出題・海外リポーター
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:59 UTC 版)
「アメリカ横断ウルトラクイズ」の記事における「出題・海外リポーター」の解説
この番組の厳密な意味での「司会者」は、スタジオで進行やルート紹介を行う「総合司会」であり、あくまで出題担当の福留/福澤は「出題・海外リポーター」(第1回-第10回)または「出題・リポーター」(第11回-第16回)であった。第1回から第16回までオープニングのクレジットでは一貫してこれらの表記がなされてきた(第5回までの紹介クレジット順は高島→石川→徳光→福留であった)。しかし、回を重ねるにつれて挑戦者とともにニューヨークを目指し、「アメリカ横断ウルトラクイズ」という旅の実質的な進行を行う「出題・(海外)リポーター」が番組の主軸をなす意味合いが強まっていった。そのため本番組の司会といえば福留/福澤と一般的に認識されており、福留/福澤ともに本番組司会者と自負している。また、第13回、第14回、第16回はスタジオパートが無く「総合司会」が設置されなかったり、福留が本番組の海外ロケの為に「総合司会」をしていた日本テレビの看板番組『ズームイン!!朝!』を長期間離れたりしている点から見ても、余計に世間一般にも本番組で言われる「総合司会」が軽じられているのは否めない。 福留功男第1回から第9回と第11回から第14回までの全編、第10回は分岐する前と北米ルート、ニューヨーク決勝、第15回の第1問正解発表までと、“今世紀最後”の全編を担当。 予選開催時の基本フレーズは「みんな! ニューヨークへ行きたいかーっ!!」「どんなことをしても、ニューヨークへ行きたいか!!」「罰ゲームは怖くないかーっ!!」であった。他にも、罰ゲームを行う敗者に対して「何か言い残す事は!?」、どろんこクイズで間違えた解答者に対する「そんなわけねぇだろ!!」、念を押す時の「ただ、し!」などの名台詞があった。 番組開始当時は35歳の中堅アナウンサーで、『(シャボン玉)歌まね合戦スターに挑戦!!』や単発番組のナレーションを担当していた。局側から「アナウンサーならば1か月ロケ分のギャラがかからないし、経費節減になる」との理由で選任されたが、当時クイズ番組の常識とみられていた「主観的な進行と客観的な出題は別人の役割」という概念を覆し、進行と出題を一人でこなす技術を編み出したことで、一躍本番組の看板人物かつ日本テレビの主力アナウンサーとなった。 司会ぶりが評価され、1986年に第23回ギャラクシー賞・選奨を受賞。 1991年(平成3年)の第15回(福留が日本テレビを退社した年)で、前年に胆石の手術をした影響もあり、「体力の限界」を理由に第1問正解発表をもって勇退し(後述を参照)、後述の福澤に後を託した。その後、1998年(平成10年)の“今世紀最後”で再び司会を務めた。この“今世紀最後”では従来の「出題・(海外)リポーター」ではなく「Mr.ウルトラクイズ」の異名が付けられた。勇退後の同年9月9日、自身がメインキャスター(2代目)を務める『ズームイン!!朝!』に出演、冒頭「例年ですと今頃、成田でジャンケンをやっている頃です」、「もう、半分敗者が出た頃です」、「15年振りに9月に日本にいるのは最高です」と上機嫌であいさつしており、同じ頃成田空港の「成田エアポートレストハウス」でも、福澤と挑戦者たちが第二次予選「ジャンケン」を一旦中断して様子を見ていた。 初期は明朗活発に振舞っていたが、カメラの回っていない時や中期以降は冷静さも垣間見せ、挑戦者に対して説教する場面も多く見られた。 出題する際、必ず「問題」と言ってから問題文を読む(これは福澤にも継承されている)。 第2回では準決勝(ボストン)を放送する前にスタジオに現れ、準決勝のクイズ「熱気球ダウンアップクイズ」の様子がボストンの新聞に掲載された事を、総合司会の高島と石川に教えた。国外リポーターが「クイズ王の凱旋入場」以外でスタジオに来たのは、これが唯一である。 福澤朗第15回の第2問以降と第16回の全編を担当。決まり文句は「ニューヨークへジャストミート!!」。「ジャストミート」の文句は当時かなりインパクトがあり、1991年12月13日にTBS系列で放送された『1億2000万人の流行語大賞II』(『金曜テレビの星!』)でも、第15回の第一次予選で福澤が登場する場面と共に放送された。 就任前の第1週OPでは「出題・海外リポーター」は福留がクレジットされ、福澤はノンクレジット(新総合司会の小倉淳アナと永井美奈子アナはクレジット)、ナレーションもOPを含め福留勇退までは福留が担当し、福澤就任後は福澤に変更された。 就任当時は入社4年目の28歳で、『全日本プロレス中継』の実況などで徐々に知名度と評判を上げていた。同年『全国高等学校クイズ選手権』も福留から引き継いだ。新しいウルトラクイズの歴史を作っていくことを目指したものの、翌1992年(平成4年)の第16回で終了となり、また“今世紀最後”も担当しなかったため、わずか2回だけとなった。後に、福澤は『ズームイン!!朝!』も3代目司会者として福留から引き継いだが、反対にズームイン司会交代と前後して収録が行われた当番組の“今世紀最後”は福留が復活する形となった。 後年、日本テレビ退社時の会見やインタビューなどで本番組の進行を福留から引き継いだことに大きなプレッシャーと辛さを感じていたことを明かした。それとともに「メモリアルな仕事」だとも述べ、番組への深い思い入れを語った。 司会の際に着用するブレザーは彼のみ赤色だった。
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