現役時代とは? わかりやすく解説

現役時代(南海時代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 09:20 UTC 版)

別所毅彦」の記事における「現役時代(南海時代)」の解説

投手入団した打撃良かったことから、10月10日の対巨人戦三番左翼手として初出場。2安打放つが、自らの失策きっかけに2失点敗れた同年11月10日の対大洋戦で初登板、野口二郎投げ合い1失点完投するが、1-0敗戦投手となっている。この年はわずか2試合登板未勝利終わった。 翌1943年5月26日の対大和戦(神戸市民)でノーヒットノーラン達成。さらに、次の登板となる5月30日大和軍戦(甲子園)では1安打完封勝利収めた同年チーム勝利数26勝の半数以上となる14勝(23敗)を挙げてエース成長したこの頃最晩年沢村栄治と話す機会があった。当時別所にとって沢村憧れスーパースターであり、声をかけるのも自重するほどだったという。それでも思い切ってどうした沢村さんのような速い球が投げられるようになりますか」と聞いたところ、沢村は少し考えてから「走りなさい」と一言だけ返答したそれ以来別所走り込み大切にした。別所によればランニング下半身強化効果さることながら、肩や腕を振ることで地肩強くする効果があるという。 同年12月学徒動員令により召集を受ける。別所飛行機乗りたくて特攻隊志願するが、身体大きすぎるとの理由で叶わず、212工兵隊配属され満州の渤利に渡った。そこで幹部候補生試験受験することになり、甲種合格果たして、1944年2月松戸陸軍工兵学校入学するために内地へ戻る。終戦後免高知県南国市)で迎えた1945年11月東西対抗戦が行われると早速参加し11月23日の第1戦に登板する2年目1946年7月15日の対ゴールドスター戦(旧制高岡工専グラウンド)では7安打抑え26-0完封勝利挙げたが、この試合完封試合としてはプロ野球史上最大得点差の試合であったシーズンでは丸山二三雄25勝)に次ぐ19勝(13敗)を挙げるとともに防御率も2.47(リーグ3位)を記録して南海初優勝大きく貢献僅差競っていた巨人敗れて優勝決まった直後11月5日対中日戦で先発するが、5回途中でめまいを起こして降板。すぐに、病院に行く病名栄養失調であった戦後食糧事情の悪い中、大食漢別所監督山本一人掛け合い勝利投手になると球団から米2合をもらえるようになっていたが、それでは足りなかった。なお、試合途中で病院行ったため、この年優勝記念写真別所写っていない。 1947年には丸山に代わってエース格となる。8月10日対中日本戦では0-2敗れるが、8回を完投し67球の最少投球数の記録作るシーズンではNPB記録であるシーズン47完投別所責任投手であった49試合のうち完投でなかったのは僅か2試合という凄まじい記録残したまた、投球回リーグ最多となる448回1/3を投げ、これは1946年真田重蔵4642/3)に次ぐ戦後2位記録となっている。30勝(19敗)防御率1.84(リーグ4位)、191奪三振リーグ1位)の成績で、最多勝ベストナイン獲得この年から設立され沢村賞初代受賞者にもなった。 1948年中原宏柚木進らの加入もあって登板機会は減るが、2610敗、防御率2.05(4位)、勝率.722で最高勝率獲得し2年連続ベストナイン受賞優勝大きく貢献し別所自身最高殊勲選手獲得期待したが、監督四番打者山本一人選ばれている。 同年1月別所懇意にしていた銀座料亭小松』の娘すず結婚していたが、夫人妊娠して一軒家必要になったこと(当時別所実兄宅に借住まいしていた)、および他球団主力選手比べて別所待遇劣っていたことから、南海球団に対して一軒家報酬アップ要求するが、交渉決裂一方で別所の不満を聞きつけた巨人別所接触し移籍働きかけていた。これを受けて南海日本野球連盟提訴したため、連盟事務局裁定により、巨人10万円の制裁金を、別所は翌1949年開幕から2ヶ月間の出場停止課せられるが、結果的に別所巨人移籍認められた(別所引き抜き事件)。移籍当たって巨人から契約金50万円50万円当の一軒受け取っている。

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現役時代(巨人時代)

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別所毅彦」の記事における「現役時代(巨人時代)」の解説

1949年3月28日読売ジャイアンツへの移籍実現移籍機に千葉のある神社神主勧めで、昭から毅彦に登録名改めた。しかし、生え抜きベテラン選手強引な移籍に対して批判的で、移籍当初冷淡な態度取られたという。出場停止間中4月14日巨人南海戦に発生した三原ポカリ事件」には別所観戦しており、「南海戦にはとても投げられない」とのコメント伝わっている。球団側も南海戦の登板避け配慮をし、閉幕近い11月13日になってようやく南海戦に先発登板するが、3回7失点打ち込まれ敗戦投手となったシーズンでは2ヶ月出場停止響き防御率2.35はリーグ2に付けながら14勝9敗の成績に終わる。しかし、巨人別所加わったことで、藤本英雄24勝)以下、二桁投手を5人出すなど投手陣の厚みが増し戦後初優勝を飾る。一方でエース失った南海は4位に転落した同年日米野球来日したサンフランシスコ・シールズオドール監督から、変化球打者打ち取ることを勧められ併殺を取るための小さく鋭く曲がるカーブと、空振りを取るための大きく曲がり落ちカーブドロップ)の二種類カーブ覚えた移籍に際してアメリカ大型爆撃機B29あやかって背番号29付けていた。しかし、同年オフニューヨーク・ヤンキースリリーフエースワールドシリーズ好投しベーブ・ルース賞獲得したジョー・ペイジ(英語版)の背番号11気に入り別所背番号11変更している。 同年オフ発生した三原監督排斥運動では、別所造反側に回って連判状に判を押したとされる。しかし、議論エスカレートして球団納会連判状幹部突きつけ謝罪求める、遂に納会幹部を殴るというような話に発展してきた。そこで、トラブル危惧した別所巨人入りに際に世話になった読売新聞常務武藤三徳次第報告。これによって、読売新聞副社長安田庄司球団幹部遠征先までやってきて選手たち説得し納会事なきを得終わり連判状うやむやになった。また、同年オフにはセ・パ両リーグ分立伴って大量選手引き抜き合戦発生あまりに大規模な球界一大転機に、マスコミ傍観するばかりであったことから、前年度巨人移籍マスコミ騒ぎ立てられ別所は、この年巨人入りていれば、と思いさえしたという。 1950年22勝(11敗)で2年ぶりに20勝投手復帰するとともに防御率2.55でリーグ3位入った1951年初めオールスターゲーム開催されるが、第1戦に別所は全セ・リーグ先発として登板3回投げて三塁を踏ませず無失点抑え投球内容から勝利投手第1号となる。シーズンでは21勝(9敗)防御率2.44(4位)でいずれもタイトルには及ばなかったが、最多勝杉下茂28勝)、最優秀防御率松田清(2.01)を抑えて3年ぶりにベストナイン獲得している。 1952年6月15日松竹戦(大阪)では9回二死まで完全に抑えていたが、ブルペン捕手であった神崎安隆内野安打浴びて完全試合逃す。この試合球審務めていた金政卯一は、別所完全試合寸前だったことに気付いておらず、後に「気が付いていたら、2ストライク後のボール判定した際どいコース温情ストライク判定したかもしれない」と語っている。なお、神崎4年間のプロ在籍中、この時の安打唯一の記録だった。同年自己最多33勝(19敗)を挙げて最多勝獲得防御率も1.94で2位に付けるなど抜群働き優勝貢献し自身初の最優秀選手受賞2年連続4度目ベストナイン獲得した同年日本シリーズでは、第1戦,第4戦に完投勝利を飾ると、最終の第6戦も救援登板して4回を無失点抑えて胴上げ投手となり、日本シリーズMVP選ばれている。 1953年6月末までに10勝を挙げる7月上旬オールスターゲームでは、第1戦・第2戦と無難に投げるが、第3戦の9回表から登板するが、投球練習途中で足を滑らせ踏ん張ったところギックリ腰となり、1球も投げず降板する羽目となった。このケガのために8月中旬まで1ヶ月半も登板できず、前年度から登板機会半減し16勝(8敗)に終わり4年ぶりに20勝に到達できなかった。同年オフ来日したメジャーリーグ選抜団長であったエド・ロパット(英語版)がスクリューボール投げているのに注目31歳になり新し球種欲しいと思っていた別所は、早速投げ方教えてもらいこれをシンカーとして習得し選手寿命延ばした1954年26勝(12敗)防御率1.80(リーグ3位)と復活するが、優勝した中日エース杉下茂32勝を挙げるなど投手五冠王の活躍で、別所タイトル逃している。1955年7月9日対中日戦から7月31日の対広島戦まで49回1/3無失点当時セ・リーグ記録作るシーズンでは23勝を挙げるとともに自己最高の防御率1.33で最優秀防御率獲得し5度目ベストナイン8年ぶりとなる沢村賞受賞した同年日本シリーズでは、第7戦では古巣南海完封し胴上げ投手となるなど、7試合中5試合登板して3勝(現在のルールでは1セーブ)を挙げ1952年に続く2度目日本シリーズMVP受賞。この時の投球を、別所生涯最高の投球語っている。1956年27勝(15敗)で最多勝獲得し2度目最優秀選手6度目ベストナイン受賞した。しかし、この年日本シリーズ開幕5日前に右手人差し指中指マメ取れて調子崩し、0勝3敗,防御率10.00に終わった1957年に14勝で4年ぶりに20勝を切ると、1958年にはチームは4連覇達成するも、別所26試合で9勝に終わり13年間にわたって続けた2勝利途絶える別所同年オフ契約更改で「35試合登板」を条件入れるよう要望した。当時通算294勝であり、このままでは300勝が達成できない考えてのことであったが、監督水原茂から「選手起用法について条件を出すなんてとんでもない」と反対され、自らの非を認めて要求取り下げている。 1958年開幕から2ヶ月勝てないなどスタートでつまずくが、9月15日広島戦救援登板して5勝目挙げ通算299勝となり300勝に王手をかけるその後3回先発して3連敗するなど、あと1勝がなかなかできず苦しむが、10月14日の対国鉄戦で2回裏からのロングリリーフを1失点抑え史上二人目300勝を達成した。翌1960年4月29日302勝目挙げて通算最多勝記録更新すると、同年9勝を挙げて通算勝利を310勝まで延ばす。同年11月26日一軍投手コーチ兼任発表された。翌1961年シーズン試合での登板一度無く同年から監督就任した川上哲治支えて鬼軍曹」的役割果たし1955年以来6年ぶりの日本一奪回したのを花道現役引退1962年3月20日西鉄とのオープン戦引退試合となった通算310勝は当時プロ野球記録だったが、この記録別所引退から僅か2年後金田正一更新した別所はこれ以外にも多く投手通算記録保持していたが、巨人球団通算最多勝記録221勝)を除いた全て金田によって更新されている。

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現役時代(戦前)

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藤本英雄」の記事における「現役時代(戦前)」の解説

大学卒業当たって東京巨人軍のほか朝日軍南海軍阪急から勧誘を受ける。下関商業先輩である巨人軍平山菊二誘い受けて巨人軍代表の市岡忠男会って入団決心しシーズン途中9月25日東京巨人軍入団六大学随一豪速球投手プロ入りで、当時主将水原茂応召された直後ということもあり、9月27日の対大洋戦での初登板の際には読売新聞先発予告掲載されるなど大々的宣伝され当時巨人主催試合動員新記録16,942名)を作った。しかし、この時の藤本1か月ほど練習ができておらず調子は最低で、野口明佐藤武夫本塁打打たれ3点失い、8回からはスタルヒンリリーフ受けてようやく勝利投手となった監督藤本定義によると、藤本十分に調整をして臨んだら、当時職業野球では到底打てるはずがなく、打てないとなると「なんだ職業野球は、六大学より弱いのか」と見られてしまう。そこで、職業野球強さ見せておく必要があるため、藤本調子上がらないうちにデビューさせたという。藤本10日ほどたつと体調も万全となり、3試合目の登板となる10月6日朝日軍戦で2勝目完封で飾るとその後閉幕まで勝ち続け新人ながら無傷10連勝を果たす。 2年目1943年には、前年度26勝のスタルヒン病気で、21勝の広瀬習一応召それぞれ戦列離れる中、藤本エースとして孤軍奮闘する。まず、5月22日名古屋軍戦(後楽園)でノーヒットノーラン達成また、夏場7月16日から8月17日1か月間に8完封を含む11連勝記録し100イニングでわずか自責点2、さらに8月1日から9月15日にかけて62イニング失点打者圧倒した結局シーズンではチーム84試合中46試合先発し34勝、防御率0.73、253奪三振最多勝最優秀防御率最多奪三振三冠、さらに勝率.756で最高勝率受賞し19完封リーグ1位で、1937年春の沢村栄治1938年秋のヴィクトル・スタルヒンに次ぐ日本プロ野球史上3人目投手五冠を達成した防御率0.73、19完封は現在も日本プロ野球記録として残っている。このシーズン藤本投手として圧倒的な成績を残すが、最高殊勲選手リーグ唯一の三割打者であった呉昌征選ばれたため、惜しくも選に漏れた。なお、この年結婚して中上家の婿養子となるが、選手としての登録名は「藤本英雄」のまま引退まで通している。 1944年投手ながら3番打ち監督主将兼任人員不足戦中にあってチーム支えた25歳での監督就任日本プロ野球史上最年少記録であり、これは未だ更新されていない選手産業戦士として午前中東芝府中工場働き午後野球練習許されたが、グラウンドはどこも芋畑になっていて使えなかったため、時々ではあったが藤本のつてで代田橋にあった明治大学グラウンド借りて練習していたという。この状況の中で同年春期シリーズでは、11勝3敗の勝率.786で阪神同率首位となる。藤本選手としても須田博スタルヒン)の6勝に次ぐ5勝(2敗)、打率.320を記録して陣頭指揮チーム牽引した。しかし、夏季シリーズでは国籍理由須田出場できなくなり負担かかった藤本調子落として5勝6敗に終わる。チームも8勝11敗と負け越し主力選手がほとんど残っていた阪神優勝を掠われて巨人は7連覇逃した

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現役時代(戦後)

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藤本英雄」の記事における「現役時代(戦後)」の解説

1946年途中まで監督兼任し同年シーズン途中中島治康兼任監督として巨人復帰したのを受けて選手専任に戻る。この年近藤貞雄23勝)に次ぐ21勝を挙げ防御率2.11で再び最優秀防御率獲得。しかし、藤本巨人と再契約する時に受け取った5,000円の契約金について、球団代表市岡忠男からの「シーズン後にまた返すから一旦返してほしい」の求めに応じて返還したが、シーズン後になって返還されなかったことで球団不信感を抱くそのような状況の中で中部日本ドラゴンズ球団代表赤嶺昌志勧誘を受け、1947年中日移籍する中日への移籍については、中島との監督交代に伴う感情問題原因ともされる当時中日には清水秀雄杉浦清といった明大出身主力選手がいたが、明大関係での勧誘ではなく、かえってお互いライバルしてしまい簡単に団結はできなかったという。中日では17勝、防御率1.83(リーグ2位)を記録し清水秀雄23勝)・服部受弘16勝)とともに中日2位躍進原動力となる。しかし、シーズン後半に肩を故障8月上旬以降5連敗してしまい、勝ち星伸ばせないまま9月末で戦列離れた1948年三原修総監督の要請巨人復帰するが、巨人中部日本に対して6万円移籍金払ったともされるシーズン初めは主に外野手として出場今度は足を故障し投手へと戻らざるを得なくなった。幸い、外野手転向している間に投球ができる程度に肩は回復投手復帰向けた練習をしていた頃、同じく肩を痛めて二軍にいた宇野光雄キャッチボールをしていたところ、藤本投げたボールがぱっと右へ切れたことを宇野指摘。これをきっかけに、ボブ・フェラー投球術の本『ハウツウ・ピッチ』(あるいはハル・ニューハウザーの『ハウ・トゥ・ピッチング』)を参考にしてスライダー習得。肩の故障球威落ちたものの復活し1949年にはラビットボール導入リーグ全体投手成績悪化する中、リーグでただ一人防御率1点台(1.94)を記録自身3度目最優秀防御率タイトル獲得し勝利数24勝(リーグ2位)を挙げるなど安定した成績残した1950年6月28日西日本戦(青森)では食べ過ぎ腹痛起こした多田文久三に代わって先発務め日本プロ野球史上初の完全試合達成藤本自身前夜青森での登板はないだろう」と判断して函館から青森移動する青函連絡船の中で徹夜マージャン興じ、ほとんど睡眠とらない状態で登板して記録達成だった。しかし、この試合新聞記者は4人いたがカメラマンがいなかったため、達成時の写真がないという華々しさ残らない結末となった梅雨避けて東北北海道遠征最中前日函館での試合のあと、遠征帯同していた記者たちのほとんどが東京戻ってしまっていたという)。当時中学生だった寺山修司がこの試合観戦しており、バットボーイは少年時代なかにし礼務めたこの年26勝(リーグ3位)、防御率2.44(同2位)の好成績挙げる1951年15勝、防御率3.13(リーグ10位)の成績だったが、23勝の松田清21勝の別所毅彦差し置いて野手陣から推されて、南海ホークスとの日本シリーズ第一戦先発登板する。この試合10安打打たれながら要所押さえて完封勝利すると、第5戦でも2失点完投勝利を挙げて胴上げ投手となったその後も、1952年16勝6敗、防御率2.36(リーグ6位)、1953年17勝6敗、防御率2.08(リーグ2位)と安定的な記録を残すなど、1949年から1953年までの5年間に毎年15勝以上を記録し別所毅彦大友工とともに第二期黄金時代巨人投手陣支えた1954年に指のケガにより1勝に終わる。 1955年になると球威激減するなど急速に衰え見られて、開幕から戦列離れていた。唯一の登板となった10月11日広島戦和歌山)で、先発堀内庄の後を受けて試合中盤の5回から登板向かい風活かしたカーブ好投して1安打失点抑え200勝を達成同年限り現役引退

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現役時代(セネタース・東急時代)

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大下弘」の記事における「現役時代(セネタース東急時代)」の解説

1945年明大先輩横沢三郎招聘新設球団セネタース入団し同年11月東西対抗戦で、戦後初となる柵越え本塁打放って衝撃的なデビューを飾る。1946年20本塁打記録するが、この年リーグ本塁打数は211であり、大下リーグ全体本塁打の1割弱(9.5%)を1人打ったことになる。本塁打シェア率は2011年中村剛也が抜くまで(10.57%)、65年間日記録であったこの年本塁打左翼方向への20号本塁打除き全て右翼方向であり極端なプルヒッターだった。また、変化球お手上げで、速球ばかりを強引に引っ張るために打撃強引になり、三振もリーグダントツの80記録した20号本塁打近付くと、球場では観客報道陣20号はまだかと大合唱した大下出現敗戦打ちひしがれた国民狂喜させ、空前絶後の本塁打ブーム起こり当時リーグ代表する打者であった川上哲治でさえも本塁打狙い打撃フォーム変えたほどである。強いゴロバッティング理想論とされた時代にあって大下登場革命的であった同年206塁打川上日本記録7年ぶりに更新した1947年宇高勲国民野球連盟国民リーグ)を設立すると、国民リーグの各球団日本野球連盟選手引き抜きを図る。大下もそのターゲットとなり、大塚アスレチックスから20万円契約金勧誘受けた大下は一旦20万円受け取るものの、引き抜きに気づいた東急球団側の慰留受けて移籍思いとどまるその後20万円返却に際して代理人20万円預けたところ、それを持ち逃げされてしまう。ここで、巨人川上哲治仲介入ってアスレチックス巧みに説き伏せ丸く収めたという。このシーズンからバットに青のラッカー塗装しバット使って本塁打連発、赤バット川上と共にブーム起こす同年17本塁打打率.315で首位打者本塁打王二冠獲得51長打前年藤村富美男を抜く当時最多記録だったが、翌年には藤村が更に更新した自身の持つシーズン塁打記録233塁打まで更新したが、これも翌年青田昇が更に更新した。青バット川上の「赤バット」に対抗する意味で並木路子の「リンゴの唄」の「赤いリンゴに(中略青い空」から青い色のスプレー大下自身染めていたが、バットの木の色が透けて見え緑色近く見えたまた、塗り方よくなかったため、ボール塗料がついてしまい、審判側から苦情が来たため使用中止させられた。 1948年6月10日中日戦後楽園)では竹製バット使用し、5打数3安打猛打賞活躍見せた木製でないバット使用公認野球規則違反であり、そのこと発覚して罰金100円支払った。なお、日本プロ野球では違反バット発覚して注意使用禁止終わっており、実際に処分下ったのはこれが唯一の例である。 1949年8月18日大映戦(札幌円山)で、野口正明から日本プロ野球最長とも言われる推定飛距離170mの本塁打放つ同年11月19日大陽戦(甲子園)で、日本プロ野球史上唯一の延長無しでの1試合7打数7安打記録1950年打率.339で2度目首位打者になると、1951年には当時最高記録である打率.3832で首位打者本塁打王二冠獲得した同年リーグ2位は蔭山和夫打率.31463であり、リーグ2位との打率差.068543は日本プロ野球歴代1位記録である。また、長打率.7040も当時パ・リーグ記録

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現役時代(西鉄時代)

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大下弘」の記事における「現役時代(西鉄時代)」の解説

1954年にはラリー・レインズに次ぐリーグ2位の打率.321を残してチーム初優勝貢献しシーズンMVP獲得西鉄1956年から1958年水原茂監督率い巨人相手日本シリーズ3連覇達成する大下4番打者として稲尾和久中西太豊田泰光らと西鉄黄金時代築き上げた1959年引退現役当時背番号は、セネタース時代以来一貫して「3」であった。この番号西鉄ライオンズでは一時欠番であったが、後述東映フライヤーズ監督就任後中日から移籍した広野功9年ぶりに背番号3を付けている。

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現役時代(西武選手時代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 22:34 UTC 版)

伊東勤」の記事における「現役時代(西武選手時代)」の解説

1982年ドラフト1位正式に西武入団一軍監督広岡達朗一軍ヘッドコーチ森昌彦厳し教育受けて1年目1982年33試合2年目1983年には56試合出場経験を積む。1984年4月11日日本ハム戦で当時捕手だった黒田正宏大宮龍男折れたバット左側頭部受けて病院運ばれ、すぐ電話があり「上がってこられないか」と言われ12日二軍で一番球が速い新人渡辺久信の球を受けてゴーサイン出て一軍合流したぶっつけ本番14日阪急戦からスタメン入り同年113試合出場のうち108試合先発。初のオールスター出場同年より正捕手となる。 2000年オフ球団からコーチ兼任要請されたが「中途半端は嫌。まだ現役一本でやりたかった」と断った。 翌2001年オフフロントより現役引退監督就任要請を受けるも固辞したところ「じゃあプレーイングマネジャーでどうだ」と言われたがこれも辞退その結果作戦守備走塁コーチ伊原春樹監督昇格)。球団から「選手としてはもう評価していない」と言われたため、自らコーチ兼任申し出た2002年から2年間は一軍総合コーチ捕手として現役続行2003年限り現役引退した

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