1996年以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 14:17 UTC 版)
1996年の開幕当初は宣へのつなぎ役(中継ぎ)を務めていたが、宣が初登板から抑えに失敗しその後も不安定な投球だったことからその代役に抜擢され、首脳陣の期待に応えた。同年前半戦(77試合)ではチームの投手陣で唯一、二軍落ちすることなく、一貫して一軍で過ごし、力のある速球・フォークを武器に抑え投手として活躍した。後半戦には前半戦に比べて調子を落としたが、球界復帰から3年目で完全復調の手応えを掴み、36試合に登板して4勝4敗14セーブ・18セーブポイント・防御率2.88の数字を残した。同年オフには推定年俸4,500万円(前年比125%アップ、2,500万円増)で契約更改した。 同年7月11日にはセ・リーグ代表監督・野村克也(当時・ヤクルト監督)の推薦によりサンヨーオールスターゲーム全セ(オールセントラル・リーグ)に選出され、大洋時代の1989年以来7年ぶりの代表選出を果たした。そのオールスターゲームでは第3戦(7月23日・富山市民球場アルペンスタジアム)で先発投手・斎藤隆(横浜)の後を継ぎ、3回表に二番手投手として登板。イチロー(オリックス・ブルーウェーブ)・村松有人・秋山幸二(ともに福岡ダイエーホークス)・清原の計4人と対戦し、同回の先頭打者(1番打者)イチローに右中間三塁打を打たれると、続く2番打者・村松の中犠飛で球宴初失点(1点)を喫したが、2死で迎えた清原を145 km/hの速球で空振り三振に打ち取り、1回1被安打2奪三振1失点の成績を残した。 1997年はチームがナゴヤ球場に代わる新本拠地・ナゴヤドームに対応しきれず最下位に沈む中、リリーフのみでチーム最多の53試合に登板して投球回76イニング2/3を記録した。同年は前年不調だった宣が一転して守護神として活躍したため自身のセーブはゼロに終わったが、守護神・宣へつなぐセットアッパーとして1年を通じて活躍し、大洋時代最終年の1991年以来6年ぶり・球界復帰後では初となるシーズン7勝を挙げた。しかしその一方で6敗したほか、防御率も4.34と思わしくなく、本人は「大事な場面で打たれた不本意なシーズンだった」と振り返ったほか、江川卓も課題点として「防御率の高さに加え、速球の力強さが失われ奪三振数が(それまで1イニング1個に近い割合だったのが)54個と減った。暴投も6回と多い」と指摘していた。同年オフ(12月1日)には推定年俸4,400万円(前年比100万円減)で契約更改した。 1998年シーズンは豊富な実績・経験から中継ぎエースとして期待され、その座を確立すべくシーズンに臨んだ。しかし同年は故障に加え、この年からリリーフに専念した落合英二・新人の正津英志の台頭から登板機会は少なく、シーズンの大半を棒に振ってしまった。同年は一軍戦では7月に7試合(合計7イニング)登板、二軍戦でも6試合登板に留まり、チームの首脳陣からは何度も「あいつがいれば…」とため息が漏れた。同年、チームは中山の古巣・横浜とのリーグ優勝争いに敗れ2位に終わった。同年オフにはフリーエージェント(FA)資格を取得したが、FA権を行使せず残留して推定年俸4,200万円(前年比200万円減)で契約更改した。 1999年、中日はプロ野球タイ記録となる開幕11連勝を記録したが、中山はその11試合中4試合でリリーフとして登板し、いずれの試合でもピンチを無被安打で切り抜けた。特に11連勝を決めた4月16日の巨人戦(東京ドーム)では先発したサムソン・リーの後を継いで8回表から登板し、1回を三者凡退に抑え勝利に貢献したほか、優勝が間近に迫った9月18日・横浜戦(横浜スタジアム)でも延長11・12回を投げ抜いて勝利に貢献。同年はリリーフのみで31試合に登板して3勝1敗・防御率3.16の成績を挙げ、自身初・中日球団史上11年ぶり5度目のセ・リーグ優勝に貢献した。福岡ダイエーホークスとの日本シリーズでは第3戦(ナゴヤドーム)にて9回表に敗戦処理として登板した。11月24日には名古屋市内の病院に入院して両膝半月板の手術を受け、12月3日には推定年俸4,400万円(前年比200万円増)で契約更改した。 2000年は守護神・宣が引退したため、その後継者候補として期待されたが、両膝手術の影響により落合とともに前半戦を棒に振り、リリーフで25試合に登板したが、徐々にチームが投手王国となり落合・正津英志・岩瀬仁紀らが台頭するにつれて登板機会が減少していった。同年11月28日には来季の契約について推定年俸4,300万円(前年比100万円減)で更改した。 2001年シーズンは一軍で4試合登板・投球イニング6回2/3・0勝0敗の成績に終わり、同年10月12日には小池秀郎・鈴木平・永田能隆とともに球団から戦力外通告を受けた。同年12月2日にNPBコミッショナー事務局により自由契約選手として公示され、同年限りで中日を退団した。同日までに開かれた12球団合同トライアウトには計2回参加したが、獲得に手を挙げるNPB球団はなかったため、台湾プロ野球・韓国のKBOリーグへの移籍を視野に現役続行を目指した。
※この「1996年以降」の解説は、「中山裕章」の解説の一部です。
「1996年以降」を含む「中山裕章」の記事については、「中山裕章」の概要を参照ください。
1996年以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/23 02:16 UTC 版)
1996年の12月1日にNSBにとって20世紀最大の構造改革が行われた。業務を3分割し、それぞれ別の国営の会社が経営することとなった。NSBは鉄道路線の建設と保線のみを行い、新たに、ノルウェー鉄道庁と、ノルウェー鉄道監督局(en:Norwegian Railway Inspectorate)が国内の鉄道路線を管理するために発足した。NSBは新たにNSB SAという名前で再出発した。所有権は100%ノルウェー交通通信省(en:Norwegian Ministry of Transport and Communications)のものとなった。また、NSBは新たにNSB Biltrafikk(現在のNettbuss)とNSB Eiendom(現在のen:ROM Eiendom)を子会社として設立した。 1998年にオスロ空港が移転、開業した。これはNSBにとって、政府の妥協が二重の結果となって返ってくることとなった。まず一つには、政府は新空港についてできるだけ環境に優しい空港を目指すことを決定した。その結果、オスロ中央駅から空港までの56kmを19分で結ぶ高速鉄道を伸ばすことになった。しかし同時に納税者からもうこれ以上お金は取りたくないという政府の政治的な要求があったため、全体の費用は融資によって集められることとなり、空港までの鉄道連絡を運営するのは、NSBの子会社であるNSB Gardemobanen ASが、資金面ではオスロ空港を建設した会社の子会社(en:Avinor)が持つこととなった。しかしここでガーデモエン線(en:Gardermoen Line)のロメリケトンネル(en:Romerike Tunnel)の建設中に亀裂が見つかり、結果的に主要な予算はトンネルの修復の遅れによって超過してしまった。それでも、ノルウェーで最初の高速鉄道フリートーゲは空港開港と同時に1998年10月8日に開通した。しかし、トンネルは開業予定から1年経った1999年の10月22日まで開通しなかった。この路線は、定員244名で最高時速210kmを出すことのできるGMB71電車(en:GMB Class 71)で運行されている。 NSBは1990年代の後半に新型車両を運行したり、新たなブランドイメージによって、近代化を図ろうとした。まず初めに22両のEl18(en:NSB El 18)の取得である。これらの車両は貨物輸送用になったEl16やEl14、廃車又はフロム線に移管されたEl17にとって代わり、南ノルウェーの鉄道輸送で活躍した。新型のEl18は時速200kmまで速度を上げることができる性能の良いものであった。また、ディーゼルの路線にはシーメンスからDi6(en:NSB Di 6)を12両購入して試験したが、北ノルウェーの寒さの中では十分に作動させることができずに、返却された。NSBは、地方ごとに3つのブランドを作り上げた。(en:NSB Signatur:急行列車)、(en:NSB Agenda:地方電車)、(en:NSB Puls:普通電車)である。同時にNSBは新しい電車を注文した。まず初めは、空港輸送用のBM71である。これは、ベルゲン線、ドブレ線、ソーランド線の急行として使われていたBM73(en:NSB Class 73)の規格に沿って、新たにen:Signatur trains用に振り子式車両で作られたものである。これは既存の路線を使い、オスロとターミナルの間の所要時間を1時間に短縮する高速鉄道サービスを提供する試みの一つとして導入された。これらの車両は青とグレーに塗装され、10年間でNSBが運行した中で初めて赤の塗装ではない電車となった。同時にNSBは(en:NSB InterCity Express)とディーゼルのサービスを元に戻すことを発表した。そして、ノーランド線、ラウマ線(en:Rauma Line)、レーロース線のディーゼル車であったBM70は再塗装、改造され、2001年には新しいBM93(en:NSB Class 93)が15両導入された。しかし、路線のスピードアップから快適性を欠くと批判が出た。また、ラウマ線とレーロース線の夜行列車を廃止した。2002年からは新型の普通電車であるBM72(en:NSB Class 72)を受け取り始めた。この形式はPulsというブランド名を利用するためグレーと緑に塗られ、オスロとスタバンゲル間の運行用に使用開始された。線路周りの製品にNSBのブランド名を使用することも取り止めた。 2002年、保守自由政権(en:Kjell Magne Bondevik's second term as Prime Minister of Norway)はさらなる鉄道部門への規制緩和を望んでいた。そして、NSBは国営の株式会社(en:Aksjeselskap)であるNSB ASとして7月1日に新たに設置された。NSBは、たくさんの努力と協力を得て、ArriveとしてIT部門を子会社として新設し、メンテナンスはen:Mantenaの担当となった。NSBは、従来の貨物輸送部門を、en:CargoNetに移管して、スウェーデンのen:Tågkompanietを買い取った。子会社の45%はen:Statens Järnvägarの後任者であるen:Green Cargoに売却された。2004年にNSB Gardermobanenを2つに分け、会社の負債を帳消しにし、線路はノルウェー鉄道庁の所有とし、車両は新たに発足した国営企業フリートーゲの所有とした。
※この「1996年以降」の解説は、「ノルウェー国鉄」の解説の一部です。
「1996年以降」を含む「ノルウェー国鉄」の記事については、「ノルウェー国鉄」の概要を参照ください。
1996年以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 00:50 UTC 版)
1988年、再び国際博覧会条約が改定され、新しい分類が採用された。それは、大規模で総合的な「登録博覧会(登録博)」と会期と規模、テーマに制限がつく「認定博覧会(認定博)」の2つである。「登録博」は新条約が発効していれば1995年から実施可能であったが、1996年の「2005年愛知万博」の申請(立候補)時までは新条約が発効できておらず、1972年条約(一般博は10年以上の間隔を置く)が有効だった。そのため愛知万博は、2005年開催として申請するため、旧条約による「特別博」に区分で申請され、のちに新条約の「登録博」に変更された。 「登録博」は、新条約発効後は5年間隔で開催されることになっており、愛知万博の次は2010年上海万博であり、新条約のみでの登録博は上海万博が最初となる。 会場建設費用の負担に関しては、BIEは「2020年、2030年…など、西暦年数が10で割り切れる年の登録博では、博覧会自身がパビリオンを建設しなければならない。そして、間の5年(2015年、2025年、2035年…)には、博覧会のパビリオンのほか参加国がパビリオンを持つことを願う」と表明している。 この5年おきに開催される(予定)の登録博の間に1回のみ、認定博を行うことができる。これには、開催期間が3か月以下、会場面積は25ヘクタール以下、テーマは特定(専門的)という制限がつく。最初の認定博は2004年に開催予定であったが実際には開催されなかった。1992年ジェノバ博と1993年大田博は、認定博の試行を兼ねて行われた。最初の認定博として2008年にサラゴサ国際博覧会が実施された。 日本では、「2005年愛知万博」(登録博)が該当
※この「1996年以降」の解説は、「博覧会国際事務局」の解説の一部です。
「1996年以降」を含む「博覧会国際事務局」の記事については、「博覧会国際事務局」の概要を参照ください。
1996年以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 08:19 UTC 版)
松井館長派と大山派は、それぞれの機関誌である『ワールド空手』と『極真魂』誌上で数年間、双方の正当性を主張しあっていた。1997年3月17日に遺言書の有効性を否定する判決が最高裁で確定した。そののち大山派は、協議会派と遺族派に再分裂。協議会派は1999年に西田・増田章が離脱。さらに理事の役職にあった田畑繁・七戸康博・桑島靖寛らが離れ、前後して離脱した長谷川一幸・大石代悟らと2001年に極真連合会を発足させる。協議会派に残留した者が現在の新極真会となった。遺族派は松島派、手塚グループ、極真会館 宗家に分かれる。 一方、松井は自派を株式会社化し、団体名称を株式会社国際空手道連盟極真会館と刷新したが、こちらもさらなる分裂が続いている。2002年に極真奨学会の梅田が松井と関係を絶つと、同年11月に盧山や地区本部長を務めていた廣重毅・湖山彰夫らも去り、彼らは極真館を興し、梅田と一緒に休眠していた極真奨学会を復活させた。2005年には水口敏夫・河西泰宏らが、2006年には浜井識安が松井派から離れ、極真奨学会の協力団体になった。2008年、木村靖彦が全日本極真連合会へ移り、2010年8月には国際委員会委員で欧州地区担当のルック・ホランダーが、傘下の支部と共に松井派から離脱した。この期間に黒澤浩樹・小笠原和彦・八巻建志・数見肇が独立し、自派を発足している。選手ではニコラス・ペタス・野地竜太・高久昌義らが離脱。また、近年では極真会館(松井派)の愛媛県支部長だった高見成昭と高見彰が傘下の分支部と共に独立。2016年には兵庫・大阪南支部支部長の中村誠が松井派から脱退した。 松井派、大山宗家、新極真などは、自らが大山の極真空手の唯一の正当後継であると主張しており、他の極真諸派の存在を認めなかったり、認めていても消極的である。それに反して社団法人極真会館や財団法人極真奨学会は、他の極真カラテ諸派の存在を認めようとする団体である。 “極真会館”関連の商標を巡って、極真宗家、連合会、極真館らはそれぞれ松井派と係争中であったが、2009-2010年に大山家の商標登録が確定した。しかし、2017年5月に特許庁は、審判で「出願は他の事業者の活動を妨害する不正な目的」と判断、登録は無効とした。
※この「1996年以降」の解説は、「極真会館」の解説の一部です。
「1996年以降」を含む「極真会館」の記事については、「極真会館」の概要を参照ください。
1996年以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 17:11 UTC 版)
「マニック・ストリート・プリーチャーズ」の記事における「1996年以降」の解説
リッチーが行方不明になってからの最初のアルバム『エヴリシング・マスト・ゴー』(リッチーによって書かれたかまたはニッキーと共同で書かれた4曲を含む)は好意的なレビューによって迎えられた。全英2位を記録し、バンド初のプラチナディスクを獲得する。シングル「デザイン・フォー・ライフ」は労働者階級のアンセムとなり、日本の深夜に放送されていた音楽番組『BEAT UK』(フジテレビ)でもUKシングルチャートでNo.1を獲得した。アルバムは1996年の「マーキュリー賞」の最終選考リストに載り、「エヴリシング・マスト・ゴー」、「オーストラリア」、「ケビン・カーター」のヒット曲を生んだ。 1998年の5thアルバム『ディス・イズ・マイ・トゥルース・テル・ミー・ユアーズ』はバンド最大の成功を収め、同アルバムで念願の全英1位を獲得する。また、バンド初のナンバー1ヒットシングル「輝ける世代のために (If You Tolerate This Your Children Will Be Next)」をもたらした。この曲はスペイン内戦について書かれ、ジョージ・オーウェルの「カタロニア賛歌」、ザ・クラッシュの「スペイン戦争」にインスパイアされて書かれた。 2000年には限定版のシングル「ザ・マッシズ・アゲインスト・ザ・クラッシズ」を発表した。これは19世紀の首相ウィリアム・グラッドストンの"All the world over, I will back the masses against the classes"の言葉から名付けられた。プロモーションをほとんどしなかったにも関わらず、イギリスのシングルチャート1位を記録した。 2001年、カール・マルクスシアターでライブを行い、キューバで初めて演奏する西側のロックバンドとなった。フィデル・カストロに面会した際、「大音量のライブになる」と伝えたところ、カストロが「戦争よりも大音量にはならないだろう」と言われたことがきっかけで、ライブDVDのタイトルには「Louder Than War」が選ばれた(ライブにはカストロも訪れている)。同年6thアルバム『ノウ・ユア・エネミー』を発表、全英2位を記録。 2004年、7thアルバム『ライフブラッド』を発表。ニュー・ウェイヴに接近、全英13位にとどまる。 2006年、2005年から2年間の活動休止期間中にジェームスがアルバム『ザ・グレート・ウエスタン』ニッキーがアルバム『アイ・キルド・ザ・ザイトガイスト』とそれぞれソロ・アルバムを発表した。 2007年、ソロ・プロジェクトを経てバンド活動を再開し、8thアルバム『センド・アウェイ・ザ・タイガーズ』を発表、全英2位を記録。シングル「ユア・ラブ・アローン・イズ・ノット・イナフ」ではカーディガンズのニーナ・パーションとデュエットしている。 2008年11月23日、英国の裁判所がリッチーの死亡宣告を発した。メンバーとリッチーの家族はリッチーの死亡に関して一切否定している。 2009年、9thアルバム『ジャーナル・フォー・プレイグ・ラヴァーズ』を発表。全曲リッチーが残していた歌詞を元に制作し、ジャケットの絵は3rdアルバムのホーリー・バイブルと同じジェニー・サヴィルによるものであり、本作はホーリー・バイブルの続編として位置づけられている。プロデューサーにニルヴァーナのイン・ユーテロなどを手がけたスティーブ・アルビニを起用している。イギリスの大手スーパーマーケットチェーンはアルバム・カバーの絵を問題視し、無地のスリップケースに入れた上で販売している。 2010年、前作からわずか1年4か月で10枚目となるアルバム『ポストカーズ・フロム・ア・ヤングマン』を発表。ジャケットのビデオカメラを持つ人物は俳優のティム・ロス。全英3位を記録。 2011年、2枚組ベスト・アルバム『ナショナル・トレジャーズ』を発表。デラックスエディションにはミュージック・ビデオを収録したDVDを付属。日本盤にはボーナストラック「ロックンロール・ジーニアス」収録。全英10位を記録。 2012年、リリース20周年を記念して1stアルバム『ジェネレーション・テロリスト』をリマスターしてリイシュー。初回限定盤にはドキュメンタリー映像やライヴ映像、ミュージック・ビデオを収録したDVDを付属。 2013年、前作から3年振りとなる11枚目のアルバム『リワインド・ザ・フィルム』を発表。今までと異なるアコースティックなサウンドを展開した。全英4位を記録。 2014年、前作から1年足らずで12枚目のアルバム『フューチャロロジー』を発表。8thアルバム以来となる全英2位を記録した。
※この「1996年以降」の解説は、「マニック・ストリート・プリーチャーズ」の解説の一部です。
「1996年以降」を含む「マニック・ストリート・プリーチャーズ」の記事については、「マニック・ストリート・プリーチャーズ」の概要を参照ください。
1996年以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 06:06 UTC 版)
「全インドサッカー連盟」の記事における「1996年以降」の解説
1996年、全インドサッカー連盟はナショナル・フットボールリーグ(英語版)を組織、初の国内全国リーグを結成した。 2007年、全インドサッカー連盟はナショナル・フットボールリーグに変わるプロサッカーリーグとしてIリーグを創設することを決断した。
※この「1996年以降」の解説は、「全インドサッカー連盟」の解説の一部です。
「1996年以降」を含む「全インドサッカー連盟」の記事については、「全インドサッカー連盟」の概要を参照ください。
1996年以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 08:33 UTC 版)
「オウム真理教の年表」の記事における「1996年以降」の解説
アレフ(現Aleph)への再編。 1996年1月18日破防法第1回弁明手続 1996年1月30日宗教法人オウム真理教解散命令事件。宗教法人格を喪失 1996年4月5日破防法第2回弁明手続 1996年4月24日麻原初公判 1996年5月15日破防法第3回弁明手続(麻原出席) 1996年5月28日破防法第4回弁明手続(麻原出席) 1996年6月ウェブサイト「オウム破防法適用で民主主義が危ない!」開設 1996年6月19日麻原に代わり、長男(当時3歳)と次男(当時2歳)の二人を「教祖」とした。麻原の地位は「開祖」に 1996年6月21日破防法第5回弁明手続 1996年6月28日破防法第6回弁明手続 1996年8月24日〜10月下旬麻原逮捕後の信者の引き締めを目的とする「観念崩壊セミナー」が、松本麗華が中心となり断続的に行われ、多くの負傷者を出した 1996年10月公式サイト「INTERNETオウム真理教」開設 1996年12月11日林泰男が玉川上水に隠したVX30~40グラムが発見される 1997年1月31日公安審査委員会、オウム真理教への破壊活動防止法の適用を棄却 1997年上九一色村に最後まで残っていた信者達の撤収後、村にあったサティアンの多くは閉鎖、取り壊された(第7サティアンサリンプラントのみ捜査のため残っていた) パソコン事業で教団維持に成功 1998年長野県に核シェルター建設開始(後に中止) 1998年10月23日初の死刑判決(岡崎一明) 1998年12月上九一色村に最後まで残った第7サティアンが解体される 1999年4月東京都内の繁華街で“復活”をアピール 1999年9月29日オウム真理教休眠宣言 1999年12月3日団体規制法と破産特別法が成立 1999年12月29日上祐史浩出所 2000年2月1日団体規制法に基づく公安調査庁長官の観察処分(3年間)が効力発生 2000年2月4日「宗教団体・アレフ」として再編 2000年7月1日ロシアで麻原彰晃こと松本智津夫の武力奪還・対日テロを図ったオウム信者逮捕(シガチョフ事件) 改組後の活動については「Aleph (宗教団体)#関連年譜」を参照 2004年2月27日東京地裁、麻原に死刑判決 2006年9月15日最高裁、麻原弁護団の特別抗告を棄却し死刑確定 2011年12月31日平田信が警視庁丸の内警察署に出頭。翌日に逮捕監禁致死の容疑で逮捕 2012年6月3日菊地直子が相模原市内の潜伏先で身柄を確保された 2012年6月15日高橋克也が東京都大田区の漫画喫茶内で身柄を確保される。これによりオウム関連の特別指名手配者はすべて確保された 2018年1月25日オウム事件全裁判終結 2018年7月6日オウム真理教元代表、麻原彰晃こと松本智津夫及び関係者らの死刑執行 2018年7月26日オウム真理教事件に関与した残りの死刑囚の刑が執行された。
※この「1996年以降」の解説は、「オウム真理教の年表」の解説の一部です。
「1996年以降」を含む「オウム真理教の年表」の記事については、「オウム真理教の年表」の概要を参照ください。
- 1996 年以降のページへのリンク