活動休止期間
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「ヴォーチェ・アンジェリカ」の記事における「活動休止期間」の解説
メンバーの結婚、育児などのため、1代目ヴォーチェ・アンジェリカのキングレコード専属としての活動は1968年で休止。キングレコードでは2代目が後を継いだが、1年余で解散している。
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活動休止期間(1956年 - 1987年)
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「モータースポーツにおけるメルセデス・ベンツ」の記事における「活動休止期間(1956年 - 1987年)」の解説
メルセデス・ベンツのワークスチームとしての活動は終了したが、カスターマーレーシング向けのレース用エンジン開発部門は残り、1956年以降もプライベーターへのサポートを続けた。ここでは主だった出来事だけ記載している。 1956年この年のヨーロッパラリー選手権(ERC)で、300SLと220(英語版)(W180)を駆ったヴァルター・ショック(ドイツ語版)がドライバーズタイトルを獲得する。 1959年3月、サファリラリーで、190SL(英語版)(W121)が同ラリーにおけるメルセデス・ベンツ車としての初優勝を挙げる(ドライバーはビリー・フリッチー(フランス語版)、コドライバーはジャック・エリス)。同じコンビで翌年も同ラリーを連覇した。 1960年1月、モンテカルロラリーで、220SE(英語版)(W111)が同ラリーにおけるメルセデス・ベンツ車としての初優勝を挙げるとともに、1-2-3フィニッシュを遂げる(優勝車両のドライバーはショック、コドライバーはロルフ・モル)。 この年のヨーロッパラリー選手権(ERC)で、ショックがドライバーズタイトルを獲得する。 1961年3月、サファリラリーで、220SE(W111)が優勝し、メルセデス・ベンツ車両は同ラリーにおける3年連続の優勝を達成する(ドライバーはジョン・マヌッシス(フランス語版))。 1962年この年のヨーロッパラリー選手権(ERC)で、220SEを駆ったオイゲン・ベーリンガー(ドイツ語版)がドライバーズタイトルを獲得する。 1964年11月、マカオのツーリングカーレース(後のギア・レース(英語版))で、300SE(英語版)が優勝する(ドライバーはベーリンガー)。 1971年7月、スパ24時間レースでAMGが300SEL 6.8 AMGを使って参戦し、総合2位、クラス優勝する。スポーツカーを相手に4ドアセダンで出した結果であることから、AMGはその名を広く知られるようになった。(→#1971年スパ24時間レース) 1977年8月12日から9月28日にかけて、ロンドン・シドニーマラソンラリー(英語版)に280Eで参戦し、1-2フィニッシュを飾る。(→#280E) 12月31日、車両開発部門の責任者であるハンス・シェレンベルグが引退し、ヴェルナー・ブライトシュベルトがその後任となる。 1978年3月21日、ブライトシュベルトがダイムラー・ベンツの車両開発部門担当取締役となり、取締役会に加わる。ブライトシュベルトはC111開発チームのハンス・リーボルト(Hans Liebold)に、サーキット上の最高速度記録の更新を目指した車を開発するよう要請する。(→#C111-IV) ブライトシュベルトは乗用車開発部門内の下部組織として、ラリー部門を設立し、エリック・バクセンベルガー(Erich Waxenberger)を責任者に任命して参戦体制を構築させる。(→#WRC) 1979年5月5日、ナルド・サーキット(イタリア)で、C111-IVが最高時速403.978km(時速250.918マイル)を記録し、サーキットにおける最高速度記録を更新する(ドライバーはハンス・リーボルト)。 12月、コートジボワールラリー(英語版)に450SLC 5.0で参戦し、世界ラリー選手権(WRC)におけるメルセデス・ベンツ車としての初勝利をあげるとともに、1位から4位までを独占する(優勝車両のドライバーはハンヌ・ミッコラ、コドライバーはアンネ・ハーツ(英語版))。 1980年国際自動車スポーツ連盟(英語版)(FISA)が、1982年から開始予定のグループC規定を発表する。C111-IV用に開発していたM117エンジン(英語版)を転用可能であることから、ダイムラー・ベンツのエンジニアの間で大きな話題となる。ルディガー・フォール(ドイツ語版)、レオ・レスら社内の有志5名が業務時間外に独自にグループCカーの設計と構想を練る活動を始める。(→#スポーツカーレース復帰に至る経緯) 12月14日、コートジボワールラリーに500SLCで参戦し、前年に続いて連覇するとともに、1-2フィニッシュを遂げる(優勝車両のドライバーはビョルン・ワルデガルド、コドライバーはハンス・トーゼリウス(フランス語版))。 12月18日、ブライトシュベルトの主導により、ダイムラー・ベンツの首脳陣はラリーからの撤退を決定する。グループB規定の車両は試作が進められていたが、これも中止される。(→#グループB参戦計画) 1981年8月、ダイムラー・ベンツ社内有志の5名がザウバーの手伝いを始める。 11月25日、エリック・バクセンベルガーがブライトシュベルトにザウバー車両のための風洞使用許可を要請し、翌月、許可される。 12月2日、フォールがブライトシュベルトにザウバーへのエンジン供給を要請し、拒否される。 1982年1月、パリ・ダカール・ラリーで、ウニモグ・1700L(435)がカミオン(トラック)部門で初優勝し、1-2フィニッシュする。 8月2日、ペーター・ザウバーがブライトシュベルトにザウバーへのエンジン供給を打診し、保留する旨の返事をもらう形でやんわりと拒否される。 12月8日、ダイムラー・ベンツが量販車の190(W201)を発表する。ダイムラー・ベンツとしては初のDセグメント車両(小型セダン)である同車は、従来手薄だったアジア市場までにらんだ世界戦略車であり、購買層の若年化を狙う販売戦略上の要請から、開発段階からレースでの活用がたびたび検討されており、後にグループA仕様、グループN仕様が製作され、レースで活躍することになる。 1983年1月、パリ・ダカール・ラリーで、280GE(W460)が総合優勝を果たす(ドライバーはジャッキー・イクス、コドライバーはクロード・ブラッスール)。 5月4日、ウンターテュルクハイム本社施設の風洞でザウバー・C7の実験が行われ、それを見学したブライトシュベルトが翻意し、ザウバーへのエンジン供給に向けて動き始める。(→#ブライトシュベルトの決断) 8月、ナルド・サーキットで190E 2.3-16(W201)が長距離走行の速度記録を樹立する。 10月23日、ブライトシュベルトが管轄する乗用車開発部門のアドバンスド・エンジン・リサーチ・センターがザウバーにエンジンを供給する契約を結ぶ。 10月29日、ダイムラー・ベンツの取締役会会長のゲルハルト・プリンツが急死し、同年12月、ブライトシュベルトがその後任として取締役会会長に就任する。 1984年5月12日、ニュルブルクリンクのグランプリサーキット完成を記念したワンメイクレースが開催され、そのレースのためにダイムラー・ベンツは20台の190E 2.3-16(W201)を提供する(優勝したのはアイルトン・セナ)。
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