セネタース時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 03:27 UTC 版)
「ジャーマニー・シェーファー」の記事における「セネタース時代」の解説
セネタース移籍後の1911年は打撃面が好調で、打率は自己最高となる.334(リーグ8位)を記録した。 シェーファーがはっきりと「一塁盗塁」の記録を残したのは、同年8月4日の対ホワイトソックス戦だった。9回裏、サヨナラの走者となるクライド・ミランを二塁に置き、シェーファーがバントヒットで出塁した。一・三塁の場面でセネタースはダブルスチールを仕掛けたが、ホワイトソックスの捕手フレッド・ペインは二塁へ送球しなかった。するとシェーファーは次の投球で二塁から一塁へ盗塁し、一塁に戻ってしまった。このプレーにホワイトソックスの監督をしていたヒュー・ダフィーが、審判のトム・コナリーにアウトだと抗議し、二人で言い争いをしている間に、シェーファーは再び二塁へ走ろうとした。シェーファーは一・二塁間で挟まれ、その間に三塁走者のミランが本塁を狙ったがタッチアウトになった。 すると今度はセネタース側が「フィールドに(監督含め)10人のプレーヤーが居たから今のプレーは無効」とアピールし試合は混乱した。セネタースの抗議はすぐ却下されたが、試合後主審のコナリーは、ルール上明確に禁じられていないことを理由にシェーファーの一塁への盗塁を認めた。その後1920年になって、はっきりと逆走の盗塁を禁じる文章が野球規則(7.08i)に書き加えられることになる。 セネタース移籍後のシェーファーは選手兼任だったが、コーチとしての役割が徐々に増えていった。相手チームのサイン盗みに長け、野次もうまかったそうである。しかし気まぐれな行動は相変わらずで、1912年6月8日のシカゴでの試合で退場になったときは、シェーファーはコーチスボックスでポップコーンを食べていた。またセネタースではニック・アルトロックやアル・シャクトらとコンビを組んで、両手にバットを持ち、ファウルラインの上を綱渡りのようにして歩くパフォーマンスを見せるなどして関係者を笑わせていた。シェーファーは1912年頃のスポーティングニュース紙のインタビューに対し、「コーチのユーモアはチームに必要だと思う。味方は機嫌がよくなり、相手は気が散るからね。(監督の)クラーク・グリフィスも同じ考えだと思うよ。彼は私のおふざけを煽るから」と語った。 1913年のオフにはチャールズ・コミスキーらが率いる「世界周遊野球チーム」に参加し、同年には日本でも試合を行っている。
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