の記事については、「高岡早紀」の概要を参照ください。
芸能界デビュー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 21:25 UTC 版)
2001年、ラジオ番組『西川貴教のオールナイトニッポン』(ニッポン放送)のミスリスナー候補に選出され、同年11月“全員バスト85cm以上”を売りにしたアイドルユニット「プチエンジェル」の第2期生に選ばれる。 古賀美智子・椎名真白・朝比奈えりとともに清純路線の正統派アイドル東琴乃として2002年前半まで活動した。同ユニット解散後は、グラビアを中心に活動するが、2002年末より休業状態になる。2003年末から琴乃と改名して活動を再開したが、再び休業状態に戻る。 また、本名の吉野琴絵(琴乃に再改名後もバンド活動の際には、しばしば吉野琴絵の名前を使っている)で、バンド「BAND8」のヴォーカルとして活動していたが、2006年10月頃に所属事務所を辞め、音楽活動に専念するとすると自身のブログ「☆KoTo☆ぶろぐ」で語り、同年11月に新バンド「EMOELMO」を結成した。なお、バンド活動は現在も継続中である。『音楽ば〜か』によると音楽歴は小学校1年生からとのこと。 2004年琴乃でスーパーぷるるん選手権(ヤングジャンプ)に出場した。
※この「芸能界デビュー」の解説は、「琴乃」の解説の一部です。
「芸能界デビュー」を含む「琴乃」の記事については、「琴乃」の概要を参照ください。
芸能界デビュー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 19:33 UTC 版)
千代田区の一橋中学を経て明星学園高等学校入学。同校在学中の1960年、通学姿を見初めた篠田正浩と寺山修司に路上でスカウトされ、フジテレビ系ドラマ『東京タワーは知っている』でデビュー。芸名は秋山庄太郎に付けてもらった。「加賀だったら、『まりこ』が明るくていいじゃないか」とのことだった。 松竹と5年間の新人契約を交わして1962年に『涙を、獅子のたて髪に』で映画デビュー。中尾彬、山本陽子らと共演した主演映画『月曜日のユカ』は、加賀まりこの代表作の一つである。その後数々の映画やドラマに出演し、小悪魔的なルックスと高い演技力で人気女優となった。反面、常に歯に衣着せぬ発言、かつ強気であったため「生意気」のレッテルを貼られ、尖ったキャラクターイメージでお馴染みとなり、その言動が波紋を呼ぶこととなった。
※この「芸能界デビュー」の解説は、「加賀まりこ」の解説の一部です。
「芸能界デビュー」を含む「加賀まりこ」の記事については、「加賀まりこ」の概要を参照ください。
芸能界デビュー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 18:04 UTC 版)
恩師である松田敏江の後押しもあって、堀越高等学校2年の時に時代劇『江戸の鷹 御用部屋犯科帖』で芸能界デビュー。1980年2月21日には「赤と黒」でキャニオンレコードより歌手デビューした。次のシングル「涼風」でTBS系『ザ・ベストテン』へ10位(2週連続)にランクインを果たし、同年の第6回日本テレビ音楽祭で最優秀新人賞を受賞。「あなた色のマノン」では日本レコード大賞などで新人賞を獲得。大晦日には『第31回NHK紅白歌合戦』に初出場。姉・宏美との姉妹同時ソロ出場は紅白史上初であった。 子どもの頃からおとなしく女性らしい性格であるが、デビュー後は楽曲制作に関してしっかりと意見を述べ、意志の強い一面も見せ始める。当時の担当プロデューサーである渡辺有三は、作品づくりにおいて、この点に大きく影響を受けたと語っている。 1984年ごろから俳優としての活動も増え、同年は山田太一ドラマ『真夜中の匂い』、『スクール☆ウォーズ』にレギュラー出演した。 1985年、20枚目のシングル「タッチ」が自身最大のヒット曲となり、年末に開催された『第27回日本レコード大賞』で金賞を受賞。21枚目のシングル「愛がひとりぼっち」では1985 FNS歌謡祭で優秀歌謡音楽賞を受賞、翌年1986年にはB面の「青春」が 第58回選抜高校野球大会の入場行進曲に起用された。
※この「芸能界デビュー」の解説は、「岩崎良美」の解説の一部です。
「芸能界デビュー」を含む「岩崎良美」の記事については、「岩崎良美」の概要を参照ください。
芸能界デビュー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 14:58 UTC 版)
1975年4月25日、「天まで響け岩崎宏美」のキャッチフレーズで1975年4月25日「二重唱 (デュエット)」でデビュー。同期デビューの女性歌手では小川順子、太田裕美、岡田奈々、片平なぎさなどがいる。2枚目の「ロマンス」が90万枚近い大ヒットとなり、「心のこり」の細川たかしとともにこの年の新人賞を多数受賞する。また同年末の第26回NHK紅白歌合戦に、紅組歌手のトップバッターとして初出場を果たし「ロマンス」を歌唱した。 1976年3月、3枚目のシングル「センチメンタル」が第48回センバツ高校野球大会の入場行進曲に初めて選ばれる。後に妹の良美も1986年に「青春」(テレビアニメ「タッチ」副主題歌)が第58回センバツ高校野球大会の入場行進曲に選出されており、姉妹ともに同大会入場行進曲に選ばれた唯一の歌手となっている。堀越高等学校在学中は、午前中は高校に通って授業を受け、午後からは芸能活動という日々で、都内の仕事場へはプロダクションの送迎車ではなく自力で電車移動していた。 1977年3月に堀越高等学校を卒業。同期生には森昌子、岡田奈々、池上季実子などがいる。同年秋に発売された初のバラード「思秋期」がヒットし、第19回日本レコード大賞歌唱賞を受賞。1979年7月にはロックミュージカル『ハムレット』にオフィーリア役で出演した(中野サンプラザホール、ハムレット役は桑名正博)。
※この「芸能界デビュー」の解説は、「岩崎宏美」の解説の一部です。
「芸能界デビュー」を含む「岩崎宏美」の記事については、「岩崎宏美」の概要を参照ください。
芸能界デビュー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 16:54 UTC 版)
1960年6月13日、東京都荒川区東尾久に生まれ、山田を入れて兄、弟と両親の5人家族。幼稚園に入る前に森下町の母の実家に家族で転居し、祖父母が以前経営していたアパートを一つの大きな家に改造し、山田の家族、祖父母、母の兄妹という大所帯となって暮らし始めた。 川村中学校、川村高等学校卒業。この間物真似を披露したことで学校中に名前が知られるようになる。1979年、川村短期大学(現在の川村学園女子大学)に入学した後、落語家を目指して早稲田大学の寄席演芸研究会へ入部し、「可愛家マッハ」の芸名で活動する。当時は5代目三遊亭圓楽の熱烈なファンで、通っていた短大の真裏には5代目柳家小さんの邸宅があった。しかし落語家に向いていないと悟り、漫談家への転向を決意。同芸名のまま漫談に才能を発揮した。 高校1年生の頃に西城秀樹の物真似で『TVジョッキー』(日本テレビ)に出演したのを手始めに、『クイズ・ドレミファドン!』(フジテレビ)や『ひるのプレゼント』(NHK総合テレビ)に出演。『タモリの突撃ナマ放送』(東京12チャンネル、現:テレビ東京)では5週勝ち抜きするなど、数多くの素人参加番組に出演。素人時代はとんねるずとともに素人参加番組の常連として有名な存在だった。 『笑ってる場合ですよ!』(フジテレビ)火曜日のツービートが担当した人気コーナー「ブスコンテスト」に応募し、オーディションで目を付けられ、素人勝ち抜きコーナー「お笑い君こそスターだ!」に出場。ここで中学以来の持ちネタであるバスガイドのネタを披露しチャンピオンになった。プロとなって太田プロダクションに所属。1981年にバスガイドネタの『邦子のかわい子ぶりっ子(バスガイド篇)』でレコードデビューし、「右手をご覧ください、一番高いのが中指でございます」などのギャグで人気を博す。1981年の流行語「ぶりっ子」は、山田がギャグに使ったことから一般的な流行語になったとされる。 会社員である父は芸能界に入ることに反対しており、芸能界に入る際には関口宏が懸命に父を説得したという逸話がある。なお、芸能界デビュー前に関口が司会の『クイズ100人に聞きました』(TBS)に家族で挑戦し、予選で敗退している。関口とはのちに『野々村病院物語』(TBS)などで共演した。 いわゆる漫才ブームに付随する形で巻き起こったお笑いブームの潮流に乗り、若手有望株として大きな注目を集め始めた。
※この「芸能界デビュー」の解説は、「山田邦子」の解説の一部です。
「芸能界デビュー」を含む「山田邦子」の記事については、「山田邦子」の概要を参照ください。
芸能界デビュー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 15:01 UTC 版)
東京都台東区出身。1976年2月18日(放映は同年3月14日)、NTVのオーディション番組『スター誕生!』の第16回決戦大会で、イルカのヒット曲『なごり雪』を歌唱。芸能プロダクション、レコード会社合わせて14社からスカウトのプラカードが上がる。同じこの決戦大会で合格し、後にピンク・レディーとなる根本美鶴代と増田恵子の二人組をおさえての最優秀賞(グランドチャンピオン)だった。当時の「スター誕生!」の審査員で、デビュー曲の作詞も手がけた阿久悠によれば、テレビ予選に合格した時点で、既に次の決戦大会の大本命として、各社スカウトマンから注目されていたという。 決戦大会後は日本テレビを交えた作戦会議が何度も開かれ、期待の新人として万全に万全を期す形で、合格から1年後の1977年3月1日に「お元気ですか」でCBS・ソニーから歌手デビュー。清水のキャッチフレーズは「ほほえみスイング まごころハミング」で、同じ1977年に女性アイドル歌手としてデビューを果たし、清水と仲の良かった榊原郁恵・高田みづえと共に当時「フレッシュ3人娘」と呼ばれていた。 後にソニーのプロデューサー酒井政利は「私は新人は自分で探すという自負心があったため、本来は『スター誕生!』とは距離を置いていましたが、山口百恵と清水由貴子だけは手がけてみたいと思えた」と語っていた。 また、当時の『スター誕生!』の司会だった萩本欽一も「同情とは別の部分で、その執念を理解した。立っているだけで哀愁を感じさせ、この子が有名になることで幸せになるなら後押ししたいと思った。それは、百恵ちゃんと清水由貴子の2人だけだったね…」と述べている。 デビュー曲はスマッシュヒットとなり、当時盛んだった賞レースにおいても数多くの新人賞を獲得。しかし、『速報!日本レコード大賞』(TBS、1977年11月22日放送)の新人賞(5人枠)争いでは清水健太郎、高田みづえ、狩人の順で新人賞受賞が確定する中、続く受賞者を決める上位2名での決選投票で太川陽介に破れた後、最後の1枠を巡って榊原郁恵と再び決選投票となり、僅差で受賞を逃すこととなった。 翌年もシングルはコンスタントにリリースされていたが、これといったヒットには恵まれず、前述の通りデビュー当初から気にかけてくれていた萩本欽一や、同じレコード会社ということで縁のあった杉良太郎の後押しもあって、次第に活躍の場をテレビドラマやバラエティ番組に移していった。歌手としてはシングル10枚、アルバムを2枚リリース。1985年、RCAレコードへ移籍し、単独名義では6年ぶりのシングル「いつか秋」が最後のリリースとなった。 萩本関連の番組に出演していることから「欽ちゃんファミリー」の1人として名前が挙げられることも多かった。また、80年代末から90年代前半にかけてオンエアされたヤクルトのCMでは、それまでのイメージとは違う気の強い母親役を演じ、トータルで十数本ものシリーズが制作された。本人の談によれば、このCMシリーズの中に登場した亀(息子役の幼稚園児のペット)がきっかけで、以後、自分でも亀グッズの収集を趣味にしていたという。 90年代に入ると情報番組のレポーターとしてのテレビ出演が増え、『徹子の部屋』に出演した際は、レポーターの仕事で得た知識が自分の家を買うときに非常に役に立ったと語っている。またこの時期、『噺家カミサン繁盛記』での主演、NHK朝の連続テレビ小説『春よ、来い』のレギュラー、その他数多くの2時間ドラマにも出演。2000年には「フジテレビ、今世紀最後の昼ドラ」(制作は東海テレビ)と銘打った『幸福の明日』で、子供の取り違えに苦悩する主人公を演じ、女優としての幅を広げた。 以降は2度目となるNHK朝の連続テレビ小説『こころ』のレギュラーをはじめ、連続ドラマやシリーズドラマへのゲスト出演、映画『ランドセルゆれて』での主演等、中堅女優として順調な活躍ぶりを見せていたが、そのさなかの2006年「母親の介護も兼ねてゆっくりしたい」という本人の希望により、デビュー以来所属していた芸映から独立する。 後述の実妹の著書によれば、この時点での母親の容態は白内障の手術がうまくいかず視力が低下していたことを除けば、少なくとも後に報道されたときのような深刻な状態ではなかったという。むしろ目標に向けて突っ走る性格の姉が、仕事を辞めることで気持ちのハリを失うことの方を心配し、事実上の引退には内心反対だったものの、仕事面では相応のポジションを得てきていた頃だっただけに人一倍責任感が強い姉の「事務所に迷惑はかけられない」という決心を前に、とうとう言い出せなかったと語っている。 事務所独立後は、長年レギュラーを務めていた山梨放送の情報バラエティー番組『ともちゃん家の5時』(1999年10月〜2010年3月)のみを残し、それ以外の仕事は引き受けないというスタンスで芸能活動を続けていたが、2007年9月、番組のリニューアルに伴う降板をもって芸能界から完全に引退した。
※この「芸能界デビュー」の解説は、「清水由貴子」の解説の一部です。
「芸能界デビュー」を含む「清水由貴子」の記事については、「清水由貴子」の概要を参照ください。
- 芸能界デビューのページへのリンク