スポーツカーレース復帰に至る経緯とは? わかりやすく解説

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スポーツカーレース復帰に至る経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 14:45 UTC 版)

モータースポーツにおけるメルセデス・ベンツ」の記事における「スポーツカーレース復帰に至る経緯」の解説

ダイムラー・ベンツザウバーとの関わりは、レース参加意欲持っていたダイムラー・ベンツエンジニア有志たちが余暇ボランティアとして、ザウバー協力始めるという形で始まった。やがて、その活動は、購買層若年化のための方策探していたダイムラー・ベンツ中枢の目に留まりメルセデス・ベンツ自動車レース活動再開へつながっていくことになる。 グループC規定が生まれた経緯 1970年代後半スポーツカーレースグループ5グループ6(英語版)の2つ規定基づいたレース用車両争われていたが、どちらも自動車メーカー惹き付けることができずにいた。スポーツプロトタイプカーによるグループ6は1978年ルノーアルピーヌ・A442(英語版)、A443)の撤退以降ポルシェ936)の一人勝ちとなって盛り上がり失い量産車により近い位置付けグループ5自動車メーカーにとって参戦しやすいカテゴリーだったが、ポルシェプライベーター走らせていたグループ6車両レース専用車両)にル・マン24時間レース等で太刀打ちすることは不可能であることから、やはりメーカーからの人気失っていった。 そうした状況から、FIA下部組織である国際自動車スポーツ連盟英語版)(FISA)は、1979年から新たなスポーツカー規定検討始め1980年に「グループC規定策定される。第2次オイルショック1979年)の影響にあった当時の情勢背景に、この規定は「限られたエネルギー最大パフォーマンス実現すること」をテーマとして策定されこの方針はFISAのテクニカルワーキンググループを構成する各自動車メーカーからの支持を受け、1982年から施行されることが決定されるに至る。 ダイムラー・ベンツの「リビングルームテーブルクラブ」 1955年以来サーキットにおけるレース活動から遠ざかっていたダイムラー・ベンツだったが、1970年代通じて試験車両シリーズであるC111によって空力エンジン効率性追求しており、グループCによって示され方針同社エンジニアたちの関心大い惹き付けるのだったいつしかダイムラー・ベンツ社内では有志ランチタイム週末集まりC111-IV搭載されV型8気筒ターボエンジンであるM117英語版)を搭載したグループCカー構想を練るようになっていった。 この集まりメンバーは、車体設計レオ・レスとロルフ・ホルツァフェル、ラリーエンジンの開発をしていたウォルフガング・ミュラー、空気力学専門とするルディガー・フォール(ドイツ語版)とヘルムート・ユリヒャーの5名で、「リビングルームテーブルクラブ」と呼ばれたフォール自宅の「リビングルーム」と全体的なコンセプト提供し、ユリヒャーが図面を引き、彼らは1981年初めにグループCカー設計図完成させたが、それを実現させる資金などあるはずもなく、活動はそこで停滞余儀なくされる1981年8月、ルディガー・フォールは、人づてに彼の名を聞いたスイスコンポジット会社のジーガー&ホフマン(Seger & Hoffman)から「1982年グループCカー製作のため、空力専門家探している」と問い合わせる電話受けたフォールはただ一言、「我々はデザインを既に完了しています」と返答した同社に製作を依頼していたのはペーター・ザウバーであり、これがザウバーと「リビングルームテーブルクラブ」の協働端緒となる。 ザウバー・C6(1982年) こうして、ザウバーシーガー&ホフマン、「リビングルームテーブルクラブ」は、ザウバー初のグループCカーである「C6(英語版)」の開発開始したザウバーアルミモノコック車体受け持ちシーガー&ホフマンボディカウルなどの製作を担当し、これらはレスとユリヒャーが助けた問題になるのはエンジンだった。「リビングルームテーブルクラブ」は当然のようにM117エンジン同車搭載するつもりだったが、彼らの活動は完全にダイムラー・ベンツ業務外のことであり、C111の開発所管する乗用車開発部門(アドバンスド・エンジン・リサーチ・センター)の許可を必要とした。同部門責任者同社取締役ヴェルナー・ブライトシュベルトエンジンの提供に難色示し、「ザウバープロジェクトはC111の延長線上にある」というフォールらの主張却下しペーター・ザウバーもブライトシュベルトにエンジン供給する意思がないか打診するが、これも返事保留する形でやんわり断られた。同様に当時グループB参戦計画頓挫により手つかず放置されていたコスワース製の2,140ターボエンジン転用するという案も却下された。 ダイムラー・ベンツ乗用車開発部門は、当時190(W201)の開発佳境で、乗用車開発試作手一杯の状態で、余計なプロジェクトに関わっている余裕もなかったためであり、開発部門を預かるブライトシュベルトとしては当然の判断だった。エンジン提供は拒否されたが、フォールらはジンデルフィンゲン工場にある1/5モデル用の古い風洞設備使用許可ラリー部門責任者であるエリック・バクセンベルガーを介してブライトシュベルトに求め、これには許可与えられた。 結局エンジンフォード・コスワース・DFVエンジンのボアストローク拡大版である「DFL」を搭載することに落ち着き、C6は名前に「Seger & Huffman / Sauber」の頭文字加え、「SHS C6」として完成したザウバー・C7の風洞実験とブライトシュベルトの決断1983年結果として、C6は失敗作となり、それに不満を持ったシーガー&ホフマンレースから手を引いたザウバーと「リビングルームテーブルクラブ」は諦めず1983年向けてレオ・レス設計になる「C7(英語版)」を完成させた。 C6で大きな問題となったのはフォードDFLエンジン発生する振動で、当のフォード社不出来なDFL主な原因として、自社グループCカーであるC100による参戦諦めたほどの難物だった。ザウバーにとって幸いなことに、1983年スイスのエンジンチューナーであるハイニ・マーダー(ドイツ語版)が、ほぼ無償で2基のBMWM88エンジン英語版)を貸与してくれた。 ダイムラー・ベンツ社内では、「リビングルームテーブルクラブ」の活動正式に認められたものではなかったものの、C111時代つながりから、空力部門などは彼らの活動黙認していた。空力追求するにあたって重要となる剛性試験台解析コンピュータ使用は、彼らの活動好意的だったラリー部門のバクセンベルガーが許可した。しかし、モータースポーツ行っていなかった当時ダイムラー・ベンツ厳密な空力測定をさほど必要としていなかったため、縮尺模型用のムービングベルト(ローリングロード付き風洞持っていなかった。より正確な計測を必要とした「リビングルームテーブルクラブ」は、ウンターテュルクハイムの本社施設にあるアドバンスド・エンジン・リサーチ・センターが管轄する1/1風洞使用画策する。 「 この車には、気に食わないことがひとつある。エンジンだ。ダイムラーエンジンあるべきだ。 」 —ヴェルナー・ブライトシュベルト1983年5月4日1983年5月4日フォールはウンターテュルクハイムの風洞BMWエンジン搭載したザウバー・C7を運び入れ風洞実験始めた。この実験許可されたものだったが、不審思った風洞オペレーターによって責任者のブライトシュベルトが呼び出される図らずもテスト立ち会うことになったブライトシュベルトは、そこでC7の仕上がりテスト様子魅了されてしまい、(BMWではなく)メルセデス・ベンツエンジンを使うよう注文付けモータースポーツ参戦についての企画書提出するようフォール言って立ち去ったダイムラー・ベンツ自動車レース復帰へと方向づけたという点で、この出来事はほぼ半世紀前のキッセルとノイバウアーやり取り再現となり、ここから事態急速に進展していくことになる。 生粋エンジニアだけで構成された「リビングルームテーブルクラブ」には考えが及ばないことだったが、巨大な自動車企業によるモータースポーツへの参戦技術開発だけを目的として行えるものではなかった。特にダイムラー・ベンツでは「復帰となれば1955年撤退との兼ね合いであるとか、いずれ「シルバーアロー」の復活まで見据えなければならないことであるとか、考慮しなければならない事柄多くサーキットレースに再び参加するためには、取締役会納得させられるだけの理由付け必要だったフォールらが提出してきた企画書満足のいくものではなかっため、ブライトシュベルトは老練な役員たちを納得させるために、半年渡って慎重に根回し行い、額は少ないながらも、グループCエンジンの開発予算獲得することに成功した1983年10月23日ダイムラー・ベンツ正式なモータースポーツ活動としてではなく、アドバンスド・エンジン・リサーチ・センターの権限ザウバーへのエンジン供給契約結ばれた。その6日後の10月29日当時ダイムラー・ベンツ取締役会会長ゲルハルト・プリンツ心臓発作により54歳若さ急死するという椿事があり、それに伴い、ブライトシュベルトはその後任として取締役会会長就任した以降ザウバーへのエンジン供給は、ダイムラー・ベンツとしては非公式な活動ありつつも同社経営陣トップのブライトシュベルトによる後ろ盾を得ることとなる。 M117HLツインターボエンジンの開発1984年) ブライトシュベルトは、ザウバー担当として、ヘルマン・ヒエレス(Hermann Hiereth)と、M117エンジンの開発者であるゲルト・ヴィザルム(Gert Withalm)を任命し、彼らがダイムラー・ベンツ側の責任者となる。グループCカー用のエンジン開発は、ヴィザルムではなく若手のヴィリ・ミュラー(Willi Müller)が担当するという布陣構築された。予算都合上V8M117エンジンベースとするという点は動かせなかったので、ミュラーグループC技術規則定める約1.8km/l以上という燃費効率満たしつつ、同エンジン650馬力程度出力するにはどうすればよいか検討行ったC111-IV搭載されていたM117と同じ排気量3,000ccで製作する場合回転数は7,500rpm、過給圧1.5バールほど必要になる計算となるが、そのためにはシリンダーブロック頑丈にする必要があり、重量面でデメリットがあった。比較検討した結果ミュラーM117排気量を5,000ccに拡張し回転数は6,000rpm程度過給圧0.7バール程度抑えるのが最適という結論に至る。M117エンジン市販車用に開発されたものであり、コンロッドピストンなどはレース用に適さなかったため、これらはザウバー紹介されたハイニ・マーダーの助力を得つつ開発が行われ、ターボチャージャーポルシェ参考にしてKKK英語版)製を装着し、M117HLツインターボエンジンが完成した。 同エンジン最初ベンチテスト1984年12月始められ並行してザウバーでは、レオ・レス指揮の下、BMW M88用に製作されていたC7をM117HLエンジン適合するよう変更する形で、ザウバー・C8開発進められた。

※この「スポーツカーレース復帰に至る経緯」の解説は、「モータースポーツにおけるメルセデス・ベンツ」の解説の一部です。
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