ファラデー【Michael Faraday】
ファラデー (Faraday, Michael)
ファラデーという人は
イングランド・ニューイントンのサリー村(現在ではロンドン市内)に鍛冶職人の第3子として生まれる。 当時の職人は工場に仕事を奪われており、家が貧しかったファラデーは13歳で製本屋の見習いとなる。 学問好きなファラデーはここで知識を蓄え、特に化学、電気に興味をもち、本格的な化学の勉強ができる仕事につきたいと考えるようになる。
ファラデーのノート
ファラデーに幸運が訪れるのは彼が22歳のときであった。 王立研究所の化学者デービーの助手を志願するため、 デービーの講演を聴いてとったノートを製本し、これを持ってデービーに会見を申し込んだ。 ノートの出来、製本の出来ともに好印象だったようで、ちょうど助手の欠員が出たところでもありファラデーは採用される。 最初に与えられた仕事はビートから砂糖を抽出することで、さとうきびを輸入していたイギリスでは国産のビートから砂糖を作ることは、政治的、経済的に大きな意義があった。
デービーのお供で18ヶ月にわたりヨーロッパ各地を旅し、各地の学者や、研究を目にする機会に恵まれる。 デービーのもとでさまざまな研究成果をあげ、1825年、王立研究所の実験主任となる。
ファラデーの主な経歴
ファラデーの電動機
1820年、エルステッドやアンペールが相次いで発表をし、このころからファラデーも電磁気の研究を始め、1821年、電流と磁石の間の相互作用を発見する。 ある日、師であるデービーと高名な学者ウラストンとの議論を耳にし、その会話から独断で単独実験を行って”ある新しい電磁気運動について。また磁気の理論について”という論文を発表する。 これは電磁気エネルギーが機械的エネルギーに転換する最初のものであり、モーターの原理となるものであった。 論文はただちにフランス語に訳されて全ヨーロッパに広がり、これによってファラデーは一挙に第一級の科学者として認められた。 しかし、この発見はウラストンの研究に割り込んだものと王立研究所内では評価されてしまうことになる。
1824年、ロンドン王立協会の会員に選ばれる。 すでにフランス科学アカデミー、フィレンツェ科学アカデミーの通信会員には選ばれていた。 入会には保証人が必要であり、通常は10人程度である。ファラデーの場合、先のウラストンを含め29人の署名が集まった。 このころにはデービーとの関係が悪化しており、ファラデーの選出に唯一反対票を投じたのはデービーであった。
1825年、王立研究所の実験主任に就く。 これまでの収入は助手の週給30シリング(入所時は25シリング。これは製本見習いより安い。)であったが、この昇進により年給100ポンドとなった。 ファラデーを実験主任に推したのはデービーであった。 この後1853年に年金300ポンドが追加されるが、このとき時の首相メルボルンに頭をさげさせたという逸話がある。
1825年、さまざまな油の性質を調査していたファラデーは、ガス灯の容器にこびりついた油状の物質からベンゼンを発見する。
1827年、”化学処理”(Chemical Manipulation)という656ページもの化学実験の本を出版する。 ファラデー自身の経験をまとめたもので、電気配線やガス配管がなく、純度の高い化学薬品などほとんどない時代の実験技法や指図が詳細に示されており、 何十年も教科書として用いられた名著である。
ファラデーのコイル
1831年、ファラデーの電磁誘導現象を発見。 エルステッドは電気から磁気を発生させた。ならばその逆も可能ではないか?というのがはじまりであった。 二つのコイルを離して置き、片方のコイルに電流を流し、片方のコイルに検流計を接続して電流を流した直後、検流計は大きく振れたがすぐに止まった。 電流を止めると検流計は逆に振れたが、これもすぐに止まった。 磁石をコイルに近づけたり離したりするとその速さに比例して検流計の振れが大きくなることも発見し、 ロンドン王立協会で”電磁誘導の法則”を発表する。これが最初の変圧器であり、電磁気学の飛躍的な進歩の幕開けである。 数ヵ月後に、アラゴの回転磁気を利用し、銅板の周りに磁石を設置し、銅板を回すと電気が発生する装置を発明する。 世界初の発電機であり、機械エネルギーを電気エネルギーに変換する最初のものとなった。
物質1[g]当量を析出するのに必要な電気量である96500クーロンを1ファラデーと呼んでいる。 ファラデーは正イオンをカチオン(cation)、負イオンをアニオン(anion)と呼んだ。 現在の陰極(cathode)、陽極(anode)をはじめ、 電極(electrode)、電解質(electrolyte)、電気分解(electrolysis)、イオン(ion)などはファラデーの命名である。 (正確にはファラデーに助力を求められたケンブリッジの大物で哲学、数学の専門家であるウィリアム・ヒューエルの提案によるもの)
1833年、ファラデー暗部を発見する。 5[Torr]程度の真空度の放電管に電流を流すと、グロー放電の陽光柱直前に暗部が発生することに気づく。 これがファラデー暗部であり、電場が弱まり、分子の励起も電離も行われない領域である。
1837年、電気力の遠達作用を否定する。 電気の吸引・反発力は引力のように、間に何もなくても作用する力であるという遠達作用論があったが、弾性的な媒体を介して伝わるとする近接作用論を提唱する。 数学が不得手であったファラデーは電磁誘導現象を理解したとき、電磁石の上に鉄粉を撒き、磁力線を認識していた。 ファラデーの頭の中には電流の流れる線を中心とし、宇宙空間に限りなく広がる磁力線のイメージが出来上がっていたようだ。
1839年、半導体性物質を発見する。 酸化銀にランプを当てると導電性が増し冷却すると絶縁性が増加した。 世界初の半導体性物質の発見であるが、本格的に半導体が研究されるまでにはあと100年を要することになる。
1845年、反磁性の発見。 硼珪酸鉛ガラスを電磁石の間に吊るしたところ、鉄であれば磁力線の方向を向くが、磁力線とは垂直の方向を向いた。 金属、ガラス、血、水、蠟など50種のとりまぜで追試した結果、 物体が向く方向は磁力線の方向かその垂直方向のいずれかであったので、物質には磁性体と反磁性体の2種類が存在するとした。
1845年、光の偏光面が磁界により回転するというファラデー効果を発見する。偏光面は磁界の強さに比例して回転し、回転方向は磁場コイル電流の方向を同じであることが確認された。
1846年、光の電磁波説を思いつく。 これが世に出たのはホイートストンの代役で講演をしなければならなくなったことがあり、 時間が余ったので仕方なく「まだ確信には至りませんが、このようなことを考えています」と発表したところ、 反響をよんで”光線の振動に関する考察”という短い論文を書くはめになったためである。 ここで光の電磁波説について先見している。光については多くの人が議論しているがファラデーもその一人である。
1862年、彼の生涯最後となる実験を行う。 光源を磁場の中に置いて、そこから出る光に磁場が与える影響を見つけ出そうといった試みであったが、実験装置が不十分で予期した影響を検出することはできなかった。 34年後、ファラデーのこの試みを読んだオランダの若き実験家ゼーマンによって解明されることになる。
マイケル・ファラデー
”ドイツ物理学の総理大臣”と呼ばれたヘルムホルツがその妻に送った手紙のなかにファラデーについての記述がある。 「ヨーロッパ髄一の物理学者に会うことを得た。つまりファラデーだよ。……これは私には素晴らしく楽しいひとときとなった。 この人は純朴で穏やかな人柄で、控えめなことはまるで子供のようだ。こんなに好ましい人物にはあったことがないよ。 その上本当に親切な人で、私一人を案内して、そこにあるものはみんな見せてくれた。 もっとも、実はそういうことにはあまり大した意味はないんだ。 何しろこの人は、木にきれっぱしや針金や鉄のかけらを使うだけでも最大級の発見をやってしまう人だからね。」
電磁誘導の発見後はフラー化学教授に任命されて年給が100ポンド追加された。 さまざまな収入をあわせると1830年代の終盤には年給900ポンドを超えており、このころから金のために研究をする必要はなくなった。 金をとって仕事をするプロフェッショナルな姿を嫌い、発明しても特許はとらず、政府の依頼は報酬を断るのがファラデーの原則であったという。
大学の教授職やナイトの称号、王立研究所の会長就任要請、 さらにはロンドン王立協会の会長就任要請さえ「最後まで、ただのマイケル・ファラデーでいたい」と断り、 生涯一研究者であること貫く。
王立研究所の講義を受けもち続け、クリスマス休暇には子供向けのやさしい科学講座を始め、1966年以降、このクリスマス講演はテレビ放映されるようになった。 数あるクリスマス講演の中でもファラデーの"Chemical History of a Candle"はいろいろな国語に翻訳され(和名:ろうそくの科学)、数え切れないほど多くの子供を喜ばせ、鼓舞してきた。
数々の輝かしい功績を残し、1867年8月26日、77歳でこの世を去る。 多くの偉人が眠るウェストミンスター寺院に埋葬したいという案があったが、ファラデーは国教徒ではなかった。 異なる宗派の墓では眠れないとのことで、皇太子が総裁となって募金が集められ、ファラデーの大理石像が作られた。 彼の最も馴染んだ家でもある王立研究所のロビーに飾られている。
ファラデー同様、数学を苦手とする偉大な科学者がいる。 アインシュタインの書斎には常にファラデーの肖像が飾られていたという。
静電容量の単位・ファラド
ファラデー
マイケル・ファラデー
(ファラデー から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/20 01:34 UTC 版)
マイケル・ファラデー
Michael Faraday |
|
---|---|
![]() |
|
生誕 | 1791年9月22日![]() ![]() |
死没 | 1867年8月25日(75歳没)![]() ![]() |
居住 | ![]() |
国籍 | ![]() |
研究分野 | 物理学、化学 |
研究機関 | 王立研究所 |
主な業績 | ファラデーの電磁誘導の法則 電気化学 ファラデー効果 ファラデーケージ ファラデー定数 ファラデーカップ ファラデーの電気分解の法則 電気力線 |
影響を 受けた人物 |
ハンフリー・デービー William Thomas Brande |
主な受賞歴 | ロイヤル・メダル (1835, 1846) コプリ・メダル (1832, 1838) ランフォード・メダル (1846) |
署名 | |
プロジェクト:人物伝 |
マイケル・ファラデー(英: Michael Faraday、1791年9月22日 - 1867年8月25日)は、イギリスの物理学者・化学者(あるいは当時の呼称では自然哲学者)で、電磁気学および電気化学の分野での貢献で知られている。
直流電流を流した電気伝導体の周囲の磁場を研究し、物理学における電磁場の基礎理論を確立。それを後にジェームズ・クラーク・マクスウェルが発展させた。同様に電磁誘導の法則、反磁性、電気分解の法則などを発見。磁性が光線に影響を与えること、2つの現象が根底で関連していることを明らかにした[1][2]。電磁気を利用して回転する装置(電動機)を発明し、その後の電動機技術の基礎を築いた。それだけでなく電気を使ったテクノロジー全般が彼の業績から発展したものである。
化学者としては、ベンゼンを発見し、塩素の包接水和物を研究し、原始的な形のブンゼンバーナーを発明し、酸化数の体系を提案した。アノード、カソード、電極 (electrode)、イオンといった用語はファラデーが一般化させた。
ファラデーは貧しい家庭に生まれたため、小学校も中退という教育しか受けておらず、高度な数学などは分からなかったが、科学史上、最も影響を及ぼした科学者の1人とされ、科学史家[3]は彼を科学史上最高の実験主義者と呼んでいる[4]。
静電容量のSI単位「ファラド (F)」はファラデーにちなんでいる。また、1モルの電子の電荷に相当するファラデー定数にも名を残している。ファラデーの電磁誘導の法則は、磁束の変化の割合と誘導起電力は比例するという法則である。
ファラデーは王立研究所の初代フラー教授職 (Fullerian Professor of Chemistry) であり、死去するまでその職を務めた。
アルベルト・アインシュタインは壁にファラデー、ニュートン、マクスウェルの肖像を貼っていたという[5]。
ファラデーは信心深い人物で、1730年に創設されたキリスト教徒の一派であるサンデマン派(グラス派)に属していた。伝記作者は「神と自然の強い一体感がファラデーの生涯と仕事に影響している」と記している[6]。
前半生
ジョージ3世時代の1791年に、ニューイントン・バッツ[7]で生まれる。現在のサザーク・ロンドン特別区の一部だが、当時はサリーの一部でロンドン橋から南に1マイルほどの場所だった[8]。一家は決して順調ではなかった。父ジェームズはサンデマン派信者で、妻と2人の子をかかえて1791年にウェストモーランド(現在のカンブリア)のアスギルという小さな村からロンドンに出てきた。その村では鍛冶屋の見習いをしていた[注釈 1]。マイケルが生まれたのはその年の秋である。マイケルは4人兄弟の3番目で、学校にはほとんど通っていない[9]。14歳のとき、近所で製本業と書店を営んでいた ジョージ・リーボー のところに年季奉公に入った[10]。7年間の奉公の間に多数の本を読んだ。中にはアイザック・ウォッツの The Improvement of the Mind もあり、彼はその中に書かれていた主義と提案を熱心に実践した。多数の本を読むうちに科学への興味が強まり、特に電気に興味を持つようになった。特に影響された本としてジェーン・マーセットの『化学談義』(Conversations on Chemistry)があった[11]。またファラデーと同じく見習いで働いていた画家の卵マスケリエはファラデーにデッサンを教えた。そのためファラデーは絵が非常に上手く、科学系の本にある実験装置などを正確に書き写したといわれている[要出典]。
1812年、20歳となり年季奉公の最後の年となったファラデーは、ジョン・テイタム の創設したロンドン市哲学協会(City Philosophical Society)の会合で勉強するようになった。また、当時のイギリスで有名だった化学者ハンフリー・デービーの講演を何度も聴講した。その入場券はロイヤル・フィルハーモニック協会の創設者の1人 ウィリアム・ダンス がファラデーに与えたものだった。ファラデーは300ページにもなったデービーの講演の際につけたノートをデービーに送った。それを見て感心したデービーは、すぐさま好意的な返事をした。ファラデーが科学の道を歩みたいと言ったところ「科学は快楽的なものだが、その道は成功と失敗の連続である。今は何の仕事もない。もしあったら連絡する」といわれ、ファラデーは落胆した。しかしその後、デービーは塩化窒素の実験中の事故で目を負傷し、ファラデーを秘書として雇うことにした。王立研究所の助手の1人が解雇されると、ハンフリー・デービーは代わりを捜すよう依頼され、1813年3月1日、ファラデーは王立研究所の化学助手となった[1]。
当時の階級社会では、彼はその出自のために紳士とはみなされなかった。デービーが1813年から1815年まで長いヨーロッパ旅行に出かけることになった時、彼の従者は一緒に行くことを拒んだ。ファラデーは実験助手として同行し、パリで従者の代わりを見つけるまでは従者の役も果たすことを依頼された。結局ファラデーは旅行が終わるまで助手兼従者として働くことになった。裕福な家の出だったデービー夫人ジェーン・アプリースはファラデーを対等に扱おうとせず、馬車で移動する際は御者席に座らせ、食事も使用人と一緒に摂らせた。この扱いにファラデーは落胆し、イギリスに戻ったら科学の道をあきらめようと考えたという。ただしファラデー自身は上流階級になろうという意欲は薄く、後にナイトに叙せられる話があった時も断ったとされる。この旅行でファラデーはヨーロッパの有名な科学者らと出会い、アイデアを刺激された[1]。
ファラデーは敬虔なキリスト教徒だった。彼の属するサンデマン派はスコットランド国教会の分派である。結婚後しばらくして輔祭を務めるようになり、若いころ過ごした集会所の長老を2期務めた。その集会所は1862年にイズリントンに移転しており、2期目はこちらで務めた[12]。
1821年6月12日、サラ・バーナード (1800–1879) と結婚したが[13]、子供はできなかった[7]。2人はサンデマン派の教会で家族を介して知り合った。
業績
化学


ファラデーの初期の化学の業績は、ハンフリー・デービーの助手としてのものだった。特に塩素を研究し、2種類の新たな炭素塩化物を発見した。また、ジョン・ドルトンが指摘した現象である気体の拡散に関する初期の実験も行ったが、その物理的重要性をより完全に明確化したのはトーマス・グレアムとヨハン・ロシュミットである。いくつかの気体の液化に成功した。また、鋼合金を調べたり、光学向けの新たなガラスを作ったりしている。後にそれらのガラスは、磁場中に置くと通過する光の偏光面を回転させるという発見に役立ったこと、および磁石の極と反発する反磁性体だと判明したことで歴史的に重要となった。また、化学の一般的手法の確立にも貢献している。
ファラデーはまた、後にブンゼンバーナーと呼ばれ実験用に広く使われるようになった熱源装置の原型を発明した[14][15]。ファラデーは化学の幅広い分野で活動し、1823年に塩素の液化に成功し、1825年にはベンゼンを発見している。気体の液化は気体が単に沸点の低い液体の蒸気に過ぎないという認識の確立に役立ち、分子凝集の概念により確かな基盤を与えることになった。1820年、ファラデーは炭素と塩素で構成される化学物質 C2Cl6 と C2Cl4 を初めて合成したことを報告し[16][17][18]、翌年公表している。また、ハンフリー・デービーが1810年に発見した塩素の包接水和物の構成を特定した[19][20]。
1833年、電気分解の法則を発見し、アノード、カソード、電極 (electrode)、イオンといった用語を定着させた。これらの用語の多くはウィリアム・ヒューウェルが考案したものである。
また、後に金属ナノ粒子と呼ばれることになるものについて初めて報告している。1847年、金コロイドの光学特性が金塊のそれと異なることを発見した。これは量子サイズの現象の最初の観察報告と見られ、ナノ科学の誕生と言えなくもない[21]。
電気と磁気
ファラデーは特に電気と磁気の研究でよく知られている。彼が記録している最初の実験は、7枚の半ペニー貨と7枚の亜鉛シートに6枚の塩水を浸した紙を挟んで積み上げたボルタ電池を作ったことだった。この電池を使って硫酸マグネシウムを電気分解している(1812年7月12日付けのAbbottへの手紙に記述がある)。


デンマークの科学者ハンス・クリスティアン・エルステッドが電気と磁気の関係を示す現象を発見すると、1821年にデービーとウイリアム・ウォラストンが電動機を作ろうとしたが失敗した[2]。ファラデーは2人とその問題について話し合い、電磁回転 (electromagnetic rotation) と名付けた動きを生じる2つの装置を作り上げた。1つは水銀を入れた皿の中央に磁石を立て、上から水銀に浸るように針金をたらし、その針金と水銀を通るように電流を流すと、電流によって生じた磁場が磁石の磁場と反発して針金が磁石の周囲を回転し続けるというものである。もう1つは単極電動機と呼ばれるもので、逆に磁石側が針金の周りを回るようになっていた。それらの実験と発明が現代の電磁技術の基礎を築いた。この成果に興奮したファラデーはデービーやウォラストンの許可を得ずに、それを公表した。
これに怒ったデービーとファラデーの関係が悪化し、デービーは電磁気以外の研究をファラデーに押し付け、数年間電磁気研究から遠ざけたと見られている[23][24]。デービーはファラデーが王立協会フェローになることを猛烈に反対し、自分が見出したファラデーの頭角に嫉妬を抱き始めていた。しかし、ファラデーの友人の推薦により、フェローに選ばれた。また、デービーはウィリアム・ウォラストン自身が否定しているに関わらず、ファラデーを「ウォラストンの研究を盗んだ」と非難したりもした。もっとも、デービーは「私の最大の発見はファラデーである」という言葉を残している。小学校しか卒業していない製本屋の見習いが19世紀最大の科学者と言われるようになったことを考えると、この言葉は正鵠を射ているといえる。
1824年、ファラデーは導線を流れる電流を外部の磁場によって調節可能かどうかを研究すべく簡単な回路を製作したが、そのような現象は見つけられなかった[25]。3年前、同じ実験室で光が磁場に影響されるかを実験しており、そのときも何も見つけられなかった[26][27]。その後7年間は光学用ガラス(鉛を加えたホウケイ酸ガラス)の製法を完成させることに費やし[28]、後の研究でそれが光と磁気の関係の研究に役立つことになった[29]。光学の仕事以外の時間を使って電磁気を含む実験の論文を書いて公表し、デービーとのヨーロッパ旅行で出会った海外の科学者とも文通した[30]。デービーの死から2年後の1831年、ファラデーは一連の重要な実験を行い、電磁誘導を発見した。わずか数カ月前にジョゼフ・ヘンリーも発見しているが、2人に先行してイタリアのフランチェスコ・ツァンテデスキが1829年と1830年に同様の論文を発表していた[31]。
他の科学者たちが電磁気現象を力学における遠隔力と考えていたのに対して、ファラデーは空間における電気力線・磁力線という近接作用的概念から研究している[32]。ファラデーの突破口は、鉄の環に絶縁された導線を巻きつけてコイルを2つ作ったことであり、一方のコイルに電流を流すともう一方のコイルに瞬間的に電流が流れることを発見した[2]。この現象を相互誘導と呼ぶ。この鉄の環のコイルは今も王立研究所に展示されている。その後の実験で、空芯のコイルの中で磁石を動かしても電流が流れることを発見した。また、磁石を固定して導線の方を動かしても電流が流れることを発見。これらの実験で、磁場の変化によって電場が生ずることが明らかとなった。このファラデーの電磁誘導の法則は後にジェームズ・クラーク・マクスウェルが数理モデル化し、4つのマクスウェルの方程式の1つとなった。そして、さらに一般化され場の理論となっている。
ファラデーは後にこの原理を使って原始的な発電機を製作している。
1839年、電気の基本的性質を明らかにする一連の研究を完成させた。ファラデーは「静電気」、電池、「動物電気」を使い、静電気による誘引現象、電気分解、電磁気学などの現象を生み出した。彼は、当時の科学界で常識だったこれらの電気の種類の違いは存在しないと結論付けた。そして電気は一種類だとし、強さや量(電圧と電流)の違いが様々な現象を引き起こすとした[2]。
後年ファラデーは電磁力が電気伝導体の周囲の空間に及んでいるという説を提案した。しかし他の科学者はその考え方を拒絶し、ファラデーの存命中は認められなかった。ファラデーの帯電した物体や磁石から磁力線が出ているという概念は、電磁場の視覚化手段を提供した。このモデルは19世紀後半の産業を支配した電気機械式装置の開発にとってきわめて重要となった。
反磁性

1845年、ファラデーは多くの物質が磁場に対して弱く反発することを発見し、その現象を反磁性 (diamagnetism) と名付けた。
また、光の進む方向にそって印加された電磁場によって直線偏光の偏光面が回転することを発見。これをファラデー効果と呼ぶ。ファラデーのノートには「私はついに磁気の曲線または「力の線」を解明し、光線を磁化することに成功した」と記してある。
晩年(1862年)、磁場によって光のスペクトルが変化するのではないかと考え、分光器を使って実験している。しかしファラデーが使っていた機器ではスペクトルの変化を捉えることはできなかった。同じ現象を後にピーター・ゼーマンが改良された機器で研究し、1897年に公表、1902年にノーベル物理学賞を受賞することになった。1897年の論文でも[33]、ノーベル賞講演でも[34]、ゼーマンはファラデーの業績に言及している。
ファラデーケージ

静電気を研究する中で、ファラデーは帯電した導体では電荷がその表面にしかないことを示し、それら電荷は導体内部の空間には何も影響を及ぼさないことを証明した。これは電荷が内部の電場を打ち消すように分布するためである。この電場を遮蔽する効果を使ったものをファラデーケージと呼ぶ。
ファラデーは優秀な実験主義者であり、明快かつ簡潔な言葉で考えを伝えた。しかし、数学の知識は乏しかった。そのため電磁誘導の法則を自分で定式化できず、ジェームズ・クラーク・マクスウェルらが定式化することになった。またファラデーの電気力線の使用についてマクスウェルは、ファラデーが高水準の数学者にも匹敵する思考の持ち主であり、将来の数学者はファラデーの業績から様々な貴重な方法を引き出すことができるだろうと述べている[35]。
王立研究所と研究以外の業績


1824年には王立協会フェローに選ばれ[7][36]、1825年にはデービーの後をついで英国王立実験所長となった。1833年、ファラデーはジョン・「マッド・ジャック」・フラーの推薦で王立研究所の初代フラー教授職に就任した。これはフラーの後援によって創設された化学の教授職であり、名誉職であって講義を行う義務はない。
王立研究所での化学や電磁気学の研究以外に、ファラデーは民間企業やイギリス政府に依頼された仕事に時間を割いた。例えば、炭鉱での爆発事故の調査、法廷での専門家証人、高品質な光学ガラスの成分検討などである。1846年、ハスウェルの炭鉱で95人が死亡した爆発事故を調査し、チャールズ・ライエルと共に詳細な報告書を提出した。その報告書は法科学的にしっかりしており、石炭の粉塵が爆発の威力を増加させたとしていた。しかし、炭塵爆発への対策は1913年に別の炭鉱で大事故が発生するまでなされなかった。
海洋国家でもあるイギリスの有名な科学者として、ファラデーは灯台建設や運用、船底の腐食を防止するプロジェクトなどにも時間を割いた。
ファラデーは今では環境学と呼ばれる分野でも活躍した。スウォンジでの工場による汚染を調査し、造幣所での大気汚染について助言したりしている。1855年7月、タイムズ誌にテムズ川の汚染問題について手紙を送り、パンチ誌に風刺画が掲載されることになった。
1851年、ロンドンで開催された万国博覧会では、計画立案と評価に参加した。また、ナショナル・ギャラリーでのコレクションのクリーニングと保護についても助言し、1857年には同ギャラリー運営委員会の委員も務めた。

教育にも関与している。1854年、王立研究所で教育について講演し、1862年にはイギリスの教育政策についての持論を伝えるために公立学校委員会に出席した。また当時一般大衆の間で流行っていたこっくりさんや催眠術や降霊会には否定的立場で参加しており、教育に関しては政府に対しても大衆に対しても厳しかった[37]。
ファラデーは一般向けの講演も多く行った。世界の優秀な科学者たちを集めた金曜講演(1825年より開始)、少年少女向きのクリスマス・レクチャー、有名なロウソクの科学などであり、今日まで続いているものも多い。ファラデーは1827年から1860年まで19回のクリスマス・レクチャーを行った。
晩年


1832年6月、オックスフォード大学はファラデーに名誉博士号を授与した。ファラデーは終生ナイトの名誉を辞退し続け、1858年には王立協会会長職を1865年には王立研究所所長職を辞退している。1838年、スウェーデン王立科学アカデミーの外国人会員に選ばれ、1844年にはフランス科学アカデミーの8人の外国人会員の1人に選ばれた[38]。
1848年、アルバート王配殿下の申し出によりサリーのハンプトン・コート宮殿に無料で住めるようになった。1858年に引退したファラデーは晩年をそこで過ごした[39]。
クリミア戦争 (1853–1856) の際に政府から化学兵器を作ってもらえないかという要望がきたとき、倫理的な理由からこれを断わった[40]。彼は机をたたいてこう言ったという。「作ることは容易だ。しかし絶対に手を貸さない!」ファラデーが強い平和主義者だったこともうかがえる。
1867年8月25日、ハンプトン・コート宮殿内の自宅で椅子にもたれたまま、眠るようにして死去した[41]。
生前ウェストミンスター寺院への埋葬を拒否していたが、アイザック・ニュートンの墓のそばに記念銘板が設置された。遺体はハイゲイト墓地の非国教徒向けの区域に埋葬された。
記念

ロンドンの英国工学技術学会(IET)本部のそばのサボイ・プレイスにファラデーの像がある。同じくロンドンのエレファント・アンド・キャッスルのロータリーの中央にはブルータリズムの建築家ロドニー・ゴードン が設計し1961年に完成したマイケル・ファラデー記念館 (en) がある。ファラデーが生まれたニューイントン・バッツの近くである。同じく生誕地に近いウォルワースにはファラデーの名を冠した小さな公園がある。
ラフバラーのラフバラー大学には1960年にファラデーの名を冠したホールが建てられた。その食堂の入口付近に青銅製の変圧器の像があり、中にはファラデーの肖像がある。エディンバラ大学の理工系キャンパスにはファラデーの名を冠した5階建ての建物がある。ブルネル大学やスウォンジー大学にもファラデーの名を冠した建物がある。また、イギリスはかつて ファラデー基地 という南極基地を運営していた。
ファラデーの名を冠した通りはイギリス各地(ロンドン、ファイフ、スウィンドン、ノッティンガムなど)にあり、フランス(パリ)やドイツ、カナダ、アメリカにもある。
1991年から2001年にかけて用いられた20UKポンド紙幣に肖像が描かれている。王立研究所で電磁スパーク装置を使った講演中の様子が描かれている[42]。
著作
Chemical Manipulation 以外のファラデーの本は学術論文や講義録を集めたものである[43]。死後、ファラデーの日記、大量の書簡、1813年から1815年のデービーとの旅行の記録も出版された。
- Faraday, Michael (1827), Chemical Manipulation, Being Instructions to Students in Chemistry, John Murray 2nd ed. 1830, 3rd ed. 1842
- Faraday, Michael (1839, 1844 エラー: 日付が正しく記入されていません。(説明)), Experimental Researches in Electricity, vols. i. and ii., Richard and John Edward Taylor;vol. iii. Richard Taylor and William Francis, 1855 - オリジナルをスキャンしたもの
- Faraday, Michael (1859), Experimental Researches in Chemistry and Physics, Taylor and Francis
- Faraday, Michael (1861), W. Crookes, ed., A Course of Six Lectures on the Chemical History of a Candle, Griffin, Bohn & Co.
- マイケル・ファラデー 著, 山形浩生 訳, 『ロウソクの科学』, プロジェクト杉田玄白. [1]
- Faraday, Michael (1873), W. Crookes, ed., On the Various Forces in Nature, Chatto and Windus
- Faraday, Michael (1932–1936), T. Martin, ed., Diary - ファラデーの日記(全8巻)
- Faraday, Michael (1991), B. Bowers and L. Symons, ed., Curiosity Perfectly Satisfyed:Faraday's Travels in Europe 1813-1815, Institution of Electrical Engineers
- Faraday, Michael (1991), F. A. J. L. James, ed., The Correspondence of Michael Faraday, 1, INSPEC, Inc. - volume 2, 1993;volume 3, 1996;volume 4, 1999
- Faraday, Michael (2008), Alice Jenkins, ed., Michael Faraday's Mental Exercises:An Artisan Essay Circle in Regency London, Liverpool, UK: Liverpool University Press
- Course of six lectures on the various forces of matter, and their relations to each other London;Glasgow:R. Griffin, 1860.
- The liquefaction of gases Edinburgh:W. F. Clay, 1896.
- Faraday, Michael; Schoenbein, Christian Friedrich (1899), The letters of Faraday and 1836-1862. With notes, comments and references to contemporary letters, London: Williams & Norgate
語録
- 「自然の法則が一貫しているなら、これほど素晴らしいことはない。そんな中で実験はそのような一貫性を調べる最良の手段だ」[44]
- 「働きなさい。完成させなさい。出版しなさい」 — 若かりしウィリアム・クルックスへの助言
- 来世について聞かれたときの言葉「憶測? 私には全くない。私は確信している」
- 「次の日曜日で70歳になるのだから、記憶力が衰えても不思議ではない。この70年間私は幸せだった。そして希望と満足感がある今も幸せだ」[45]
- 「さらに試行せよ。何が可能かを知るために」アメリカ合衆国ペンシルベニア州のアーサイナス大学の理学部のホール玄関に刻まれているファラデーの名言とされる言葉[46]。
- 「あなたが科学者の説を認めるならば、あなたは科学に大きな貢献をすることになるだろう。あなたがそれに対して『はい』とか『いいえ』と言うだけでも、将来の進歩を助けることになる。一部の人は自分の考えに固執して口にするのをためらうに違いない」[47]
栄誉と受賞
王立協会よりベーカリアン・メダルを1829年以後複数回にわたって受賞し、それぞれ記念講演を行った。またロイヤル・メダル を1835年と1846の2回、コプリ・メダルを1832年と1838の2回、ランフォード・メダルを1846年に受賞した。1866年にはロイヤル・ソサエティ・オブ・アーツよりアルバート・メダルを受賞した。
また王立協会によってマイケル・ファラデー賞、英国工学技術学会によってファラデー・メダルが創設された。
脚注
注釈
- ^ これの意味するところは、ジェームズがサンデマン派信者のつながりから職を得たということである。ジェームズは1791年2月20日にロンドンのサンデマン派の集会に参加し、その後すぐに住居を見つけて引っ越している。詳しくは Cantor 1991, pp. 57–8
- ^ 1857年ごろ撮影された写真をベースとした版画。詳しくは National Portrait Gallery, UK
出典
- ^ a b c Michael Faraday Archived 2013年6月5日, at the Wayback Machine. entry at the 1911 Encyclopaedia Britannica hosted by LovetoKnow Retrieved January 2007.
- ^ a b c d "Archives Biographies:Michael Faraday", The Institution of Engineering and Technology.
- ^ Russell, Colin (2000), Michael Faraday:Physics and Faith, New York: Oxford University Press
- ^ "best experimentalist in the history of science." Quoting Dr Peter Ford, from the University of Bath’s Department of Physics. Accessed January 2007.
- ^ "Einstein's Heroes:Imagining the World through the Language of Mathematics", by Robyn Arianrhod UQP, reviewed by Jane Gleeson-White, 10 November 2003, The Sydney Morning Herald.
- ^ Baggott, Jim (2 September 1991), “The myth of Michael Faraday:Michael Faraday was not just one of Britain's greatest experimenters. A closer look at the man and his work reveals that he was also a clever theoretician”, New Scientist 2008年9月6日閲覧。
- ^ a b c Frank A. J. L. James, ‘Faraday, Michael (1791–1867)’, Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, Sept 2004;online edn, Jan 2008 accessed 3 March 2009
- ^ ファラデーの幼少期を含む生涯の簡潔な説明として次がある。
EVERY SATURDAY:A JOURNAL OF CHOICE READING, Vol III published at Cambridge in 1873 by Osgood & Co., pp.175-83 - ^ "Michael Faraday." History of Science and Technology. Houghton Mifflin Company, 2004. Answers.com 4 June 2007
- ^ Plaque #19 on Open Plaques.
- ^ John H. Lienhard (1992). The Engines of Our Ingenuity. Episode 744. NPR. KUHF-FM Houston. Jane Marcet's Books.
- ^ Cantor 1991, pp. 41–43, 60–4, 277–80
- ^ Cantor 1991, p. 59
- ^ Jensen, William B. (2005), “The Origin of the Bunsen Burner” (PDF), Journal of Chemical Education 82 (4)
- ^ Faraday 1827, p. 127
- ^ Faraday, Michael (1821), “On two new Compounds of Chlorine and Carbon, and on a new Compound of Iodine, Carbon, and Hydrogen”, Philosophical Transactions 111: 47, doi:10.1098/rstl.1821.0007
- ^ Faraday 1859, pp. 33–53
- ^ Pearce 1965, pp. 122–123
- ^ Faraday, Michael (1823), “On Hydrate of Chlorine”, Quartly Journal of Science 15: 71
- ^ Faraday 1859, pp. 81–84
- ^ The Birth of Nanotechnology, Nanogallery.info, (2006) 2007年7月25日閲覧, ""Faraday made some attempt to explain what was causing the vivid coloration in his gold mixtures, saying that known phenomena seemed to indicate that a mere variation in the size of gold particles gave rise to a variety of resultant colors.""
- ^ Faraday & 1839, 1844, vol ii, plate 4
- ^ Hamilton 2004, pp. 165–71, 183, 187–90
- ^ Cantor 1991, pp. 231–3
- ^ Thompson 1901, p. 95
- ^ Thompson 1901, p. 91
- ^ Cantor 1991, p. 233
- ^ Thompson 1901, pp. 95–98
- ^ Thompson 1901, p. 100
- ^ Cantor 1991, pp. 235–44 日記でわかるように、ファラデーはアンペール、アラゴ、エルステッドらの研究の進行状況に大きく影響されている。
- ^ Brother Potamian (1913), Francesco Zantedeschi article at the Catholic Encyclopedia, Wikisource 2007年6月16日閲覧。
- ^ C・ロヴェッリ『すごい物理学講義』河出文庫、2019年、77頁。
- ^ Zeeman, Pieter (1897), “The Effect of Magnetisation on the Nature of Light Emitted by a Substance”, Nature 55: 347, doi:10.1038/055347a0
- ^ Pieter Zeeman, Nobel Lecture 2008年5月29日閲覧。
- ^ The Scientific Papers of James Clerk Maxwell Volume 1 page 360;Courier Dover 2003, ISBN 0486495604
- ^ “Faraday;Michael (1791 - 1867)”. Record (英語). The Royal Society. 2011年12月11日閲覧.
- ^ See The Illustrated London News, July 1853, for Faraday's comments.
- ^ Gladstone 1872, p. 53
- ^ Twickenham Museum on Faraday and Faraday House, Accessed June 2006
- ^ Croddy, Eric; Wirtz, James J. (2005), Weapons of Mass Destruction:An Encyclopedia of Worldwide Policy, Technology, and History, ABC-CLIO, pp. Page 86, ISBN 1851094903
- ^ Plaque#2429 on Open Plaques
- ^ Withdrawn banknotes reference guide, Bank of England 2008年10月17日閲覧。
- ^ Hamilton 2004, p. 220
- ^ ファラデーの日記の1849年3月19日の記述
- ^ Faraday & Schoenbein 1899, p. 349 Christian Friedrich Schönbein への1861年9月19日付けの手紙。
- ^ See but still try
- ^ Jones 1870, 2:389
参考文献
- Jones, Henry Bence (1870), The Life and Letters of Faraday, Philadelphia: J. B. Lippincott and Company
- Cantor, Geoffrey (1991), Michael Faraday, Sandemanian and Scientist, Macmillian, ISBN 0-333-550773
- Gladstone, J. H. (1872), Michael Faraday, London: Macmillan
- Hamilton, James (2002), Faraday:The Life, London: Harper Collins,
ISBN 0-00-716376-2
- J.Hamilton 著、佐波正一 訳『電気事始めーーマイケル・ファラデーの生涯』教文館、2010年。 ISBN 978-4764266834。
- Hamilton, James (2004), A Life of Discovery:Michael Faraday, Giant of the Scientific Revolution, New York: Random House, ISBN 1-4000-6016-8
- Hirshfeld, Alan W. (2006), The Electric Life of Michael Faraday, Walker and Company, ISBN 978-0802714701
- Thompson, Silvanus (1901), Michael Faraday, His Life and Work, London: Cassell and Company, ISBN 1-4179-7036-7
- Tyndall, John (1868), Faraday as a Discoverer, London: Longmans, Green, and Company
- Pearce, Williams, L. (1965), Michael Faraday:A Biography, New York: Basic Books
- The British Electrical and Allied Manufacturers Association (1931). Faraday. R. & R. Clark, Ltd., Edinburgh, 1931.
- Agassi, Joseph (1971), Faraday as a Natural Philosopher, Chicago: University of Chicago Press
- Ames, Joseph Sweetman (Ed.) (c1900 エラー: 日付が正しく記入されていません。(説明)), The Discovery of Induced Electric Currents, 2, New York: American Book Company
- Gooding, David (Ed.) (1985), Faraday Rediscovered:Essays on the Life and Work of Michael Faraday, 1791-1867, London/New York: Macmillan/Stockton
- Thomas, John Meurig (1991), Michael Faraday and the Royal Institution:The Genius of Man and Place, Bristol: Hilger,
ISBN 0-7503-0145-7
- J.M.Thomas 著、千原秀昭・黒田玲子 訳『マイケル・ファラデー 天才科学者の軌跡』東京化学同人〈科学のとびら 23〉、1994年。 ISBN 978-4807912636。
- Russell, Colin A. (Ed. Owen Gingerich) (2000), Michael Faraday:Physics and Faith (Oxford Portraits in Science Series), New York: Oxford University Press,
ISBN 0-19-511763-8
- Colin A.Russell (Ed. Owen Gingerich) 著、須田康子 訳『マイケル・ファラデー――科学をすべての人に』大月書店〈オックスフォード科学の肖像〉、2007年。 ISBN 978-4272440467。
関連項目
- 電磁誘導
- ファラデーの電磁誘導の法則
- ファラデーの電気分解の法則
- ファラデー定数
- ファラデー効果
- ファラデーケージ
- ファラド
- 電気力線
- ゼーマン効果
- 場
- ハンス・クリスティアン・エルステッド
- ジェームズ・クラーク・マクスウェル
- マクスウェルの方程式
- タイムトラベル少女〜マリ・ワカと8人の科学者たち〜
外部リンク
伝記
- Biography at The Royal Institution of Great Britain
- Faraday as a Discoverer by John Tyndall, Project Gutenberg (downloads)
- The Christian Character of Michael Faraday
- Michael Faraday on the British twenty-pound banknote
- The Life and Discoveries of Michael Faraday by J. A. Crowther, London:Society for Promoting Christian Knowledge, 1920
その他
- 松岡正剛の千夜千冊『ロウソクの科学』マイケル・ファラデー
- Michael Faraday and His Contribution to Anesthesia - 麻酔剤としてのエーテルの発表(1818年)
- Interactive Java Tutorial on Faraday's 1821 Motor National High Magnetic Field Laboratory
- Interactive Java Tutorial on Faraday's Ice Pail Experiment National High Magnetic Field Laboratory
- "Faraday" at LoveToKnow 1911 Britannica Online Encyclopedia
- Michael Faradayの作品 (インターフェイスは英語)- プロジェクト・グーテンベルク (downloads)
- 『ファラデーの伝 電気学の泰斗』:新字新仮名 - 青空文庫(愛知敬一著)
- 『ファラデー』 - コトバンク
ファラデー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/16 14:17 UTC 版)
カルタギア帝国の技官。帝国でもトップクラスの技術者で腕は確かだが、偏屈で相手に対して妙な呪いにかかれと言ったりする。アニメを見るなどしていつも部屋に引き込もっている駄目人間だが、前述の通りマジックアイテムを作る腕は一流。
※この「ファラデー」の解説は、「H+P -ひめぱら-」の解説の一部です。
「ファラデー」を含む「H+P -ひめぱら-」の記事については、「H+P -ひめぱら-」の概要を参照ください。
ファラデー
「ファラデー」の例文・使い方・用例・文例
ファラデーと同じ種類の言葉
固有名詞の分類
- ファラデーのページへのリンク