スポーツカー時代到来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 09:48 UTC 版)
「ラリー・モンテカルロ」の記事における「スポーツカー時代到来」の解説
1962年からの4年間に及ぶミニの活躍の潮時はやってくる。1964年を最後に最終日恒例のGPコースタイムトライアルが廃止されるも、1965年にはSS距離が初めて200kmを超すコース取りとなる。1966年には簡略化されていたFIA競技車両規則がJ項と言う形で整理され、それに応える形でACMも「ハンディキャップ制」を廃止し、純粋なSSタイムでランキングを決めていくルールへと変更されていく。 この流れに台頭してきたのがポルシェ・911とアルピーヌ・A110である。1968年は911Tのビック・エルフォード、アルピーヌのジェラール・ラルースら、スポーツカー選手権などで名を馳せる面々の活躍が目立つ。ドライコンディションではミニ・クーパーでも歯が立たず、アルピーヌ勢はチュリニ峠でラルースが観客の投げ込んだ雪塊でクラッシュするなどして全滅。ポルシェが1-2を飾りBMCミニが3~5位となると、BMCワークスはこの年限りでモンテから撤退する。 1969年にはSSの距離が408kmにまで伸びる。ポルシェはビヨン・ワルデガルドと移籍したラルースの911Sが、1968年~1970年にかけて大会史上37年ぶりに3年連続1-2を達成する。1971年、ポルシェが販売戦略として914/6を投入すると、2年連続3位であるアルピーヌにチャンスが訪れる。155馬力にまで進化させたA110を6台体制で投入し、オベ・アンダーソンをスポット起用して1-2-3を成し遂げる。 1972年は上位を独占していたアルピーヌ勢が全滅し、1968年大会での悲劇を乗り越えたサンドロ・ムナーリがランチア・フルヴィアHFで優勝する。WRC開幕戦として組み込まれることになった1973年はアルピーヌが1.8Lに進化し、1-2-3、5位と完勝を果たす。ポルシェワークスもラリー活動を縮小した事もあり、暫く誰もがこの流れが続くかに思えた。 1973年秋頃から第四次中東戦争含むオイルショックが発生し、多くのモータースポーツイベントが開催中止となる。ラリー・モンテカルロもそれに同調し、1974年の開催をキャンセルする。1年間のブランクを終えた1975年、コンサントラシオンを終えたラリーカーの勢力図はまた大きく変化して行く。 1960年代中盤より、ナイトステージ用にフォグランプ(ドライビングランプ)をステー等を使って後付搭載する様になり、1970年代ともなると一部スポーツカーを扱うチームではライトポッドとして一体型となり、メンテナンスにおいて取り外ししやすい装備形状への合理化と変化がみられる。1970年代前後は、路面の積雪や凍結状況をペースノートに的確に反映させる「アイスノートクルー」が普及する途上で、チーム-ドライバー間の無線交信が普及しておらず、観客がコース上に投げ入れた雪塊に、ドライ路面を得意とするスポット参戦の準レースドライバー達が足をすくわれ、結果に影響を及ぼす場面も時折見受けられた。
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