付き人から芸能界デビューを経てドリフターズ入り
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「志村けん」の記事における「付き人から芸能界デビューを経てドリフターズ入り」の解説
1968年2月、高校卒業間際にいかりや長介の家へ直接押しかけ、弟子入りを志願する。 由利徹、コント55号、ドリフのいずれに弟子入りするか迷ったが、音楽性の面からドリフを選んだ(高校2年時に由利徹を訪ねて弟子入りを志願したが、大学に行ったら気が変わると言われ断られている、これがきっかけで高卒で芸能界に入ることを決心する)。雪の降る中、いかりやの帰宅を12時間ほど待ち続けるも門前払いされたが、それでも食い下がったため根性を買われ、「ボーヤ(付き人)」が辞めてメンバーに欠員が出たらという条件で仮採用された。いかりやは後に「帰宅すると勝手に居ただけで待っててくれと言った覚えはない」と語っている。 1週間後に呼び出された後楽園ホールで、いかりやから正式にドリフのボーヤとして採用を告げられた志村は「じゃあ(高校)卒業したら来ます」と答えると、「バーカ、明日から行くんだよ青森に!」と言われ、翌日から青森巡業などへ同行させられるなどすぐに多忙となり、高校卒業式は当日の午前中だけ時間を貰い慌ただしく式に出席し、仕事に戻った。この時の月給は4500円だった。
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