製造に至る経緯
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「国鉄EF58形電気機関車」の記事における「製造に至る経緯」の解説
60が東京芝浦電気製造(現・東芝インフラシステムズ)、製造番号301256で1953年(昭和28年)7月27日付落成国鉄納入後、浜松機関区へ1953年(昭和28年)7月30日付で新製配属。 61が日立製作所製造。1953年(昭和28年)7月9日付落成国鉄納入後、東京機関区へ1953年(昭和28年)7月17日付で新製配属された。 61は日立へ、60は東芝へお召し列車牽引専用機関車としての指名発注)であるため両社は名誉を懸けて製造・点検・社内試験も入念かつ厳重に行われ、極めて良好な状態で国鉄に納入された。予算は一般の本形式より130万円高い6,300万円であったが、上記の特別仕様や製造工程により、両社ともに金額は不明ながら大赤字を覚悟の上で受注・製造をしたと伝えられている。両機は製造ロットでは第3次増備車として製造されているが、61の製造予定会社は本来は東芝に割り当てられており、日立に割り当てられていた当該ロット最終番号は54であった。東芝が60を専用機関車に付与する予定にしていたため、国鉄本社の指示で日立車と連番となるように、東芝61と日立54の車両番号を交換して日立61、東芝54と製造された経緯がある。そのため本来なら61になる予定であった車両はその後54として(1953年(昭和28年)7月12日東芝)落成したため53(1953年(昭和28年)5月28日 日立)・55(1953年(昭和28年)3月12日 東芝)より落成日が遅くなった。 それまでお召し列車牽引用の電気機関車としては、1934年製造のEF53 16・18ならびに1937年製造のEF56 6・7がそれぞれ重連で用いられていたが、車齢が高い上にEF53形は暖房用ボイラーを未搭載であることから冬期には暖房車を連結する必要があり、東海道本線電化延伸に伴う長距離運転では旧式なプレーン・ベアリングゆえ摩擦で車軸が過熱する恐れがあった。 このため、お召し列車運用を前提として、最初から「お召列車けん引に関する特別装備を有する車両」として量産機ながら特別に製作仕様書が作成されて発注製造された機関車である。本機の就役により、EF53形およびEF56形は1954年にお召し列車の牽引の任から解かれ他区所に転出するなどし、一般列車牽引にあたることとなった。
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製造に至る経緯
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北方線においては、同路線を敷設した小倉電気軌道より承継した経年の高い木造4輪単車(300形301 - 317)が長年にわたって主力車両として運用された。しかし1950年代後半より小倉市(現・北九州市)中心部の南側では住宅団地の建設が進み人口が増加すると、小型の2軸単車では輸送需要をまかない切れなくなり、北方線に当時2両のみ在籍した2軸ボギー車321形を加えてもなお輸送力不足が生じた。 このような輸送状況を改善するため、1956年(昭和31年)には2軸ボギー車323形を2両新製し導入したが、翌1957年(昭和32年)以降は西鉄における各路線において輸送力向上に一定の実績を有した連接車を導入し、老朽化が著しい木造4輪単車を全面的に代替することとなった。本形式は以上の経緯により設計・製造され、1957年(昭和32年)から1964年(昭和39年)にかけて、計13編成26両が導入された。 各部の設計には同時期に新製された1,435 mm軌間路線向け連接車である1000形電車との共通点が存在するが、本形式は車両限界の狭小な北方線用に設計されたことから、車体幅が縮小されるなど専用設計が多く取り入れられ、前後妻面を大きく絞り込んだ特徴的な車体形状は「ヨーロピアンスタイル」とも評された。 編成は北方側の車両をA車・魚町側の車両をB車とし、車両番号は第1編成を例にとると「331A-331B」のように付番され、同車番のA車とB車の2両による2車体3台車連接固定編成を組成した。以下、編成単位の記述に際しては、331A-331Bの編成であれば「331AB」のように記述する。 車番製造メーカー備考331形331AB・332AB 川崎車輌 量産先行編成 333AB - 341AB 日立製作所 342AB・343AB 九州車輌 初回落成分となる331AB・332ABが川崎車輌(現・川崎重工業)において新製されたのち、1959年(昭和34年)から1963年(昭和38年)にかけて落成した333AB - 341ABの計9編成は日立製作所において新製された。また、最終落成分となる342AB・343ABの2編成については発注コスト削減を目的として地元企業である九州車輌において新製された。 本形式は終始北方線において運用され、同路線が廃止となった1980年(昭和55年)まで在籍した。
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製造に至る経緯
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「富山地方鉄道14790形電車」の記事における「製造に至る経緯」の解説
富山地方鉄道(富山地鉄)は富山県内各私鉄等の戦時統合で1943年に成立した企業であるが、その鉄道路線網の大部分は、富山市から宇奈月温泉に至る「本線」を中核として富山県東部に広がる直流1500V電化区間で占められている。 戦後復興が進展し、宇奈月や立山への観光開発が興隆しつつあった1950年代前半時点でも、本線系統では旧・富山電気鉄道をはじめとする合併各社出自の種々雑多な戦前製低出力車が主力として混用されている状況にあった。見るべき性能の車両としては、1948年製の運輸省規格形電車(A'形)である14750形が最新型としてわずかに存在するのみであった。 富山地方鉄道成立に至るまでに大きな役割を果たし、当時同社の会長の地位にあった佐伯宗義(1894-1981)は、このような状況下でも「裏日本は表日本に卑下するのではなく、表日本と同一か、それ以上の設備をするべきだ」という持論を持っていたとされ、その意向を受けて担当各部門では最新の電鉄技術の研究が進められていた。 こうして、世相の安定に伴う立山の観光開発と連動する形で画期的な新型車の製造が1955年春に決定された。 従来、富山地方鉄道では富山電気鉄道時代からの取引もあり、車体や台車は日本車輌製造、電装品は東洋電機製造に発注されていたが、本形式の計画中には変電所設備でやはり富山電気鉄道時代より取引のあった三菱電機も電装品受注に向けて強力に営業活動を展開し、東洋電機製造との間で熾烈な受注競争が繰り広げられたという。 だが、1955年の時点では三菱電機は未だに1067mm軌間の鉄道で実用可能な出力が得られるWN駆動方式に対応する電動機、およびその継手を完成していなかった。このため、主電動機とその駆動システム、それに制御器については当時既に南海11001形において、狭軌での75kW級電動機による中空軸平行カルダン駆動方式を実用化していた東洋電機製造に軍配が上がった。もっとも、ブレーキについてはウェスティングハウス・エアブレーキ社(WABCO)との長い技術提携の歴史を持ち、また営団300形電車などで最新の電空同期ブレーキシステムの実績を残しつつあった三菱電機の電空併用自動空気ブレーキシステムが採用された。 このように最新の機器を搭載し、また車体の徹底的な軽量化を実施した本形式は、最高速度100km/hで電鉄富山 - 宇奈月温泉間を50分で走破可能とする、画期的な高性能車として完成した。
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