撃沈
撃沈
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9月27日午前8時過ぎ、「りすぼん丸」は香港を出港した。目的地は宇品で、門司を経由地に予定した。捕虜を乗せていることを考慮して防諜上の理由で馬公への寄港を避けたため、護送船団には組み込まれず、直接護衛無しの単独航行だった。対潜警戒の之字運動をしつつ速力10ノットで大陸沿岸を航行して、初めの4日間は平穏な航海だった。捕虜は基本的に薄暗い船倉で生活したが、初日は上甲板で1時間過ごすことが許され、上甲板に設置されたトイレの使用管理も捕虜中の下士官へすぐに委ねられた。航行中の食事は朝夕に米飯と茶かタマネギ入りの汁物が支給されたほか、初め2日間の夕食には捕虜たちが出港前に共同購入したコンビーフが付いた。飲料水は各自の水筒に1日2回支給されたが、洗面に使う水は無きに等しかった。 10月1日午前7時15分、「りすぼん丸」は、舟山群島沖の.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯30度17分 東経123度13分 / 北緯30.283度 東経123.217度 / 30.283; 123.217(アメリカ側記録:北緯29度57分 東経122度56分 / 北緯29.950度 東経122.933度 / 29.950; 122.933)の地点を航行中、アメリカ潜水艦「グルーパー」の雷撃を受けた。「グルーパー」は目標に捕虜が乗船していることに気付いていなかった。「りすぼん丸」には魚雷2発が命中。うち機関室付近に命中した1発は不発だったが、右舷船尾のスクリュー付近に命中したもう1発が爆発、スクリュー軸伝いに機関室が浸水、舵も破壊されて航行不能に陥った。命中時に日本兵1人が戦死、4人が負傷している。浸水は緩やかで、沈没までは時間がかかると考えられた。 緊急通信を受けた日本海軍は、すぐに航空機を偵察と連絡、対潜制圧に発進させた。10月1日午前12時20分に支那方面艦隊所属の駆逐艦「栗」が現場に到着し、特設砲艦「百福丸」、「第十雲海丸」、「豊国丸」も続いた。捕虜監視兵や船員を除く日本人乗船者は、午後5時過ぎから栗、「百福丸」、「豊国丸」へ移動した。一方、捕虜は乗船部隊指揮官と相談した護送隊の少尉の指示で日本人退船中の混乱を避けるため船倉へ戻され、船倉口はハッチを閉じた上にターポリン(覆い布)まで被せて封鎖された。船長はこの措置に反対したが、護送指揮官の命令により実行された。日本の俘虜情報局作成の内部報告書では、捕虜代表のスチュワート中佐とピット少佐へ曳航する旨の説明をして了解を得て、肉の缶詰等を配布したと主張している。午後8時50分から「豊国丸」が「りすぼん丸」の海岸への曳航を開始した。同日夜から翌朝にかけて「第一号黄浦丸」、「笠島丸」、「正生丸」、「利根丸」も現場に到着している。 翌10月2日、浸水は船体後部から船体中央の第3船倉まで広がり沈没が迫った。日本兵へ苦情を訴えても無視され続けた捕虜たちは、午前8時頃にスチュワート中佐の指示で第2船倉のハッチを破壊して脱出した。甲板に出た捕虜は第1船倉のハッチも開いたが、第3船倉はすでに海面下に没しており開けられなかった。日本人船員の一人は、いよいよ最後という時に浸水の圧力で船倉のハッチが水柱を上げて吹き飛び、遺体と生存捕虜が飛び出してきたと述べている。監視兵は捕虜に対して発砲したが、午前8時55分に監視兵や船員も退去に移り、午前9時7分に「りすぼん丸」は東福山から方位角352度・距離約104kmまたは衢山島下三星灯台から方位角136度・距離約31kmの地点で沈没した。水深が浅かったため、マストや煙突の先端が水面から飛び出した状態で残った。周囲にいた日本軍艦船により救助作業が行われて現場の報告では644人が収容された。近在の中国漁船も救助に駆け付けた。捕虜の一部は付近の島へ上陸したが、10月3日に414人が日本海軍に救出後に捕えられたと報告されるなど、日本軍の捜索活動によりほとんどが救出後に再拘束された。日本側の記録では捕虜845人が溺死と判定されたが、実際には少なくとも3人の捕虜が付近にいた漁船の中国人に救助されることで逃亡に成功していた。日本側の人的被害は捕虜監視兵1人が戦死・1人が行方不明となったほか、便乗していた歩兵第82連隊第1機関銃中隊の1人も戦死した。
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撃沈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 04:14 UTC 版)
「宮古丸」の最後の航海となったのは、沖縄本島に向かう定期航海であった。「対馬丸」などと並んで沖縄戦関連の戦没船として数えられることがあるが、疎開船としての運航ではない。乗客は343人で、船舶通信部隊や軍鳩輸送担当の軍人70人・軍属50人・女子挺身隊員13人を含んでいた。貨物は、軍需品44トンと郵便物120個を積んでいた。 8月5日午前7時前、「宮古丸」は加計呂麻島俵港を那覇港へ向けて出港した。他の商船と船団を組んではおらず、本船1隻に対し第一号型駆潜特務艇である第25・第27・第43号駆潜特務艇が護衛として付けられた。護衛艦は木造漁船型の低性能なもので、「宮古丸」が先頭に立って護衛艦3隻を引率するような隊形で航行した。航行速力も「宮古丸」のみなら9.5ノットで航行可能であったが、護衛艦に合わせて6.5ノットに抑えた。駒宮真七郎は、前路警戒が不十分な隊形であり、護衛艦の能力が直衛には不適切であったと評している。 雷撃を予防するため之字運動C法のジグザグ航行で進んだが、乗客らが昼食を取っていた同日12時35分頃、徳之島南方11km付近(日本側記録:北緯27度34分 東経128度55分 / 北緯27.567度 東経128.917度 / 27.567; 128.917、アメリカ側記録:北緯27度36分 東経128度54分 / 北緯27.600度 東経128.900度 / 27.600; 128.900)でアメリカ潜水艦「バーベル」の雷撃を受けた。魚雷は船体中央や後部に命中し、船首を直立させた状態となりながら急速に沈没した。乗客は緊急時以外に甲板へ出ることを禁じられていたこともあって脱出が難しく、救助された乗客は73人だけで、残る270人が死亡した。船員52人のうち15人と海軍警戒隊員4人も戦死し、死者は総計289人に上った。遭難の連絡を受けた奄美大島の大島防備隊(司令:副島冨士太郎大佐)は、翌6日早朝に特設掃海艇「宝永丸」、特設監視艇「北洋丸」「第一号海洋丸」および漁船4隻を対潜掃討に出撃させたが、「バーベル」を捕捉できなかった。 1987年(昭和62年)に那覇市若狭の旭が丘公園に「海鳴りの像」と題する慰霊碑が建立され、2007年(平成19年)には犠牲者名を記した刻銘板が設置されている。また、2001年(平成13年)には、日本政府主催で「対馬丸」遺族などと合同の洋上慰霊祭が客船「ふじ丸」を使って行われた。
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撃沈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 16:18 UTC 版)
「ルシタニア (客船)」の記事における「撃沈」の解説
ルシタニアはアイルランドのケープ・クリア島(英語版)沖30 マイル (48 km) の地点で航行していたが、霧に遭ったため18ノットに減速し、アイルランド南部を航行していた。そして14時10分、U-20の前方にさしかかった。 U20のシュヴィーガー艦長は雷撃を命令し、2本の魚雷が発射された。ルシタニアは減速転舵して進路をU20の方にとってしまい、攻撃射程に入っていた。1本の魚雷が右舷ブリッジ直下に命中した。そしてその直後、魚雷の爆発に続いて2度目の大爆発が生じた。その衝撃で破片と煙が舞い上がり、5番救命ボートが損傷した。無線士はSOSを発信し、ターナー船長は総員退船を決定した。 縦通隔壁 (船を左右に分ける壁、本来は船の沈没を遅らす為の構造) の影響で、浸水の区画が偏り、ルシタニアは右舷に15度傾斜した。船長ターナーは船の針路を変え、意図的に座礁させることを試みたが、舵がきかなかった。魚雷の衝撃で操舵システムが破壊され、操船不能の状態になっていた。しかし、動力機関は動いていたため、ルシタニアは18 ノットを保ったまま航行し、その結果、大量の海水が船内に入り続ける結果となってしまった。 ルシタニアが右舷に傾斜したことで、救命ボートを降ろすのが困難となってしまった。右舷のボートは傾斜により船体から離れてしまい、搭乗が難しくなってしまった。左舷にあったボートは、船体外板を接合する際に使用したリベットにボートが当たり、ボートが損傷してしまった。ボートの転覆や沈没によって、海に投げ出され、死亡する乗客が相次いだ。また、船員の怠慢が原因で、ボートが転落したり、乗客が落水する事例もみられた。ルシタニアには救命ボートが48隻あり、全ての乗客・乗務員を乗せられたが、無事着水したのはわずか6隻で、その全てが右舷から降ろされたものだった。 船長ターナーは操船・減速を試みたが、船内の伝声管が破壊されていたため、機関室や舵室が応答せず、さらに船内も大混乱となっていた。U-20のシュヴィーガー艦長は潜望鏡でルシタニアの様子を確認したあと、14時25分、潜望鏡を戻し、現場を離れた。 6分後、ルシタニアの船首楼甲板が水没し、傾斜が激しくなっていった。魚雷を受けてから10分後、救命ボートを降ろす作業が始まったが、左舷では、乗客がパニックに陥り救命ボートに押しかけ、手すりを飛び越えて乗ろうとしていた。右舷では、幾つかのボートが流されてしまっていた。乗務員は詰め掛けてくる乗客に圧倒され、転落する者も現れた。このことで、さらにボートを降ろすことが困難になってしまった。人が押しかけるためボートから転落する乗客、ボートに飛び乗る乗客もいた。無事に着水できたのは先述したごく少数の救命ボートだけである。 船長はブリッジに戻り、船と運命を共にするつもりであったが、水流によってドアが破壊され船外に流され、浮いていた椅子にしがみついた。船長はやがて意識を失い椅子と共に漂流していたが、3時間後に救助された。ルシタニアの船体は水深100mの海底に船首部が着底したが、船体が巨大であったため、着底した船首によって支えられ、沈没後しばらくは船尾部が水面上にあった。その後、ボイラーの爆発と船の傾斜により第3煙突が崩壊し、残りの煙突も次々に傾斜により倒壊した (当時の煙突は、背が高く重量があり、鋲で組み立てられ、甲板にワイヤーで固定されていた薄い筒であった)。ターナー船長は雷撃の直前2分前に現在位置を確認しており、沈没時の速度などを覚えていたため、戦後正確な沈没位置を証言することができた。 ルシタニアはわずか18分で南部アイルランド沖8 マイル (13 km) の地点に沈没し、1,198名の乗客が犠牲となった。その中には100人の子供も含まれていた。事故後浮上していた遺体はルシタニアの目的地であったクイーズタウンに移動され、教会で手厚く葬られたが、収容されなかった遺体も多い。
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撃沈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 16:38 UTC 版)
太平洋戦争開戦後は日本陸軍の輸送船となった。1942年5月5日、民間人を含む1360名、物資2300tを乗せ宇品港を出港。他4隻と特設砲艦1隻の船団を組み、9ノットでシンガポールに向けて航行中、5月8日午後8時40分頃に長崎県の男女群島に近い.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯30度45分 東経127度40分 / 北緯30.750度 東経127.667度 / 30.750; 127.667の東シナ海で、アメリカ潜水艦「グレナディアー」等の雷撃を受け、浸水し約55分後に沈没した。 南方作戦占領地のインフラ整備に召集された鐘淵紡績、小野田セメント、三菱商事、住友商事、三井物産などの営業マンや、台湾烏山頭ダムの八田與一をはじめとした技術者ら乗客、軍属、船員他817名が殉難した。 海底に眠る船体が2018年に発見された。
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撃沈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 08:08 UTC 版)
交換船としての役目を終えた帝亜丸は、陸軍運送船に復帰した。1944年(昭和19年)8月10日、帝亜丸はシンガポールへの陸軍部隊輸送の任務でヒ71船団に加入し、伊万里湾を出港した。帝亜丸の乗船者は主に南方軍向けの補充要員や軍政要員、第3航空軍関係者で、軍人・軍属4,936人と日本の民間人286人だった。だが、ルソン島北西岸.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯18度09分 東経119度56分 / 北緯18.150度 東経119.933度 / 18.150; 119.933に差し掛かった8月18日夜、帝亜丸はアメリカ潜水艦ラッシャーの雷撃に遭った。午後11時12分頃に右舷2番船倉と右舷機関室後部に魚雷1発ずつが命中、破損個所からの大浸水と機関部の爆発ののち左舷に傾斜、午後11時40分頃に船尾から沈没した。この間、自衛のため乗船していた陸軍船舶砲兵が野砲と機関銃を発砲したが、戦果は無かった。魚雷命中直後に船内は停電状態になったため、帝亜丸の乗船者は暗闇の中で脱出を図ることになり多数の犠牲者が生じた。死亡者数は諸説あるが、駒宮真七郎によれば2,369人または2,685人、竹野弘之によれば2,665人とされており、軍人・軍属2,387人、民間人32人死亡とする記録もある。大内健二によれば帝亜丸の死者は2,654人に上り、第二次世界大戦中の日本の輸送船としては8番目に多い犠牲者数となった。
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撃沈
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「コノトープ (ミサイル艇)」の記事における「撃沈」の解説
トビリシは、その後もグルジア海軍に在籍していたが、2008年8月13日、南オセチア紛争の際にポティ港へ入ったロシア軍によって火を付けられ、破壊された。
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撃沈
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その後浅間丸は再び海軍に徴用され輸送船として活躍した。この際、自衛武装として三年式8cm単装高角砲2門、九六式25mm機銃、九三式13mm機銃、九二式7.7mm機銃、水中聴音機1基、爆雷16個を装備した。浅間丸級は空母改造の対象船舶であった。だが改造工事に着手できないまま、龍田丸・鎌倉丸は沈んでしまった。 1944年(昭和19年)2月23日午前3時頃、ヒ40船団の1隻として錫やタングステンなどを満載して台湾近海の蘇澳沖を北上中、アメリカの潜水艦グレイバックの魚雷により左舷船首に被弾損傷したが、よろめきながら台北の北東に位置する基隆港の外港に避難入港し沈没は免れた。 浅間丸は基隆港務局築港部長の吉村善臣(1902~1995年)の奮闘により修理を受けて、約2ヶ月後に神戸に向けて出港した。1944年10月にはマモ04船団としてレイテ島の戦い用の増援部隊である第1師団をマニラまで送り届ける重要任務に成功した。ところがその帰路の11月1日、マニラから高雄へ向けて護衛艦とともにバシー海峡を北上中にアメリカの潜水艦アトゥルの発射した魚雷が命中して沈没した。1000人以上が救出されたものの、500人以上が死亡した。
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撃沈
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「晃和丸」の最後の航海が行われた1945年当時、朝鮮半島沿岸でも日本の海上交通は危険な状態にあり、同年4月14日には済州島の翰林港沖にアメリカ海軍潜水艦「ティランテ」が侵入してモシ02船団の「壽山丸」と護衛の「能美」・第31号海防艦を撃沈していた。 1945年5月7日午前7時、「晃和丸」は済州港から最後の航海に出航した。韓国文化放送済州放送局制作のドキュメンタリー番組『晃和丸の悲鳴』(1993年8月15日放送)によれば、定員350人に対して疎開希望者が殺到し、750人以上が乗船したという。韓国文化放送『晃和丸の悲鳴』は「晃和丸」を日本軍の疎開命令による済州島からの疎開船第1号としているが、山辺(1999年)によれば「晃和丸」は定期旅客船で、軍が関与した疎開船第1号は1945年7月の「豊栄丸」である。また、『ハンギョレ』によれば、日本軍徴兵者も乗船していた。 5月7日午前10時から10時30分頃、「晃和丸」が湫子島に入港直前、アメリカ軍機が飛来して1回目の空襲を受けたが人的損害はなかった。しかし、湫子島を出港して午後1時頃にフェンガン島付近を通過しようとする時、再びアメリカ軍機が飛来して爆撃を受けた。1発目の爆弾が船長室脇の2等船室に命中、2発目の爆弾が機関室に命中して船体は炎上、沈没した。船客が民間旅客船であることを示そうと白いチマを振ったりしたが、アメリカ軍機は旋回しつつ甲板や海上漂流中の乗客に機銃掃射を加えた。日本軍艦艇による救助活動が行われたが、『ハンギョレ』によれば257人が死亡、韓国文化放送『晃和丸の悲鳴』によれば死者は520-600人に上る。船員の戦死者は2人であった。なお、5月5-7日、朝鮮半島近海では「虎丸」(宇和島運輸、503トン)・「辰千代丸」(辰馬汽船、6873トン)・「第二宏山丸」(山本汽船、6886トン)・「樺丸」(日本製鐵、884トン)など日本船多数が空襲で撃沈されている。
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撃沈
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武洲丸に最期が訪れたのは、太平洋戦争後期の1944年(昭和19年)9月である。9月8日に台湾の基隆港を那覇港に向け出港したタカ808船団に加入し、途中でアメリカの潜水艦スペードフィッシュの襲撃で僚船4隻が沈没しながらも、武州丸は無事に那覇へ到着した。そして、徳之島から九州本土へ疎開する民間人を運ぶため、船団とは別れて奄美大島へ向かった。当時、アメリカ軍の上陸に備えるため、南西諸島各地で女性・子供・高齢者の本土および台湾疎開が勧告されていた。 奄美大島の古仁屋に到着した武洲丸は、鹿児島港から奄美大島名瀬港経由で来た姉妹船相洲丸と合流。古仁屋で、小船によって徳之島から集合していた疎開者の搭乗を開始した。15歳未満の子供77人を含む民間人154人が乗り込んだほか、陸海軍関係者24人が便乗した。乗員側は、軍属船員36人と自衛火器を操作する海軍警戒隊(人数不明)である。船倉を居住区画として使用したほか、船倉内は暑いため上甲板にも3番デリックを中心に日除けテントを張って寝泊まりした。なお、相洲丸は先に名瀬港で杭木500トンを積んでおり、疎開者の家財類を担当した。 9月24日朝、武洲丸と相洲丸の2隻で編成された臨時ナカ502船団は、第89号駆潜特務艇と第200号駆潜特務艇の護衛で奄美大島から出航した。7.5ノットのゆっくりした速度で、26日午前に鹿児島到着予定であった。2晩目に入った25日午後9時2分頃、諏訪之瀬島北西13km付近の洋上を雷雨をついて航行していた武洲丸は、アメリカの潜水艦バーベルから雷撃された。バーベルの魚雷が命中した武洲丸は急速に浸水し、北緯29度46分 東経129度40分 / 北緯29.767度 東経129.667度 / 29.767; 129.667の地点で沈没した。相洲丸は爆雷で反撃しつつ離脱し、護衛艦が救助活動を行ったが収容されたのはわずかで、疎開者148人・便乗軍関係者18人・軍属船員11人・海軍警戒隊員5人の計182人が死亡した。なお、日本海軍は第453海軍航空隊と沖縄海軍航空隊古仁屋派遣隊の水上機を出動させて27日まで対潜掃討を行ったが、成果は無かった。
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撃沈
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「マタ30船団」も参照 10月20日、阿里山丸を含め輸送船12隻から成るマタ30船団は、護衛艦5隻に守られてマニラを出港した。ルソン島沖には多数のアメリカ潜水艦が待ち伏せており、船団は7隻の潜水艦から集中攻撃を受けた。23日午後5時半以降、加入輸送船は次々と撃沈された。 10月24日、阿里山丸は、右舷から打ち込まれた魚雷4発、左舷からの魚雷3発をかろうじて回避した。が、さらに右舷から来た魚雷はかわしきれず、3発が命中した。うち2本の命中個所は船体中央よりやや後方で、日本船員らが乗っていた第3船倉と推定される。もう1本は船尾に命中している。船体は船尾の被雷部分で分断されて、午後7時40分頃、ルソン島北西洋上で船尾から沈没した。戦後、阿里山丸はアメリカの潜水艦スヌーク(USS Snook, SS-279)の戦果として認定されたが、スヌークも午前5時ごろの四度目の攻撃以降は何ら戦闘行動を起こしていないため、シャーク(USS Shark, SS-314)の雷撃による戦果と思われる。 沈没時、輸送指揮官である陸軍中尉は捕虜を船倉に閉じ込めたまま沈めてしまうよう指示した。しかし船長は指示に従わず、船倉の扉を開けて捕虜を解放した。捕虜の証言によると、看守が退去前に船倉の出入り用縄梯子を切断してしまっていたが、捕虜たちが修理した。ほとんどの捕虜は船倉から脱出でき、食糧や水を漁りつつ洋上に逃れた。捕虜には、部隊輸送で使った竹製の救命胴衣が事前に支給されていた。 護衛の駆逐艦竹は他の沈没船遭難者を収容して限界状態だったが、阿里山丸の船員を収容した。直後、漂流船商船曳航の命令を受けて現場を離れた。護衛艦艇は救助活動を行っていたが、捕虜たちが救助を求めて近づくと、棒などで突き戻された。また、捕虜の中には日本軍に再収容されることを拒み、自ら泳いで救助艦から離れる者もいた。捕虜たちは海面に残っていた救命ボートや筏などに掴まって漂流を続けたが、ほとんど行方不明となり死亡したと見られる。生存が確認されているのは、4-5日後に通りかかった日本船に救助された4人と、救命ボートで航行して中国の民間船に救助された5人だけである。中国船に救助された5人は、昆明市所在のアメリカ第14空軍へ送り届けられた。日本船に救助された4人のうち、1人は台湾の軍病院で11月9日に死亡した。 阿里山丸の乗船者のうち日本人は乗員である船員のうち2人、輸送中の遭難船員204人中22人、捕虜護送隊員40人中5人および船舶砲兵第1連隊所属の85人中13人が死亡または行方不明となった。アメリカ人捕虜は1781人のうち救助された9人を除くと1772人(収容後死亡を含めると1773人)が死亡したことになる。これは、1隻の船の戦時沈没によるアメリカ人死者数としては最大の事例である。 捕虜多数が死亡したことについて、戦後、日本側関係者に対する戦争犯罪責任の追及がされた。船長が取調べを受けたが、不起訴となっている。護衛の駆逐艦竹艦長の田中弘国少佐や水雷長の志賀博大尉も、捕虜を救助しなかった件についてイギリス海軍の取り調べを受けたが、特に問題視されず、起訴されることなく釈放された。 駆逐艦竹の水雷長志賀大尉の回想によれば、阿里山丸には捕虜輸送中の緑十字標識が描かれており、日没前のため明瞭に識別できる状態だった。志賀によれば、アメリカ軍潜水艦は捕虜乗船の標識を無視して阿里山丸を撃沈したことになる。他方、阿里山丸について調査している乗船捕虜の遺族であるウィリアム・ボーエンによれば、阿里山丸に特別の標識はされていなかった。日本軍の捕虜待遇などについて研究しているPOW研究会の三輪祐児によれば、当時の戦時国際法上、病院船と異なって捕虜輸送船を示す標識の規則は存在しなかったと思われ、日本軍の捕虜輸送船にも何ら標識は掲示されていなかった。
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「 撃沈」の例文・使い方・用例・文例
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