その他挿話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 02:15 UTC 版)
安岡正篤は、「この人のことを知れば知るほど文字通り心酔を覚える」と評価している。幕末の三傑として、藤田東湖、山田方谷、佐久間象山を挙げている。 嘉永5年(1852年)に牛麓舎の隣家に住まう一藩士が病没し、その寡婦が方谷宅の門を叩いた。寡婦は父を亡くした自らの7歳の娘に、母子家庭の娘と侮られぬよう、男性と互して能うほどの学問を施してもらうよう方谷に請うた。それは当時の一般常識に照らせば、ありえない考えであった。しかし学の人生における重要性を体感の上で知悉していた方谷は、藩政改革の忙しい最中ではあったが寡婦の願いを快く引き受けて男女の別を気にする事無く、その才気ある娘を牛麓舎に通わせて自らの学を与えたとされる。その娘こそが、後に高梁の地で女子教育の普及に努める事となる福西志計子であった。 父の「父五郎吉君家訓」には、衣類は木綿に限ること。三度の食事は一度はかす、一度は雑炊、一度は麦飯、もっとも母には三度とも米を勧め、夫婦の米は倹約する事。酒のたしなみは無用の事。客の饗応は一汁一菜限り。仕事が忙しい時は朝七つから夜九つまで(十二時辰)。履物は藁草履、引き下駄、藁緒に限ること。加羅油、月代は月に三度。鬢付けは倹約すること。高銀の櫛かんざしは無用。遊芸は一切無用など12か条あった。 若い頃は遊女、老荘仏に溺れた事もあった。父の遺言に背いて酒をよく飲み、大きい瓢箪の徳利を肩にかけ持ち歩き軽く一升は飲んだが、その後でも仕事を片付けていた。病気で生死を彷徨ってからは酒をやめた。江戸の愛宕山の麓でも吐血して倒れ、その時に詩が出来たと言って書き留めさせた。「今こそ体中の賊を殲滅する時だ。」 幕末に一揆が頻繁に起こったが、山田方谷と書いた紙を貼っておいた長持は荒らされなかった。「元々は温厚な農民をこの様にしたのは誰のせいか。役人の責任ではないか。」と詠んでいる。生きている間から祀られている。 今も方谷と付いた駅や公園や橋、高梁市のゆるキャラなどがある。大河ドラマにしてもらう運動も行われている。 役人の出世は能力と関係ないと嘆いている。 「借金を踏み倒して改革で貯めた十万両も、第一次長州征討で使い果たしたのも天道か」と詩にしている。第一次長州征討では藩主の留守中の軍の全権を任された。奇兵隊の一部が侵入して来た時には、自ら創設した農兵隊を率いて出陣したが能力不足を痛感し、老人や庄屋の息子でも能力が無ければ替えるなど改革を迫られた。 藩政改革では貨幣の流通に最も気を付けた。「千有余年にわたる紙幣の利害を得失の詩を吟じるならば、現在の財政権を持つ者の戒めになるだろう。」中国歴代の紙幣の変遷を17首の詩にもしている。 河井継之助には、「改革は簡単な事からやりなさい。15年もすれば反対していた人もいなくなる。」(勝静から聞いた松平定信の言葉に足したとも)。佐久間象山を例に、「あなたは賢いがそれが災いとなるから気をつけなさい。」「業績や経済ばかりに関心があるようだが、本当に大事なのはそれではない。」などと言っている。戊辰戦争後、河井の遺族が困窮していると聞き「こちらで面倒をみますから来ませんか」と援助を申し出たり、墓碑の文書を頼まれた時には「書くも恥ずかし死に遅れ。」と断り、三島中洲が引き受けた。 安政の大獄では「厳罰に処すと災いの元となります」と答え、勝静は五手掛でその様な主張をして井伊直弼を激怒させ老中を解任された。京都で知り合った春日潜庵の減刑にも働きかけ、後に知った彼が「恩を売らない本当の友は方谷だけだ。」と言っている。藤森弘庵も救出した。刑死した頼三樹三郎の碑を再建している。「吉田松陰の遺骸を下げ渡してほしい」と久坂玄瑞から頼まれている。 明治維新後、藩主・勝静の謹慎が解かれるまで公の活動は控えていた。藩主とは7年ぶりに長瀬で再会した。 三島中洲によると「藩政の事は秘密にしていた。」「先生は筋を通すことを大切にされた。それは誠意を貫くことで自説を通す主義である。」「原稿が残されただけで秘蔵して人に示さなかった」「惜しいことに蕃山は人生の末路でつまずいてしまった。これを方谷のに比較してみると、徳の点で欠けるところがあった。ああ、盛んな事だなあ始めから終わりまで先生は完全であった。ここに残された業績を石に刻み込み、後の子孫に対し謹んで手本とする。」「先生は藩政では多く私の意見が採用されたが、天下を論じたものでは一つとして採用される事はなかった。他日この原稿を見ればこの事が分かるであろうと言っていた」「書く一方から散逸してしまい、二度と原稿を残さなかった。ただ献策・対問に関する国語で書かれた原稿が残っているだけである」「変幻自在だったが至誠惻怛をもってすれば理解できるであろう」 大砲が好きだったそうで砲術の修行に行ったり、試射したり鋳造したりしている。第一次長州征討では約10門の大砲を持って行ったので、20万石に匹敵すると言われた。 勝静と共に松山踊りの歌詞に入っていたり、改革の始めは「山だし(山田氏)が何のお役に立つものか/へ(子)日はくのやうな元締め」「御勝手に孔子孟子を引き入れて/なほこのうへに唐(空)にするのか」と狂歌になった。 勝静には「賄賂をすることなく自然に寺社奉行になれるなら、天の命じるところであり、就任を避けるではない」と言っていたが、後に老中などになった時には経費は藩からの持ち出しの為、領民の為に辞めることを薦めていた。 王陽明、熊沢蕃山、上杉鷹山、楠木正成、諸葛孔明、蕭何、平重盛、伯夷達を尊敬していた。 信玄論では、「壮大な計画をもちながら一生攻伐に明け暮れ、いたずらに駆け回って疲れ果て、常に戦争に勝ってもついにその功績を収めえなかったのは、他の理由でもない、よく講和できなかった過ちの為である。」 常に上中下の3案をもって進言していた。下策は取るに非ず。安政の大獄や長州征討、幕府挽回策などでは、まさに下策の事が行われた。 「農民出身の自分が改革しようとしても、武士は誰も従わない。」と勝静の元締要請を断り続けた。改革に対する反対は多く、命を狙われたり狂歌にされたりして一人で登城していた。元締や参与になって改革に成功したものの、減給したので自分の家計は前より貧しくなったが、これからは百姓の仲間入りをしたのでどうにかなるだろうと詠んでいる。 高梁市の神社には松平春嶽篆額の方谷山田先生碑などがある。 母には「良い子だから必ず立派になって父の志を達成しなさい。けれども高く抜きん出て勢いに乗れば、大失敗して苦しまない者は少ない。だから終わりが良ければ私の願いは十分だよ。」と言われていた。母が危篤と聞いて丸川松陰の塾から駆け付けると「学半ばにして帰るとはなにごとですか」と叱り帰らせ、その10日後に亡くなった。 師の丸川松隠からは孫の様に可愛がられ、一緒に伊勢参りなどもした。師と同じく他藩には仕えなかった。松隠の息子に教えてもらった。 岩倉具視や木戸孝允から新政府に出仕するよう要請があったが断った。桂小五郎とは印材を贈ったり、人を紹介したいという手紙が残っていたり、彼の墓碑の文は川田剛と三島中州が書いている。小田県の県令が倉敷の豪商を連れて大久保利通大臣に会いに行った時、山田方谷に会った事がないと言うと「小田県の政治をするのに山田翁に会わずしてどうする。」と怒られ、急遽面会して物産公社の案を貰い大久保に見せたところ、その場で読んで許可が出たので驚いた。 豊臣秀吉の対外戦争を褒める様な事も書いている。朝鮮と争わず、兵力を分散して海岸から攻めれば辮髪などしなくても済み、13州は占領できたのにとか。対外政策の意見として「現在、清国では太平天国の乱が起こり第二次アヘン戦争で首都の北京は英国と仏蘭西により陥落し、国の形をなしていない。清国の回復を図るべく出兵すべきである。征伐という事ではないので、殺伐をよしとせず反乱を鎮圧し、中国を唐の時代のような古代の風俗に戻すため、治安維持を目的とした政令を発布するならば、人心は帰服すると思われる。1年もすれば中国に英雄が現れ、全土を平定するだろうから、その後、兵を帰国させればよい。」 町中の喧騒や役人生活が合わず、40代前から田舎で農業をしながら詩を作りたいと考えていたが、藩主の要請で藩政や幕政に関わり中々許されなかった。最終的には母の出身地近くに移住した。 1500首以上の詩を残しているが、酒や鮎、筍にちなんだ詩を多く残している。軽く一升は飲んだが、それでも仕事をしていた。 1860年代には「我が藩は洋学も早くから取り入れたはずだが、いつの間にか遅れている。」と語っている。内政は儒学だけで十分とする方谷と、これからは洋学とする佐久間象山との毎日の論争を佐藤一斎は止めずに聞いていた。 私塾を始めた頃は城下を本を持って歩いていると馬鹿にされるので、塾生が本を懐に隠して通ってきていた。 失火により火事で家を失ったが前より立派な家が出来たので心配するなとか、新築して金がないが本や簪を売ればなんとかなるから、小さな借金を気にするなとか家計は苦しかった。 こんな老いぼれが藩政改革を成し遂げたとは誰も信じないであろうと詠んでいる。 他藩に100石で仕えていた川田甕江を50石で引き抜いた。川田の師も招いている。 寺島白鹿の息子も私塾に入門している。 帆足万里に手紙を出しているが返事はなかったようだ。 「家臣が忠告するのにそれを聞き入れないのは君主の罪。君主が忠告を聞き入れる用意があるのに、忠告しないのは家臣の罪。」と書いているように勝静の教育係だった頃、勝静が『徳宗論』を書いた時に「もしあなたが藩主になってこの論文と違う事をなされた時、この本を証拠に忠告するので頂きたい。」と申し出たら勝静も了解し頂いた。 「牛李論」の中で、李徳裕の党には立派な人が多いがもう一方の党にはつまらぬ者が多いと唐書に書いてあるが、君子と呼ばれるような立派な人でありながら、つまらぬ人物を受容できなければ君子として評価できないにもかかわらず、唐書には立派な人物が多いと書いてあるのは不可解だと。もし君子の心を持つならば自ら公正な政治を行い、服従しない者でも採用すべき力があるならば採用し、採用できぬ者にに対しても安心して生活できるようにし、然るべき地位を確保させれば、つまらぬ者も感激しすっかり恥じ入って屈服し、その心を改めて自分の役割を果たすようになると。 文宗を挙げ、いかに優れた提言であっても、冷静な状況判断に基づき好機の到来を待って、じっと我慢することの重要性を強調して、知行合一の陽明学に慎重な判断力を要求している。 臨終の際には、香を焚いて枕元に勝静から貰った短刀と銃と王陽明全集を置いていた。 開国派であったが、幕府が朝廷に約束してしまった以上、攘夷を決行するべきだと考えていた。「もし外国が攻めてくるなら軍勢は約30万人で千艘位であろう。上陸させて皆殺しにして船を奪って諸藩に配れば、日本の弱点である船の問題を解決できる。」 会津藩の秋月悌次郎によると「佐藤一斎に学び儒臣に登用され藩主を教授し、藩政改革に大いに貢献した。人情が厚く実務の才能があり、自分の心の内を態度に表さない。近国に稀な有用な人物であると聞いている。」「その人となり素朴で偉ぶらず一見田舎の老人のようであったが、藩主が時事について問うと弁舌さわやかで、その意見は物事の急所をついている。その中で一番感じたのは、布帛や米穀はもちろん茄子や胡瓜の時価まで挙げて意見を述べる。それにより方谷は実務に精通した偉人だという事を知った。」 会津藩の南摩綱紀によると「山田方谷は百姓であったが、よく書物を読み儒者として登用され、遂には藩政を一身に任せられた。備中松山藩の百姓達は山田方谷の生祠を建てるほど心服している。非凡な人物で一升の酒を飲み、直ちに一升の飯を食べて、けろりとして繊細な仕事をこなしていく。決裁しなくてはいけない山の様な書類を前に急務の仕事中にもかかわらず、訪ねてきた客人にはまあ一杯と酒を注ぎ客の話に耳を傾ける。全く世事を忘れたように淡々として、すこぶる才力度量がある。」 仙台藩の玉虫左太夫によると「備中松山藩の改革は、山田方谷が一手に行ったものである。」 春日潜庵に従学した村上作夫によると「先生は世の中を捨てても世の中を忘れず、世の中にいても世の塵にそまらなかった。その様な清らかでおだやかな老境は奥ゆかしいことだ。しかしながら先生の腹中には老いてもなお英傑豪傑の期は衰えず、折に触れて感激すると詩を朗吟しながら扼腕して慨嘆されることがあった。」「山田翁の磊落は快絶春風の如し。故に門下遊泳自由、ために人材輩出せり。春日潜庵の厳正は粛殺秋霜のごとし。故に門下進退窮屈、よって著名の弟子なし。」 「当代で最も優れた人物は一体誰であろうか?」と議論した際、安井息軒は藤田東湖、塩谷宕陰は「私は山田方谷だと思う。彼は東湖の人物に更に学問を加えた人物である。」 三宅雪嶺は「藤田東湖は総理大臣の器、佐久間象山は外務大臣の器、山田方谷は内務大臣の器で、大蔵大臣、農商務大臣、文部大臣もできる。」 林靏梁は今世第一等の人物と評したといわれる。 大原重徳は岩倉具視への報告書の中で「老中の板倉勝静はごく普通の人で、常識的な対話ができる。用人の山田安五郎は、きっとした人物のようで板倉勝静の意見は、何事もこの人の意見に基づくものではないか」と述べている。 川田剛は「中江藤樹は道徳は身につけていたが事業の業績はなかった。熊沢蕃山は功績は素晴らしかったが、文章は出し惜しんで作品は少なかった。佐藤一斎は文章は素晴らしかったが、徳と功績は2人に及ばなかった。ところが方谷先生は三人の長所を取り、短所を補って別に一家の特色を気築いた。なんとめったに見られない珍しい大人物ではないだろうか。」 藩政時代は多忙で三島中州が家塾で教えていた。塾規は立志、欣行、遊芸をもって実行すること。禁遏六条の規則として、自分の務めを怠らない、人を侮らず己は驕らない、起床就寝は規則正しく、頻繁に入退室しない、私飲私食をしない、私語を慎むこと。 長瀬塾の学規は、1日、5日、15日、25日は休講。15歳以下の課業も随意休みとする。しかし起床及び就寝時間は平日のとおりとする。15歳以下の清書作詩はこの日に校閲する。帰省及び遠方に行く場合の他、ほかの宿に泊まる事は許さない。毎朝祖先父母を遥拝する事を遊学中第一の礼とする。秋となり燈下親しむ頃になれば読書をしなさい。冬の3カ月間も夜学の好時期である。清掃は15歳以下の者の務めであるが、16歳以上の者も力を合わせて寮の内外を常に清潔にしておく。傘や靴は最も整頓が必要である。 小阪部塾では、論語と詩経を奇数日と偶数日に分けて、毎朝塾生に講義する。春秋左氏伝を隔日で塾生に輪読させる。日本外史、史記、資治通鑑、韓非子、荘子などを自習した後、質問を受ける。その他、経史や伝習録の類は時に応じて講義する。校禁として、理由がなく座敷を離れること、就寝時以外に横になって寝ること、用もなく門外に出る事、金銭の貸し借りをすることなど16カ条を掲げ、守ることができないと思う塾生は自ら退寮を申し出る事が決められていた。 閑谷学校では、陽明学を主とし朱子学を適宜とりいれること。文字、字句の注釈は清の時代の学術によること。歴史学は、日本史・東洋史・西洋史と順序良く学び特に政治制度を研究すること。初等教育の時から日本・東洋・西洋の順に地理と歴史を学ぶこと。漢文には最も力を入れること。実力に応じて毎日または毎月の課題を設けるが、読解を主として文章力を身につけること。 有終館では3級まで進み優秀な者には公費で江戸に遊学でき、昌平黌への留学生は約20年間で13人いた。平素、四書五経の講義に当たって朱註によっていた。 学校制より閑谷学校の再興に尽力した。講義に来た際には、熊沢蕃山旧住居に庵を作ってもらい過ごした。 何館かに輿で出向いて講義した。晩年には体調を崩すことも多く負担を軽くする為に弟子が代わりに講義しましょうかと言うと、「私の教えを聞きたくて来ているから私が出ないと」と答えた。 遊学する者に注意として「目的を達成したら速やかに帰ること。無駄に時間を過ごしている者も多いので気を付けなさい」 遊学中、弟が窮乏を手紙で訴えたのに対し、学問にかける思いを「笑いものになろうが途中で死んでもかまわない。天下の力をもって動かそうとしても、私の志を動かすことはできない」と返している。 大阪の商人も「次の元締めは並みの人にあらず」と評価していて、藩邸の再建費用を出している。 「誠心より出ずれば敢えて多言を用いず」 「友に求めて足らざれば天下に求む。天下に求めて足らざれば古人に求む」 「自然の誠意より出でて財を積み国を富ませば王道なり。権謀術数を以て国を富ませば覇術なり」 「法律が改めることが難しいのではない。法律を行うことが難しいのだ。法律を施行して人々がその法律の下で安心して暮らせるようにする事が最も難しいのだ」 「決断は早くすること。遅れて良くなることはない」 「大信を守らんと欲せば、小信を守るに遑なし」 「義を明らかにして利を図らず」 「政治にとって最も大切な事は、誠意を尽くして人を思いやる心を持って取り組むことであり、初めから華やかな業績をあげようなどと考えないことである」至誠惻怛。 「文見るも、鋤もて行くも、一筋の、学びの道の、歩みなるらむ」 「財は天下に広めて、天下万民の用をなすに非ざれば、真に財を生ずるに非ず」 「国家を治るは、徳に非ざれば不可なり。才智の能く為す所に非ず」
※この「その他挿話」の解説は、「山田方谷」の解説の一部です。
「その他挿話」を含む「山田方谷」の記事については、「山田方谷」の概要を参照ください。
- その他挿話のページへのリンク