脚注及び出典
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「アメリカ横断ウルトラクイズのクイズ形式」の記事における「脚注及び出典」の解説
[脚注の使い方] ^ これは言い換えれば球場で発表される総参加者数よりも実際に球場に来ている人数は挑戦者の子供などがいる分多くなっていることになる。 ^ 王貞治の通算756号本塁打(世界新記録)達成の翌日に行われた。この日も、前日に続いて巨人-ヤクルト戦のナイトゲームが行われた。 ^ 事実、このルールを採用する前の第2回では、第1問・第2問の2問に渡って群集心理により「片方(不正解側)1人、もう片方(正解側)は残り」が起きてしまった。 ^ 放送上初めてこのミスを犯したのは第2回クイズ王・北川で、第3回の第5問目で○ボールを拾ったのに×サークルに移動したため失格となった。 ^ 不正防止のため、日本野鳥の会会員の監視下の状況だった。 ^ "今世紀最後"では西インド諸島が決勝地ではあるが、第1問は自由の女神関連だった。 ^ 第12回では「自由の女神」が和訳された時期を調べるべく、NHKに電話をして聞き出した挑戦者もいた(この挑戦者がどうなったかは放送されず)。 ^ 初めて携帯電話が番組で取り上げられたのは第12回だが、当時の携帯電話は「ショルダーホン」と言われる、極めて大きいタイプだった。 ^ この新聞は、日本テレビから発売された文献「第11回アメリカ横断ウルトラクイズ」に記載されている。 ^ この後第14回の写真を見せるが、肝心の福留は横を向いて歯が見えないというオチ。 ^ ラストはモノローグ(アフレコ)で「ジブンデカンガエロ! ワシャシラン!」と言うオチ。 ^ 第2回と第3回では実施せず、第5回では前回のクイズ王が不参加のため実施せず、また"今世紀最後"では一切行わなかった。 ^ 第15回と第16回ではクイズ王と共に、2人のバニーガールが同乗した。なおバニーガールは過去のクイズ王と共に「貴賓席」に同席した。 ^ 第2回北川・第5回真木・第6回高橋・第7回横田・第8回石橋・第9回金子・第10回森田。第3回クイズ王の宗田も大会に参加していたが、エキシビジョンマッチには不参加だった。この時エキシビジョンマッチ不参加だった宗田以外の7名のクイズ王は、全員、第1問不正解に終わった(前回クイズ王を含む歴代クイズ王パレードに参加したクイズ王が1問目で全滅したというのは初)。 ^ 「歴代クイズ王によるエキシビジョン」は、これより前の『史上最大の敗者復活戦』でも、準々決勝「チャンピオン胸貸しクイズ」の前に行われている(初代松尾から第6回高橋までの6名)。 ^ この挑戦者には区別のため、全員真っ赤なちゃんちゃんこを羽織って参加した。 ^ 高島は当時57歳で当時の出場者上限を遥かに超えていたが、今回は「敬老団」の添乗員的な扱いとして特別に参加していた。なお高島も歴代クイズ王と共に第1問は不正解だった。 ^ 第1回松尾と、第5回真木から第10回森田。なお松尾は当時50歳だったが、この年から出場者上限が50歳に延長されたため、第7回以来5年ぶりにして最後の再挑戦となった(年齢制限撤廃された"今世紀最後"では参加せず)。 ^ 第12回(前回)の瀬間と、第2回北川・第5回真木〜第11回稲川。第3回優勝者の宗田も大会には参加していたが、歴代優勝者パレードには登場しなかった。なお回答は早押しテーブルとウルトラハットが無いので挙手で行った(正解のチャイムは番組専用の音)。 ^ この14回で初紹介された時は、福留に「『ウルトラクイズ』の功労者」と称されたが、正解と思う場所に移動した時に早くも「疫病神」と命名された。 ^ 「人工芝を踏めない」とあるが、それは東京ドームでの人工芝のことであり、疫病神が初参加した第4回は「球場入口での出題」が採用される前で、当時の後楽園球場のグラウンドに乗り込んでからクイズを始まったため、後楽園球場の人工芝は踏めていた。 ^ 口笛で「ホーホケキョ」と吹けるか(自己申告だったが自ら失格とした挑戦者がいた)→ブラジャーという条件で福留が抽選箱に入った○×ボールから○を選んだ→出身都道府県(現住所)で福留が抽選箱の封筒から奈良県を引き当てた ^ 実際には虫歯のない人が多数いたため、○×クイズで卵で割る人を絞っていた。 ^ しかし当日に急病で欠員が発生し、欠員が生じたこともあった。この時はジャンケンの対戦相手の挑戦者は不戦勝となった。 ^ アメリカが日本国籍保有者をビザ免除プログラム対象とする1988年12月より前、第12回大会までは、事前にアメリカ合衆国のビザを申請し下りていない限り渡航不可だったため ^ 福留が高知県出身の大阪府育ちであるため( 『ウルトラクイズ伝説』日本テレビ放送網、2000年、P.72頁。 )。 ^ ただし第1回第一次予選の最終問題では、既に「バツ」と言っていた。 ^ 基本的に福留や福澤は番組ブレザーを着て進行をするが、回によっては福留は私服のままで進行をした。 ^ 30回を超えると全員通過だが、60回を超えるとまたジャンケンになるというルールで、オンエアでは30回を超えたところで敗者からやめろコールが起き、結局日高は45回で力尽きた。 ^ なお、その一人にして優勝者となった稲川は第13回でもグァムまで進出しており、第13回時には「第11回クイズ王」というたすきをクイズ中に着用した。 ^ a b ただし、これは演出上のものであり(そもそもこの様な行為は離着陸時におけるシートベルト不着用で航空輸送上法律違反の為)、実際には別席が用意されていた。 ^ 実際にはその後、第8回と同様の金庫を使った敗者復活戦が行われ、ここで10名が復活した(第6回クイズ王のウェブサイト「クイズの部屋」 より) ^ a b 本来はこの時点で航空券は紛失扱いとなり、払い戻しは一切受けられず、またこのため他の乗客への空席キャンセル待ちの影響も出てしまうが(払い戻しがないと座席はキャンセル扱いにはならず、空席が復活しない)、航空会社や他の乗客からのブーイングおよびそれらへの影響は公表されておらず、一切不明である。 ^ 実際には、金庫を使った敗者復活戦の前に、早押しで「アメリカ横断ウルトラクイズを反対から読むと何?」という問題が出題され(後ろの横断幕を見ても可)、解答した道蔦岳史が復活した(第8回挑戦者のウェブサイト より)。合計4名復活。 ^ 店頭でのクイズは名古屋にまつわる問題が出題された。 ^ 演出上のものであり、実際はグアムのホテルで一泊してから日本に帰国している ^ すでに1986年3月に全日空は初の国際線としてグアム線を就航していたが、第10回ではコンチネンタル・ミクロネシア航空を利用した。 ^ 日本テレビ発行本「アメリカ横断ウルトラクイズ 2(第2回)」に記述 ^ 優勝者の機内ペーパークイズの順位で放送で確認されている限り、二ケタ順位だったのは第9回の金子(31位)のみ。そして、機内ペーパークイズでトップとなり、その後決勝まで駒を進めた挑戦者は6名いたが、全員その回の優勝者となった。だが、逆に機内トップとはなったが、アメリカ本土上陸までに敗退となった挑戦者も7名いた。第2回の機内トップにして優勝者の北川は第4回、第5回機内トップの道蔦は第8回でともに2度目の機内トップとなったが、両者共に2度目ではアメリカ本土上陸前に敗退となった。 ^ 回によっては、敗者復活者等には通常の機内食を与えず、簡素なものに変更されたケースもあった(例として、第9回では第二次予選の敗者復活者にはおにぎり1個だけ。後述する第10回の×機にはメロンパン1個だけ。)。 ^ 例として、第14回の「書道で、筆使いの基本となる文字は?」 (1) 永 (2) 六 (3) 輔 答:1(永六輔の洒落) 佐藤孝吉『僕がテレビ屋サトーです 名物ディレクター奮戦記』 文庫版pp.308-309 ^ 佐藤は、「機内問題を軽くしたい」という意見に「審査委員長として、僕は断固反対した。(中略)この難問に、問題作成委員会が、見事に答えを出してくれた」として、笑いを取る問題を紹介しているが、実際には問題数も当初に比べ半減している。前掲、佐藤 pp.308-309 ^ 「ブーブーゲート」と呼ばれる様になったのは第9回からで、それまでは「チェックゲート」と呼んでいた(ただし第6回では「ブーブー判定機」と呼んでいた)。 ^ 第2回のみ、失格の場合はブザーの他に、天井にあるランプも点灯した。 ^ 子供向け自転車の電子ブザーとほぼ同じ。ただし第7回と第8回のブザーはやや低音だった ^ 第15回では機内最下位だった女性がエルパソまで進出している。 ^ 「離れ離れ」は、他にも国内予選やグァムなどの多人数で挑戦する場所で頻繁にあり、第15回グァムでは夫は勝ち抜いたのに対し、妻が失格して、福澤が「グァムでお別れ、クイズ離婚となりました!!」と叫んだ事があった。その一方、第4回では夫婦そろってアメリカ本土上陸(史上唯一)となったものの、ソルトレイクシティー(第4CP)で妻が勝ち抜き夫が失格するという、珍しい「10名前後の挑戦者」内で離れ離れになった事もあった(因みに勝ち抜いた妻は準決勝まで勝ち進んだため、準決勝では「離れ離れ」が2名存在した事になった)。 ^ 『クイズは想像力・理論編』(長戸勇人著、情報センター出版局、1990年)p.149 ^ この回の失格者の得点は213点以下だった。なお成績表では合格者の最低も213点と表記されており、放送はされなかったが同点決勝が行われていた。 ^ クイズ終了後の機内食も○機では通常の機内食が出たが、×機では事実上の罰ゲームとしてメロンパンしか出なかった。 ^ この時の×機における挑戦者の最低得点は116点だった。 ^ 他の3名に比して圧倒的に実力差があり、唯一マイナスポイントがつく大苦戦の末敗退した。 ^ 第12回の小林直樹(No.48、敗者復活者。第4CPアラスカ鉄道で置き去りとなり敗退)通過の際に一名転落。左中に位置していたスタッフが小林が飛びこんだ衝撃で沈んだマットに跳ね飛ばされ泥プールに転落。小林は「どうしてうちのスタッフを落すんだ向こうで!」と福留に叱責され、「すみません」と謝罪していた。なお勝ち抜き者が出た時、勝ち抜き者と「〇〇決定!」のテロップは通常は画面下に出るが、この時はこのアクシデントシーンを視聴者に見せるために画面上に出した。 ^ 第11回優勝者の稲川も、第13回ではグァムで敗退した。また、第13回の準優勝者は第10回、同じく第13回の第3位も第8回のグァムでそれぞれ敗退している。なお、第4回グァムの敗者には、第3回でマイアミまで進出した男性と、後に第11回でマイアミまで進出した男性もいた。第11回でマイアミまで進出した男性は泥に飛び込むシーンがリプレイされた。北川は第4回でも機内トップだったがグァムで敗退となり、第12回でも機内トップの男性がグァムで敗退した(なお、第13回でも機内トップだった優勝者が一度は誤答し敗退となったものの、敗者復活している)。 ^ 他にも、「人災は忘れた頃に起こるもの!」(第5回)、「バカな事言うな!」「そんな事あるか!」(以上第7回)、「お気の毒でした」(第8回)、「そんなバカな事があるわけないだろう!」(第9回)、「残酷!」(第10回)、「バカモノ!」「そんなわきゃねぇべ!」(以上第11回)などといった珍台詞もあった。なお福澤時代の第15回ではこれらの台詞は一切継承せず、おなじみの「ジャストミート!」や、「アジャパー!」などと言っていた。 ^ レイクパウエルまで進出。 ^ 週刊ポスト 2019年8月16日・23日号『昭和の「お化け番組」伝説の裏側』(p.36) ^ アメリカ横断ウルトラクイズ クイズ王の本(クイズ王の会・編、日本テレビ・刊 1987年7月)p.194 ^ a b c 北川宣浩『クイズ王の本』 インターネット版 ^ 海上の大波と強風で早押しハットの「?」マークも立たないほどの悪条件だったが、スケジュールの関係でクイズを強行し、福留以外の挑戦者やスタッフは船酔いとなった。 ^ 泳げない挑戦者には泳ぐマークに×印付きのライフジャケットが着用された。 ^ 青いボードと赤いボードに色分けされていた。 ^ 「知力」を表す「頭脳線」、「体力」を表す「生命線」、「時の運」を表す「運命線」について調べたもので、かげろう組には頭脳線と運命線がほとんど見当たらなかった。これに対し徳光が仕切るコンピューターは、亀組に「根性線」(「結婚線」)が見当たらないと判明、結果はコンピューターの予想通りになってしまった。 ^ 長戸勇人著『クイズは創造力』より ^ D-402号室から開始された。最初の勝者となった挑戦者はこの回準決勝まで勝ち残った。 ^ 403号室が最後となった。 ^ 放映された番組では男性挑戦者が女性挑戦者の部屋で勝利したため、倫理上問題があるという理由からトイレに閉じ込められることになった(部屋番号不明)。同様の理由から、女性挑戦者が男性挑戦者の部屋で勝利したケースではスタッフが見張りに立てられた(部屋番号不明)。 ^ 第8回で朝食を最初に食べ終わった男性は、解答時に誤答してしまい、せっかくのチャンスを生かせず敗退。この男性は第12回にも出場しており、成田のジャンケンの最初で第8回での経歴が福留から語られていた。ジャンケンではこの年3度も敗者復活した女性に2本先制されながらも逆転勝ちしたが、バローの敗者復活戦できっちり借りを返されて敗退した。 ^ 早押しクイズでキャンセルとなった問題や筆記クイズで全員不正解となった問題は放送ではカットされることが多い。 ^ 例として第8回バハマでは海底でのクイズ収録だったため水にまつわる問題が多く出題された。 ^ 福留功男著『ウルトラクイズ伝説』 ^ a b 福留功男著『私情最大!アメリカ横断ウルトラクイズ』 ^ 第8回挑戦者のウェブサイト より ^ 厳密には大声側が誰も答えられなかった場合、解答権が念力側に移る形式。 ^ 第6回クイズ王のウェブサイトの「クイズの部屋」 参照 ^ しかし長戸勇人著『クイズは創造力』によると、実際の不正解ペナルティは1回休みではなくマイナス1ポイントだったという。 ^ 夫婦ともに出場したが、夫はグァムで敗退した。なお、このクイズに女性が挑戦したのは第12回だけだった(第13回と第16回では「クイズ わたしがママよ」は後半のCPで行われたが、そこまで女性が残れなかったため)。 ^ 後に同校校長の戸塚宏が当番組のパロディ「ビートたけしのお笑いウルトラクイズ」に出演している。 ^ 事実太めの体形の挑戦者が敗退した。 ^ この時ゴールキーパーとして登場したのはサントスに当時在籍していたゴールキーパーと、同じくゴールキーパーとしてサントスに当時在籍していたペレの息子エジーニョ(番組では「ペレジュニア」と紹介した)の2名で、数問おきに交代しながらゴールキーパーを担当した。 ^ もう一人の敗者は全く押すことができず、事実上この二人でラスト抜けを争った。 ^ ここまで安定して中、上位で勝ち抜けており、クイズ開始前に行われたコンピュータ予想では、優勝者とともに決勝に進出すると予想された実力者だった。 ^ 開始前にも福留にこの時のことを指摘されていた。それでもゲインズビルの時点で第8回では果たせなかった残り6名(および最終週)までの勝ち残り、さらにフロリダ半島上陸を果たしている。 ^ 知らない場合、他の挑戦者が没収された州を確実に拾って勝ちぬけるという戦術も可能だが、その手段を活用した挑戦者はいなかった。だが、ラスト抜けの男性は最後は誤答して一度失った州を最後に指定していた。 ^ ここで待ち構えていたのは、ナンシー・レーガン大統領夫人のそっくりさん。ただし誰も気が付かず、最後まで正体は明かされなかった。 ^ つまり2名失格まで生き残れば獲得ポイント0でも、マイナスポイントがついていても勝ち抜けることが可能で、実際に二人目の敗者が-12ポイントで失格となり、ラスト抜けが決まった準優勝者はその時点で0ポイントだった。 ^ 準優勝者、準決勝進出者の一人、ここでの敗者らに押し付けが集中した。逆に2位抜けだった優勝者やトップ通過した6位入賞の男性はほとんど狙われなかった。 ^ この回の準優勝者が、残り2人で相手の女性解答者を攻め切れず、最終的に女性解答者の指名で正解して、女性解答者が失格となって自分が勝ち抜けとなり、浮かない顔をした解答者に福留が苦言を呈した。 ^ 「アジア大陸」・「ヨーロッパ大陸」・「アフリカ大陸」・「北アメリカ大陸」・「南アメリカ大陸」の5大陸に、当時南半球に存在したと考えられていた「メガラニカ(南方大陸)」の計6大陸だが、番組では「メガラニカ」や「南方大陸」とは言わず、「南極」と言っていた。 ^ 最後に残った二人は、第15回の優勝者である能勢一幸と敗者となった機内トップの男性だった。 ^ 準優勝者が残りは6位入賞の女性のみとしたものの、女性が回答してワンチャンスをものにされる形となりトップ通過を許した。福澤も「いわゆるこれが漁夫の利というやつです!」とコメントしている。 ^ ソルトレイクシティー(第4回と第14回)、フェニックス(第5回と第8回)、モハーベ砂漠(第12回と第15回)の3か所で2回ずつ行われた。 ^ 第12回の平田由佳(東京都出身、No.23、第12CPフェゴ島で敗退)は、最初にハズレを引いた時に(平田は結局ハズレを放送上3度連続、オンエアされていないところでも1度と合わせて4度引いた)「バカヤロー」とどなった。これを聞いた福留は「あの人はどういう性格をなされてるんでしょう?」とつぶやいた。 ^ 4連続で「ハズレ」を引き当て、1問もクイズが出来ないまま失格、4回目の時は福留も「こんな事があっていいのか!?」と叫んだ。なお第12回の平田も3連続・4回「ハズレ」で、あわや第3回敗者の二の舞かと思われたが、その後2問正解、二の舞にはならなかった。 ^ ちなみに、第12回のバラマキクイズでのハズレで「バカヤロー」とどなった前述の平田の絶叫は「バッキャロー」になった。 ^ ザテレビジョン 1987年11月6日号 p.43 - 45「恐怖のウルトラクイズ誌上体験」 ^ このとき競わされた挑戦者は優勝者の長戸と第3位。 ^ ただし、問題集の中では12ポイント勝ち抜けと書かれている。 ^ 階段を降りられない(マイナスになる)場合は、地上まで降りてペナルティボックスに入れられ1回休みというルールであった。放送上では、第1問で不正解だった挑戦者も普通に次の問題に解答していたように見えたが、実際には第2問が誰も数字を示さなかったためカットされた。このためこのペナルティは放送では触れられなかった。(ハウエバー稲川のパチンコ島通信(第11代クイズ王によるブログ) より) ^ 実際は本クイズの前に、ウルトラクイズに関するカルタ取りが行われ、勝ち抜けた挑戦者から順に搭乗するボートを自分で選んでいた。しかしクイズ中に挑戦者のボート1台が故障するハプニングが発生し、急遽スタッフの使用していたボートで代用する事態となった。(ハウエバー稲川のパチンコ島通信(第11代クイズ王によるブログ) より) ^ 空席待ちクイズを最初に通過した平田のみ食堂車の2階に移動して三択でいち早く通過した女性3名(空席待ちクイズが始まった時にはすでに食堂車2階でのランチまっただ中だった)に合流する場面が映されたが、勝ち抜けていた3名は下でクイズをしていると聞かされて驚いていた。それを教えた平田も「たまんねーよ」とつぶやいていた。 ^ 準決勝に進出した4名は全員ここで勝ち抜けている。 ^ このクイズでトップ通過の女性(第10CPイグアスで敗退)と、この時小倉に救助された男性も翌年成田まで勝ち残った。なお、救出された男性はヘリコプターの中で「彼の分も頑張ります」と涙ながらに語っており、敗退となったサンパウロでも罰ゲームの終了後に改めて涙とともにこのことに触れた。 ^ a b 2人で戦っている時(第3回は1人勝ち抜け後、第10回は1人負け抜け後)は自動的に対戦相手から。 ^ ただし「史上最大の敗者復活戦」の準々決勝で、歴代クイズ王(第6回高橋まで)が相手役のゲストとして参加した「チャンピオン胸貸しクイズ」が既に行われており、松尾も歴代クイズ王の一人として参加した。 ^ 不正解ペナルティは放送上で不正解がなかったため、触れられなかった。仮にもし松尾に勝利した挑戦者が0名または1名だった場合は、対決クイズで獲得したポイントを持った状態で通常の早押しクイズを行い、3ポイント獲得で決勝進出、そして決勝進出者が2名決まった時点で終了というルールであったという。(ハウエバー稲川のパチンコ島通信(第11代クイズ王によるブログ) より) ^ この結果、全大会で唯一帰国中の敗者が空撮に登場した。 ^ 『クイズは想像力・理論編』pp.224 - 231 ^ 複数人が同時にビンゴの場合、優先権はその問題を正解した人にあったが、正解者ではない2人が同時にビンゴした場合の優先権については不明。 ^ 第11回では準決勝と決勝戦が同日収録であったため準決勝進出者が日本に電話をする場面が放送された。 ^ 第14回では準決勝の罰ゲームの最後にこのコーナーが挿入されている。 ^ 決勝進出者が搭乗するヘリコプターは観光用の遊覧ヘリ。番組ではヘリコプターから直接会場に入るような演出がある回があったが、実際にはヘリでの空撮収録は決勝戦収録日の午前中に行われていた。 ^ 『クイズは想像力・問題集編』pp.80 - 81。またこの時代用品としてトマトジュースも用意しておいたと福留が語ったが、長戸は「トマトは見たくもない」と断った。 ^ 第1問目の時は、渡辺が「大番頭」名義で副司会を務める『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』での解答開始台詞「さあ、みんなで考えよう!!」を叫んだ。 ^ 『テレビ番組の40年』 ^ ○×誤問題の指摘にお答えします 2014-01-20 10:00:00 - tsutomu「アメリカ横断ウルトラクイズヒストリー」 ^ 北川宣浩 TVクイズまる金必勝マニュアル-アメリカ横断ウルトラクイズ 表 話 編 歴 アメリカ横断ウルトラクイズ / 全国高等学校クイズ選手権 アメリカ横断ウルトラクイズ 総合司会・出題・海外リポーター第1回-第14回・今世紀最後・史上最大の敗者復活戦 福留功男1 / 第15回・第16回 福澤朗 / 史上最大の敗者復活戦関西地区予選 小林大作 国内リポーター第1回-第11回・今世紀最後・史上最大の敗者復活戦 徳光和夫 / 第12回-第16回 渡辺正行 海外リポーター第9回・第10回 日高直人 / 第11回 増田隆生 / 第12回-第14回 小倉淳 / 第14回 鈴木健 コンピューター予想第1回・第2回・第4回・第8回-第11回 徳光和夫 / 第3回・第6回 白岩裕之 / 第5回・第7回 小林完吾 / 第12回 永井美奈子 総合司会第1回-第12回 高島忠夫・石川牧子2 / 第1回 徳光和夫3 / 第13回・第14回 (なし) / 第15回 小倉淳・永井美奈子 / 第16回 (なし) / 今世紀最後 伊東四朗・松本明子 関連項目日本テレビ / 東京ドーム / 後楽園球場 / クイズ形式(バック・トゥ・ザ・フューチャークイズ) / 各大会の詳細 / コンピュータゲーム / クイズ王 / 罰ゲーム / 木曜スペシャル / ビッグサタデー / 夢と冒険!アメリカ大横断 / 人工衛星クイズ / 冒険家族クイズ2001 / ズームイン!!朝! / ビートたけしのお笑いウルトラクイズ / 近畿日本ツーリスト 関連人物小林與三次 / 正力亨 / 氏家齊一郎 全国高等学校クイズ選手権 総合司会第1回-第10回 福留功男 / 第11回-第20回 福澤朗 / 第21回-第30回 ラルフ鈴木 / 第31回-第40回 桝太一 / 第41回 安村直樹 メインパーソナリティー第23回・第24回 爆笑問題 / 第26回-第28回 オリエンタルラジオ / 第29回 菊川怜 / 第29回-第32回 茂木健一郎 / 第30回 宇治原史規 / 第31回・第33回 榮倉奈々 / 第33回-第35回 有吉弘行 / 第34回 鈴木杏樹 / 第35回 山岸舞彩 / 第36回・第37回 DAIGO / 第38回-第40回 千鳥 / 第41回 かまいたち 関連項目日本テレビ / クイズ形式 / 全国大会出場校 / 西武ドーム / ライオン / 富士山 / ヴァンテアン 関連人物小林與三次 / 正力亨 / 氏家齊一郎 / 萩原敏雄 / 間部耕苹 / 久保伸太郎 / 細川知正 / 大久保好男 / 小杉善信 1:第15回も第1問まで担当、2:第1回のみ肩書は「アシスタント」、3:第2夜のみ
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「ロドルフ・テプフェール」の記事における「脚注及び出典」の解説
^ 「Töpffer」のつづりはドイツ系であり、現代ドイツ語の発音では「テップファー」「テプファー」に近いが、自身はフランス語を用いており、フランス語風に[tœpfɛʁ]と発音していたと推測される。この記事では慣習的に「テプフェール」と表記する。他に「テプフェル」「テファー」「トプファー」「トッフェール」などの表記もある。 ^ フランス語の"vieux bois"(古木) は英語で言う "wooden-head" すなわち「間抜け」の意味。
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脚注及び出典
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脚注及び出典
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「武蔵工業大学短期大学部」の記事における「脚注及び出典」の解説
[脚注の使い方] ^ a b c d e f 1961年度以前に募集停止。 ^ a b c d e f g h i j 『武蔵工業大学'61』p25より。教育政策研究所教育図書館所蔵。なお、登録上は『武蔵工業大学要覧』(1961年)となっている ^ 年度別学生数からの推測。 ^ a b 平成23年度『全国短期大学高等専門学校一覧』269頁より。 ^ 『短期大学一覧』1950年度 ^ 昭和30年度版『全国学校総覧』1375頁(以下、『総覧』と略する。) ^ この年度における『総覧』が存在しないため。 ^ 昭和34年度版『総覧』21頁 ^ 昭和35年度版『総覧』19頁 ^ 昭和36年度版『総覧』23頁 ^ 昭和37年度版『総覧』23頁 ^ 昭和38年度版『総覧』26頁 ^ 昭和39年度版『総覧』28頁 ^ 昭和40年度版『総覧』28頁 ^ 昭和41年度版『総覧』31頁 ^ 昭和42年度版『総覧』33頁 ^ 昭和43年度版『総覧』33頁
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脚注及び出典
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「アンモナイト (デザイン集団)」の記事における「脚注及び出典」の解説
^ 月刊アニメック 1984年7月号 第80頁・第81頁 -「メカデザイナーの視界<5> ●スペシャリスト」 ^ 小学館『THIS IS ANIMATION ザ・セレクト(10) 超時空騎団サザンクロス スペシャル・ガイドブック』メインスタッフ座談会 第109頁。
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脚注及び出典
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^ コスタ・ベネチア_フネコ ^ “東京港にクルーズ客船『コスタ・ベネチア初入港』報道発表資料”. 東京都港湾局 (2019年4月23日). 2019年5月28日閲覧。 ^ “イタリアからジパングへコスタの新造船コスタ ベネチア 東京に初入港”. Costa Crociere S.p.A.. (2019年4月30日). https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000014.000033355.html ^ “大阪市・クルーズ客船入港情報(2019年5月)”. 2019年5月28日閲覧。 ^ “超大型クルーズ船 コスタ・ベネチア初入港歓迎式典の開催について 記者配布資料 (PDF)” (2019年5月9日). 2019年5月28日閲覧。 ^ コスタ・フィレンツェ
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脚注及び出典
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[脚注の使い方] ^ 学校法人天理大学天理中学校 ^ 天理中学校-中学受験のすすめ(中学受験・中学入試研究会)による。
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脚注及び出典
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[脚注の使い方] ^ “ぐるっと首都圏・母校をたずねる:栃木県立宇都宮女子高/5 混乱期にも西洋文化学ぶ 井村君江さん /東京” (日本語). 毎日新聞. 2022年7月30日閲覧。 ^ 交流は、自伝『妖精の輪の中で』(筑摩書房)に一端が知れる。 ^ 妖精資料の概要|宇都宮市 ^ 自伝、2009年に私家版で新版刊 ^ ちくま学芸文庫版『日夏耿之介文集』、『サバト恠異帖』を編・解説。また『矢野峰人選集(2) 比較文学・日本文学』(国書刊行会、2007年)の解説担当。
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