製造と運用
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「An-26 (航空機)」の記事における「製造と運用」の解説
1968年-1986年の間にキエフとウラン・ウデの工場において1,398機のAn-26各派生型が製造された。(この他、ライセンス生産ではないAn-26の無断コピーが中国で製造された。) これらの内420機が輸出に供され、アンゴラに24機、アフガニスタンに56機、バングラデシュに4機、ベナンに2機、ブルガリアに5機、ハンガリーに10機、ベトナムに50機、ドイツ民主共和国(東ドイツ)に12機、インド、イラクに2機、イエメン人民民主共和国(南イエメン)に8機、中国に54機、キューバに51機、ラオスに5機、リビアに30機、マダガスカルに3機、マリ共和国に2機、モザンビークに8機、モンゴルに8機、ニカラグアに5機、カーボベルデに2機、ペルーに16機、ポーランドに7機、ルーマニアに14機、シリアに6機、ソマリアに2機、チェコスロバキアに6機、エチオピア、ユーゴスラビアに15機が輸出された。この他、2機のAn-26がパレスチナ自治政府に供給された。 東ドイツ空軍のAn-26は、東西ドイツの統合に伴いドイツ連邦共和国のドイツ空軍に編入され、1994年まで運用された。何機かのAn-26がドイツ各地の博物館で展示されている。チェコスロバキアの崩壊ののち、チェコスロバキア空軍の保有したAn-26はそれぞれチェコに4機、スロバキアに2機という比率で分割された。ユーゴスラビアのAn-26は、連邦崩壊後クロアチアとセルビア・モンテネグロ(独立時はユーゴスラビア、セルビアとモンテネグロの分裂後はセルビアが継承)に継承された。独立国家共同体では、ロシア連邦、ウクライナ、ベラルーシ、カザフスタン、ウズベキスタンの各軍でAn-26が運用されており、加えて106機が航空会社で運航されている。 しかしながら、経年による機体の老朽化のため、退役も進んでいる。世界では1,168機のAn-26が運用されていたが、2006年8月時点では民間のみではあるが267機に減少している。ただし、運用会社は多岐にわたっており、2006年の時点で106社がAn-26を運行していた。
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製造と運用
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「ALP-45DP機関車」の記事における「製造と運用」の解説
各車ともドイツ・カッセルのボンバルディア工場で生産された。電化区間では架空電車線方式の電気機関車として、非電化区間では電気式のディーゼル機関車としての運転が可能となっている。 ニュージャージー・トランジットでは、郊外の非電化線区からディーゼル列車の通過が不可能なノース・リバー・トンネル経由でペンシルベニア駅への直通する列車への充当用に導入された。当初発注は26両、後に9両を追加発注して合計35両が投入されている。2012年5月30日に運用を開始した。電化区間では交流12.5kV・25Hzおよび25kV・50Hzの両電圧に対応する。 モントリオール大都市圏交通局では20両が投入された。2014年に非電化で開業したマスクーシュ線向けに導入され、ディーゼル列車が入線不可能なモンロワイヤルトンネル経由でモントリオール中央駅への直通用として運用されている。トンネルを含む電化区間では交流25kV・60Hzの架線集電で走行する。 NJトランジット モントリオール大都市圏交通局
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1931年(昭和6年)に、昭和天皇の即位の礼に用いられる馬車を輸送する車運車であったクム1形(クム27)からの改造により、試作車としてナ1形が1両製作された。その後、1950年(昭和25年)5月20日通達「車工第376号」による第二次貨車特別廃車の対象形式となり廃車となった。 続いて1932年(昭和7年)と1935年(昭和10年)のそれぞれ5両ずつ、同じくクム1形からの改造で量産車のナ10形が合計10両製作されている。新旧番号の対照は、次のとおりである。ナ10形は、1968年(昭和43年)まで在籍していた。 クム22 - 26 → ナ10 - 14(1932年) クム17 - 21 → ナ15 - 19(1935年)
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「プロイセン邦有鉄道P8型蒸気機関車」の記事における「製造と運用」の解説
最初の10両の発注は、シュヴァルツコップ(後のベルリン機械製造)に対して1906年に出された。14両の急行用客車を牽引した試運転は素晴らしいものであった。この型の最初の機関車は国際的にも有名となり、まずライン川地方においてケルン2401号の番号を与えられて運用に就いた。 初期に見つかった問題点として、動輪の車軸が小さすぎて軸焼けを頻繁に起こすこと、プロイセン流の箱型炭水車との連結が弱くて後進時に速度を上げると酷い揺れ方をすることなどの問題があったが、標準的な部品ですぐに修理ができたし、特別の技能を持つ機関士が要らず、色々な任務がこなせる「万能選手」の方が鉄道経営者たちに気に入られ、重大な改造もされることはなく量産が続けられた。 世界大戦後は敗戦国だったドイツが戦時賠償でフランス、ベルギー、その他東ヨーロッパ諸国に与えられたため、ヨーロッパのあちこちの場所で使われ、ドイツ本国でも量数が多く使い勝手がよかったため、最後のP8型が運用終了したのは東ドイツ国鉄では1972年、西ドイツ国鉄では1974年のことであったが、外国ではこの時点でもまだ現役がおり、500両以上のP8型が50年以上に渡って運用された。 P8型をもっとも多く生産したのはシュヴァルツコップ(ベルリン機械製造)で、1,025両を生産した。続いてカッセルのヘンシェルが742両を生産した。プロイセン邦有鉄道以外に、オルデンブルク大公国邦有鉄道が5両、メクレンブルク大公国フリードリヒ・フランツ鉄道が13両を購入した。また後に、ザクセン機械製造(ドイツ語版)やエスリンゲン機械製造(ドイツ語版)など、すべてのドイツの蒸気機関車メーカーがP8型製造に参加している。
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「ALP-46電気機関車」の記事における「製造と運用」の解説
2001年から2002年にかけて29両が製造され、ドイツ・カッセルの工場で組み立てた上でアメリカに輸出された。制御方式はVVVFインバータ制御でGTOサイリスタ素子を採用、出力は5,300kW、最高速度は161km/h(100mph)となる。 2009年から2011年にかけて、改良増備車のALP-46Aが製造され、36両が追加投入された。VVVF制御装置の素子がIGBTに変更され、出力は5,600kW、最高速度は201km/h(125mph)に向上している。
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「イギリス国鉄455形電車」の記事における「製造と運用」の解説
1次車の455/8形は、1982年から1984年[要出典]にかけて4両編成74本が製造された。2次車の455/7形は1984年から1985年にかけて3両編成43本が、最終製造の455/9形は1985年に4両編成20本が製造された。 2次車の455/7形以降は、1次車より警笛の設置場所と前面形状、ライト配置が変更されている。当初に3両編成で登場した455/7形は、付随車を508形より編入し4両編成となった。508形は313形と同じ1970年代設計の車体であるため、車体形状に目立つ差がある。 1996年以降のイギリス国鉄民営化後の列車運行会社での運用は、南西部方面がサウスウェスト・トレインズを経てサウス・ウェスタン・レールウェイ(英語版)、南部方面はコネックス・サウス・セントラル(英語版)を経てサザンと推移している。 サウスウェスト・トレインズでは2015年より走行機器の更新工事を行い、主電動機を交流電動機とし、IGBT方式のVVVFインバータ制御を採用した。
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「長野電鉄2000系電車」の記事における「製造と運用」の解説
1957年2月14日にA・B編成が納入、その後1959年11月19日にC編成、1964年8月1日にD編成がそれぞれ納入された。A - C編成は日本車輌東京支店(埼玉県蕨市、現存せず)で、D編成のみは東京支店が新幹線電車の開業前量産・103系・113系・115系・165系・東武8000系・小田急3100形「NSE車」・営団500形の大量生産の台頭で多忙だったことから、設計図を委ねて同社本店(愛知県名古屋市熱田区)でそれぞれ製造されている。 1957年(昭和32年)3月15日から、2000系を使用して長野 - 湯田中間の特急が1日5往復の運転で開始された。各列車にはそれぞれ「しらね」「よこて」「しが」「かさだけ」「いわすげ」という志賀高原にちなんだ列車愛称が付けられた。その後、列車愛称は「奥志賀」に一本化されたが、しばらくして案内や掲示物等には使われなくなった。 2000系そのものは1980年代まで「ロマンスカー」として広告され、当時の鉄道関係書の中にも当系列を「長野電鉄のロマンスカー」として紹介しているものがある。1990年代に入り小田急電鉄が「ロマンスカー」を商標登録したり、当系列の座席が集団見合い配置に固定され必ずしも進行方向前向きのロマンスシートではなくなるなどの流れの中でいつしか「ロマンスカー」の名称も用いられなくなっていった。 2000系はそれまでの旧型電車からは格段に向上した居住性と斬新な外観によって、長野電鉄のイメージアップに大きく寄与した。しかし、当初2000系は2本しか在籍していなかったため、予備車確保の必要から1日1本のみの使用という状態になっており、非効率なだけでなく増発にも事欠いた。 このため、1959年(昭和34年)にC編成を増備することによって1日に2編成使用可能となり、増発の余地が確保された。国鉄飯山線準急・急行列車への対抗として新たに1962年(昭和37年)3月1日から長野 - 木島間特急が野沢温泉にちなんだ「のざわ」の愛称で新設されたが、利用者が伸び悩んだため、設定からわずか3年後の1965年(昭和40年)4月にいったん廃止された。その後再び復活するものの、長野 - 木島間直通列車の設定中止によって完全に消滅している。 登場当時、長野電鉄ではその年の女性新入社員の中から身長の高い数名を選抜して「特急ガール」として乗務させ、出札(当時は座席指定制が取られていた)や沿線案内を行っていた。 観光客が年々増加するのに伴い、長野電鉄では特急電車のさらなる増備を計画したが、この際に当初名鉄7000系電車「パノラマカー」などと同様な2階運転席による前面展望電車「3000系」が計画された。結果的には当時はタブレット交換をしていたことなどから不適と判断され(名鉄では支線区でタブレット交換をしていても交換には鏡を用いた上でパノラマカーが使用されていた)、2000系の増備で済まされることになったが、その増備されたD編成は空気ばね台車やスカート装備など新しい試みが行われ、展望電車計画の片鱗ともいうべき要素を窺える。それから約40年後に前面展望電車である元小田急車が後継車として登場したのも奇縁であろう。なお、D編成が登場したところで特急車の本数が4編成となることから、A編成を3扉化し各駅停車用へ格下げする計画が生じたが、諸事情により取り止めとなっている。 その後、長野電鉄では専ら通勤形電車の増備や置き換えが進められたが、これを尻目に必要数を充足した2000系は特急列車を主として第一線で運用された。もっともこの間にモータリゼーションが進展したことで、長野電鉄は徐々に志賀高原への観光輸送の主力から外れていくことになる。 1980年11月1日に長野線長野 - 善光寺下間の地下化工事が完了したのに伴い、D編成が試運転の1番列車に充当された。 1981年(昭和56年)には長野線長野 - 善光寺下間が地下化され、これに先立って難燃化対策や誘導無線取り付けなどの改装が行われている。 長野電鉄では沿線の気候が比較的寒冷なこともあって車両冷房の導入が遅れたが、1989年(平成元年)にようやく2000系から冷房化が始められた。冷房装置は大型の集約分散式CU-113形を1両2基搭載、車内全長に渡るダクトから送風する。この際にファンデリアは撤去された。これに伴い補助電源装置は電動発電機から静止形インバータに換装、また2連窓は新しいユニットサッシ枠に交換された。前照灯は小型のシールドビーム1灯となり、内装も張り替え工事が行われている。これらの工事はすべて日本車輌の手によって翌1990年(平成2年)までに全車に完了している。 長野オリンピック開催が近づくと、前面種別・行先表示器はローマ字表記入りの字幕に交換された。中には「木島」の表示コマも用意されていたが、河東線信州中野駅以北の廃止直前に使われた程度だった。 1999年(平成11年)には、A編成のみ台車を営団3000系電車の廃車発生品である住友金属工業製のFS-510形S形ミンデン台車に交換し、制御機器類も変更され、性能が3500系・3600系と共通となった。また、この頃に全編成がワンマン運転対応改造を受けている。 2006年12月8日までは、B編成を除く3編成が長野線特急の全運用および一部の普通列車運用に充当されていた。座席についてはかなり以前から集団見合い式に固定された形で運用されている。 冷房化改造・塗装変更後の2000系(2006年5月 湯田中駅)
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製造と運用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 14:17 UTC 版)
「Tu-144 (航空機)」の記事における「製造と運用」の解説
Tu-144は、その大きさやカタログ性能面ではコンコルドをほぼ全ての面で凌駕していたが、Tu-144を運航したのはアエロフロートのみで、運航期間も短かった。 ソ連政府の指導により、コンコルドの営業運航が始まる1か月前(コンコルドの営業運航開始は1976年1月21日)の1975年12月26日、Tu-144はモスクワ - アルマアタ間の郵便貨物便として営業運航を開始する。当時のアルマアタはソ連を構成する共和国の一つ、カザフ・ソビエト社会主義共和国の首都であり、国内貨物線に超音速機を投入するという珍しい例であった。その後、1977年11月1日には同じくモスクワ - アルマアタ間で旅客輸送を開始する。 しかし、コンコルドよりも劣悪な燃費性能と乗り心地、経済性と信頼性の低さなどの問題により、わずか7か月後の1978年6月6日に運航が中止された。モスクワ - アルマアタ間での運航頻度は週1便のみで、他路線への投入もされなかったため、旅客便としての運航はわずか102便で終わった。 ツポレフは燃費向上のためイギリスから有償で技術供与を受けるなどしたが解決には至らず、生産数は原型機1機、量産型のTu-144Sが10機、性能向上型のTu-144Dが5機の計16機が製造されるにとどまった。生産機数の16機はコンコルドと同様であったが、2003年まで国際線で活躍したコンコルドと違い、上記のように16機全機が活躍したか疑わしいものであった。
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製造と運用
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製造初年度となる2006年度は、1次車として6両編成1本と2両編成2本の合計10両が新造された。10月上旬より順次尼崎車庫に搬入され、報道陣向けに公開された。当初は2006年度中に営業運転を開始する予定であったが、11月のプレスリリースの時点で「2007年春以降に営業運転開始」と、当初予定からずれ込む旨の発表があった。2007年度末までに20両を新造し、開業までの3年間に合計約70両を投入すると発表されていた。 車籍編入は新年度以降となり、1201Fが2007年6月4日に、1501Fと1502Fが6月8日に竣工となった。搬入以降は夜間に試運転が行われていたが、6月には日中の本線試運転が開始された。同年9月までに山陽姫路駅にも試運転で入線した。9月26日深夜には武庫川線で2両編成の試運転を実施。 営業運転開始を前に、2007年9月には試乗会が行われた。試乗会は9月13日に報道陣向けに、同年9月17日に一般向けに開催。 2007年10月5日から営業運転を開始し、梅田駅では出発式が開催された。6両編成は当初は梅田駅 - 須磨浦公園駅間のみの運用であったが、2007年11月26日に山陽電鉄の東二見車庫へ回送、2008年1月21日に直通特急として初めて山陽姫路駅に入線した。増結用の2両編成は2本併結の4両編成で西大阪線の運用に充当されていた。2009年1月23日から新線区間の試運転を兼ねて本系列と9000系の6両編成に変更されたため、4両編成は尼崎駅構内での増解結訓練に使用されることとなった。 2008年3 - 4月には、1202F・1203Fの6両編成2本および1503F - 1506Fの2両編成4本の計20両が増備された。1000系は阪神なんば線開業を控えて順次増備が進められた。 阪神なんば線開業を翌年に控えた2008年より、1000系の近鉄奈良線内での試運転が開始された。同年4月上旬、1503F + 1504Fが阪神なんば線のPRラッピングとヘッドマーク装着を施した後に近鉄高安検修センター(高安検車区)に陸送で搬入され、5月20日より大和西大寺駅 - 東花園駅間(一部は東生駒駅 - 東花園駅間)で試運転を開始した。同時期には近鉄直通改造工事を受けた9000系9201Fも近鉄線に搬入され、6月より1000系と同じ区間で試運転を開始している。 8月23日には、西大寺検車区にて1000系の撮影会と試乗会が行われた。撮影会では近鉄9020系の相互直通PRラッピング車と並べられ、撮影会終了後は西大寺検車区→東花園駅→大和西大寺駅での行程で試乗会が実施された。 2009年1月11日深夜、1503F+1504Fは9000系6両編成と併結した10両編成となり、近鉄の大和西大寺から阪神の尼崎まで回送された。1503F+1504Fは同月17日より西大阪線の運用に復帰している。 2009年3月20日に阪神なんば線が開業し、1000系は近鉄への直通運転を開始した。三宮駅 - 近鉄奈良駅間の快速急行を中心に、尼崎駅 - 奈良駅間の急行・準急・区間準急・普通で運用もある。運用上の都合から、近鉄線内完結の列車にも使用される。本線系では直通特急や須磨浦公園駅までの特急、区間特急や急行などで運用される。 2両編成の増結車は快速急行での尼崎駅解結運用が主体であるが、3ユニットを連結した6両編成での運用も可能で、運用上の都合による代走や、阪神甲子園球場での野球開催時の臨時特急などでの運用実績がある。 2009年3月20日時点で、基本編成である6両編成10本 (1201F - 1210F) と増結編成である2両編成9本 (1501F - 1509F) 、合わせて78両が在籍し、阪神の車両系列としては、8000系に次ぐ両数となった。2009年度は6両編成1本 (1211F) 、また2011年度にも6両編成2本(1212F・1213F)が製作された。総数は当初予定を上回り、2011年6月時点では6両編成13本と2両編成9本、合わせて96両が在籍している。 1000系の増備による代替として、7801形、8901形、2000系がそれぞれ全車廃車となった。このうち、8901形は西大阪線延伸を見据えて製造された3801形を種車とする車両であったが、阪神なんば線開業目前の2009年2月に廃車となった。 訪日外国人客への対応として、2019年3月20日より阪神なんば線の列車で多言語の車内自動放送が導入されることとなり、自動放送に用いる携帯タブレット端末へのコネクタを車掌側に取り付ける改造を行った。 過去に「きんてつ鉄道まつり」で本系列が展示されたことがあり、その際は五位堂検修車庫への回送のため通常は走行しない近鉄大阪線を走行している。
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